肆 「お互いに友達だと思えば、友達だよ」 2
バス乗り場でバスを待っている間、私は双六君に色々と話しかけてみた。
丁寧な言葉遣いや、穏やかな所作から察するに、勝手な妄想ではあるが、双六君はきっと大企業の御曹司だろうと決めつけていた。
私はその思いつきが合っているのか、確かめたかった。
「ねぇ、海水を買ってどうするの?」
「かけます」
「……」
―――ギャグだよね?
「お魚って、海に住んでいて、海水を飲んでいるんですよね」
「あぁ~。魚か」
早とちりだった。
確かに、人にかけるだなんて、一言も言ってないじゃないか。
「ペットを飼ってるんだね。でも金魚とかメダカに海水をあげちゃ駄目だよ」
「でも、いつも海水をあげると、生き返るんです」
―――そんな不思議生物、私は知らない!
落ち着いて環。これも何かの早とちりよ。
きっと、魚じゃなくて、蟹とか海老とか鮫とか、もしくは、私が知らない希少な動物よ。
アフリカの私が知らない魚とか、アマゾンの珍しい魚よ。きっと。
そうよね。さっき、双六君は大企業の御曹司だって言ってたじゃない。妄想だけど。
「環さん? 目が渦巻きになってますけど、大丈夫ですか?」
「平気だよ。私、目が渦巻く体質だから!」
混乱しすぎて、訳わかんないこと言っちゃってるよ!
取り乱した心を穏やかにして、私は双六君に逆に質問して話を反らした。
「お父さんはどんな仕事をしてるの?」
「…カウンセリング?」
疑問形が気になったが、下手に深く掘り下げることは止めよう。
「お母さんは?」
「寝転がっています。家から一歩も外に出れないから」
病気なんだろう。寝転がっていますというのが、少し気になるけれど。
これも、言葉のボキャブラリーが少ない小学生特有の会話だと思えば、不思議なことはない。
「ふ~ん。どこに住んでるの?」
「それは、言えません。すみません」
「そうだね。ごめんね」
さすがにプライベートすぎる質問だったか。
私が反省していると、双六君は取り繕うように、私にこう言った。
「でも、家は大きくて、和風です。畳とか、襖とか…」
自分が言える範囲で答えようとする健気な少年。この子に何としても、海水を取らせてあげよう。私は心に誓った。
双六君の純真さにメロメロになっていたら、バスが来た。
私は記憶喪失で一度、バスの経路を全て忘却してしまったが、頑張って覚え直した。
母親は私がバスの経路を覚えたのを見て、びっくりしていた。どうやら記憶を失う前の私は、物覚えが悪かったらしい。記憶を失う前と後では、頭のデキが違うようだ。
「このバスですか?」
「そうだよ。お金は心配しなくてもいいよ」
「でも…」
「いいから、いいから。気にしないで」
私のポケットの中の財布には、少し多めにお金が入っている。
何かの拍子で、帰る道を忘れてもいいようにと、父親が私に持たせた、タクシー代とかが入っているのだ。
私と双六君はバスに乗ると、隣同士に座った。双六君が窓側。
「双六君は、今何歳?」
「十二歳です」
「じゃあ、六年生だね。学校は楽しい?」
「学校には行ってません」
登校拒否児童なのだろうか。
「学校が嫌い?」
「…わかりません。でも、僕はうまくやっていける気がしません」
「そんなことないよ」
「だって、僕、皆と違って、変わってます」
確かに言葉使いや態度は、小学生と明らかに違う。
小学生はそういうのに敏感で、普通と違う所を見つけると、それをからかってしまう。そして、いじめに発展する場合もある。
でも、双六君の言ってることは間違っている。
「皆と同じ人間なんかいないよ。それに皆と違っている所は個性だよ。君が大切にしなきゃいけない物」
「個性?」
「そうだよ。それにね、私、記憶喪失中なの」
「記憶喪失? 記憶がなくなっちゃったの」
「そう。全部ね」
「全部…」
さすがに驚いたのか、双六君は唖然とした表情で私を見つめる。
「記憶喪失の私でも、学校に通えてるんだから、きっと双六君も大丈夫だよ」
「…ありがとうございます」
「ん?」
「いえ、ちょっと勇気をもらいました」
嬉しいことを言ってくれる。
私は急激に双六君のことが気に入った。
そして、調子に乗ってしまった。少し虐めてみたいという欲望が生まれたのだ。
「でも、直さなきゃならない所は直さないとね。言葉使いとか」
「僕の言葉使いは変ですか?」
「丁寧過ぎるって言うか、杓子定規って言うか、もっと砕けた感じでいいと思うよ」
「砕けた感じと言われましても…」
「その中年サラリーマンみたいな喋り方を変えようってことだよ」
「中年サラリーマン…」
少しショックだったのか、双六君は目を大きくして口をポカンと開けた。
そして、俯くと、膝を丸めて体育座りのポーズを取る。
「…中年…サラリーマン……」
あまりにも痛々しい落ち込みに、私の中で罪悪感が膨れ上がり、私を圧迫する。
やべぇよ。可愛い絵だけど、罪悪感で死にそうだよ。
私は自分の冷や汗を感じながら、失言をフォローする。
「いやいや、でもね。小学生が使うと、何て言うか、カッコイイと思うな~。うん。しっかりした子だなって思ったもんね」
「……本当?」
涙目で上目遣いでこちらを見る双六君。
その表情は、頬をぷにぷにしたくなるぐらい愛らしいのだけれど、私はそれを自制して、頷きながらフォローを続ける。
「そうだよ。私の子供の頃なんて、そんなにしっかりとした話し方はできなかったよ~」
「記憶喪失で、全部の記憶がないんじゃないの?」
しまった! 自分よりも五歳も年下の子供に見破られてしまった。私はあははと苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
双六君は元の体育座りのポーズに戻り、両膝に顔を埋める。
亀とか蝸牛とかヤドカリのように、自分の殻に閉じこもってしまった。
「あの…双六君?」
「……」
返事が返って来ない。これは完全に私のミスだ。
どうしたものか。私が腕を組んで考えていると、意外なことに、双六君の方から声を掛けてきた。
「…喋り方」
「ん? 何?」
「僕に喋り方を教えてください」
「……」
双六君の中での葛藤は推し測れない。今まで貫いてきたポリシーと世間からの風評。その二つを天秤に乗せて、出した答えが、ポリシーを曲げることだったのだ。
そんな訳ないが、それでも、私が小学生に言葉使いを教えてもいいのだろうか? 双六君のように、ちゃんと躾がされている子供に、己の価値観の塊とも言える言葉使いを教えていいのだろうか。
私の葛藤は凄まじかったが、それでも双六君の半泣きの顔を見ると、断ることができなかった。
私が出した結論。それは、当たり障りがないことを言うことだった。
「えっとね、言葉使いは相手によって変えるべきものだと思うの」
「相手によって、変える」
「友達に挨拶する時は、気軽に「やっほ」とか、「うっす」とか、言うけど、お父さんとかお母さんとか先生とかに挨拶する時は、「おはようございます」だよね?」
「…はい」
双六君は頑張って、私の言うことを理解しようとしていた。
誤魔化そうとしている私の胸には、さっきとは別の罪悪感が生まれる。
しかし、引き返すこともできず、私の日本語講座は続く。
「大人との話し方は、今まで通りでいいと思うの。でもね、友達と話す時はもっと肩の力を抜いて、フレンドリーに話したほうがいいよね」
「はい。わかりました」
「じゃあ、実践だね。私に話しかけてみて」
「環さんは、大人じゃないんですか?」
丸い瞳をパチクリさせて質問する双六君。これぐらいの子供からすれば、高校生は大人なのだろう。
私は老いという凶悪な言葉を脳内でチカチカするのを無視して、双六君に聞き返す。
「私は大人だけど、双六君と私は友達だよ?」
「…友達。でも環さんは僕よりもずっと年上ですよ?」
「双六君は私のことを友達だと思ってないの?」
「そ、そんなことは、ないですけど…」
「友達でもいいじゃん。お互いに友達だと思えば、友達だよ」
「…はい。わかりました」
説得終了。ゴリ押したような感覚があるが、今はそれを脇に追いやる。
「なら、…環さんの好きな食べ物はなんですか?」
「堅い。それから私のことは環姉さんね」
私は調子に乗った。
しかし、双六君は純人無垢で、私の要望にすぐに答える。
「環姉さんは、食べ物、何が好き?」
「ビーフシチューだよ。双六君は?」
「僕は、オムライスで…だよ」
オムライスですと言いかけたけれど、双六君は思い留まった。大きな進歩だ。
「それじゃあ、もうちょっと砕けた感じで、挨拶をしてみよう」
「砕けた挨拶……oh yes?」
双六君の砕けた感じが面白かった。
「例えば、こうだよ。双六君、やっほー」
「やっほー…?」
自信がないのか、語尾が掠れてしまっていたけれど、双六君はちゃんと挨拶を返してくれた。よしとしよう。
私自身、ひーちゃんとアイちゃんに、フレンドリーな話し方をしよう、と言われているので、フレンドリーな話し方はお手の物だ。
「よし、今日から双六君は言葉遣いを使い分けられるね?」
「はい。環姉さん」
思わずハグしてしまいたいという衝動が私の背中を押したけれど、ここはバスの中、公共の場ということで自粛した。
双六君と話していたら、時間は早く経つ。次が下りる駅。
私は財布からバスカードを出して、双六君に、次で降りるよ、と伝える。
バスから降りると、視界には季節外れの寒々とした海原が広がっていた。




