ガラスの靴
『審査は試合とは違う。打ったら落ちるぞ』
高段審査に挑む者に、師匠が口を酸っぱくして説く言葉である。
どこの道場でも耳タコ話だろうが、実際に具体的にどこがどう違うのかを言語化して説明するのは、意外と難しい。
初段から五段までの地方審査ならば、正しい着装と姿勢を崩さず、立ち合いで歩合良い勝負ができれば合格するだろう。
低段者なら、大きな声を出して、伸び伸びと。自分から大きく打って行った方が通る。
しかし、全国審査となれば、様相が異なるのは前述した通りだ。
試合では有効打突の要件を満たしていれば旗が上がるが、昇段審査に於いてはその限りではない。
歩合良く、打つことができるのは当然の前提として、如何に打突したかという過程が問われるようになるのだ。
同じ一本でも、その中に軽重貴賤あり。
隼人は前回の不合格の原因を、技を出すまでの過程を軽視して、拙速に打ち過ぎたことであると分析してみた。
齊木ら、周囲の高段者の意見も概ね同様である。
己の分析を、隼人は師匠の德丸館長にも問うてみたが。
「貴方がそう思うのなら、きっとそれが原因なのでしょう」
館長の德丸は、正とも否とも答えず、そのような事を言った。
守破離――教えを聞き、教えを破り、教えから離れる、という師弟の関係の三段階。
ある程度長く師事している者に対しては、德丸は明言を避け、謎かけのような事をいう。
それは、己自身で考えろという意味であるだろうし、これまでの教えの中に答えは既に伝えてあるということだろう。
剣禅一如という言葉があるが、若き修行時代に臨済宗の寺院に参禅したという德丸の指導法は、どこか禅宗の公案じみている。
『直指人心見性成仏』
道場の入り口には、德丸が直指館から譲り受けてきた横看板が隼人を見下ろしていた。
自分のありのままの心を見つめることが、仏の心に近づく道である、という意味の教えだ。
隼人はこの言葉の意味を知っていることを密かに自慢に思ったが、禅語の通俗的な意味を知るだけで喜ぶなんて、禅の心持とは最も遠い所にあるとも自分を戒めている。
さて。
9月に実業団剣道大会も終わり、この年の隼人の競技者としての大きな試合は概ね全て終了した。
実業団剣道大会で隼人の会社は2回戦で敗退したが、相手があの強豪のDX金属株式会社では如何ともし難い。
全日本予選も終わった隼人は、競技者としての自分の剣道は一旦横に置いて、11月に東京で開催される七段審査に専念することにした。
基本打ちの回数を増やし、技のパターンと攻めのパターンを試行錯誤する。
攻めと技の組み合わせで、技は千変万化する。全国審査には相当な実力者も参加する。
同じ打ち方、同じ攻め方では二度通じないような相手も存在するのだ。
七段審査の実技試験は1分30秒。ストップウォッチは双方が礼をした瞬間から開始される。
実質の立ち合い時間は――約、1分と10秒。試合時間に比べて余りにも短い時間の中で、審査員を魅せる打突を繰り出さねばならない。
八段の審査員6人。七段に合格するためには、その中で4人以上に丸を付けて貰う必要があるのだ。
高段審査には、これをしたら落ちるというジンクスが数多く存在する。
曰く。
胴を打とうとしたら落ちる。
鍔競りから引き技を出したら落ちる。
突きを打とうとしたら落ちる。
竹刀を落としたら落ちる。
二刀で受審したら落ちる。
派手な剣道具で受審したら落ちる。
それらには、聞いて尤もと思うような教えも多い。
反面『いやいや、それは使った者が下手くそだったから落ちたのだ。上手く使えば、寧ろ力量の証明になる』という意見も存在する。
隼人も、様々な講習会で、竹刀を落したが非の打ちどころない挙措で拾い上げて合格した話や、突き一本で八段に合格した話などを、高段者から聞かされたことがある。
二刀の山國が尊敬する剣士の藤﨑八段も、赤胴に二刀という一般の感覚からは傾いているとしか思えない姿で審査会場に現れ、見事合格したという。
……でも、これらはあくまで、卓越した技倆を持つ人間の話だ。
多少腕が立つ程度の人間である、と自認している隼人は、危ない橋は渡らずに、無難に相手を引き出して出頭の面で一本を取ろうと心に決めていた。
昇段審査に於ける、最もスタンダードな選択肢だ。
摺り上げ技のような玄妙な技を使えば、勿論審査員からの心証もいいが力量の離れた相手に成功させる自身がなかった。
前回の京都審査の一人目のように、弱い相手と当たるような都合のいい事はまずないだろう。
いや――自身の実力を示すには、どこを打っても当たるような弱い相手ではそれも困る。
相応の相手と立ち向かい、見事打ち破ってみせてこそ、審査員の心も動くというものだ、と隼人は胸中で兜の尾を引き締める。
◇
県の剣道連盟の高段受審者講習会を受講した折、元同級生の村枩と同じ組に配属された。
全日本選手権予選で手も足も出ずに敗れた苦い記憶が蘇るが、模擬審査の相手としてこれほど良い男は他にいない。
「あれ以来だな、水﨑。七段審査は初めてか?」
「いや、恥ずかしながら京都は落ちた。次が二回目だ」
「そうか。俺はこれが初めてだ」
村枩の誕生日が、自分より半年遅れだったことも久方ぶりに思い出した。
「そうか、水﨑、お前が落ちたというなら、俺も気を引き締めていかないとな」
顎に手を当てて神妙な顔をする村枩だったが、「いや、お前は多分通るだろう」胸中でツッコミを入れる隼人だった。
どれ程の腕があっても、村枩は謙虚で慎重だ。
対して、隼人には村枩よりも腕が劣るにも関わらず、自分には受かるだろうという慢心があった。
今度こそ慢心は捨てる。けれども、自分は絶対に打てるという自信と気迫は捨ててはならない。
二律背反に挟まれた心の均衡を保つことこそ難しかった。
――村枩との模擬審査が始まる。
構え合った竹刀の先革が触れ合う。――ここだ。ここからだ。ここのみだ。固く締め付けられた面紐の下で、隼人の脳裏に熱い血が流れた。
打った、打たれたとは、そこまで積んだ間合いの攻防の帰結でしかない。
極論を言うなら――何を打つか、どう打つかなど、どうでもいいとさえ隼人は思っている。
この僅かの間を如何に入るか。如何に作って打つかの勝負だ。
導火線が火で焙られてチリチリと短くなって行くような焦燥。
向いあう村枩の一挙手一投足に体が跳ねそうになるが、押さえつけ、左足をネコ科の動物のように僅かに緩めて、右足を床に滑らせるように前に進める。
鎬を削り合う竹刀が、焦げ臭さを放つ程の勢いで摺り落される。
――来る。
意識より速く、隼人は村枩の出端に面を投げ込んでいた。
右足を攻め足として前に出しつつ、左足に十分な溜めを作っていたからこそできた技だった。
相面の形になったが、隼人は伸ばした両の腕を戦艦の衝角のようにして村枩にぶつかっていく。
それは相手も同様で、互いの胴と面金までが激しくぶつかった。
鍔競りの形から、互いに間合いを切って別れる。
打てた。久しぶりに、村枩を相手になる一本となる面に乗れた。
高揚感を胸中で抑えつける。評価されるような一本を出せたのなら、無理に追撃をする必要はない。
無理なく無駄なく無法なく。相手の技を捌きながら、かと言って守りにも入らず、場を支配し続ける。
――隼人は、楽しかった。
◇
11月、 東京都八王子市エスフォルタアリーナ八王子。
隼人は満を持て二度目の八段審査に挑戦した。
会社が終わると稽古に向かう日々の繰り返し。道場の合鍵を借りている隼人は、残業の日さえ道場に寄って素振りをする程の徹底的な追い込みを行った。
基本打ち、地稽古は徹底的に実技審査を意識して行い、冢本や燕を捕まえてはかかり稽古の元立ちを頼んだ。
形は師匠の德丸にも幾度も指導を受けている。実技さえ通れば、形で落ちる心配は少ない筈だ。
泊まったのは狭いホテルの部屋だが、早起きして木刀を握って心身を整えている。
九州住まいの隼人は、東京を訪れるのは久方ぶりのことである。
見上げる程大きな会場のエスフォルタアリーナに、剣道具と竹刀を携えた受審者たちが、険しい顔付きで集っていく。
――これが、東京審査か。
九州の地元の田舎で地方審査を。六段を福岡審査で合格審査で合格した隼人にとって、かつてない参加人数の参加者に、思わず背筋が伸びる朝であった。
「よう、水﨑」
知人の顔を見つけた村枩が、手を気負いのない顔で手を振った。
村枩とは審査前の準備運動として、軽い稽古をするように打ち合わせをしている。
高段受審者講習会の折にLINEの交換を持ち掛けられた時は、一体何かと驚いたものだ。
「よく眠れたか?」
「ああ、問題ない」
知り合って長いが、この男との会話はいつも長くは続かない。
高校生の頃から、必要ではないことは余り口にしない男だった。
だが、共にいて心地の良さを感じる。
面を付け、軽く切り返しと面打ちを流して稽古を終えた。
村枩は二本足の碁盤刺しの胸に乾漆塗りの黒胴という落ち着いた出で立ちだ。
隼人も、使うのは夏以来になる総刺しの黒胴の表面を手拭で磨いた。
「それでは、検討を祈る」
「ああ、お前もな」
軽く拳を合わせて、村枩と別れた。
隼人は『錬心館 水﨑』と記されている垂れのゼッケンを外し、受付で配布された受験番号のステッカーを貼り付けた。
『64D』それが隼人の番号だ。これから隼人は、水﨑隼人という一剣士ではなく、64D番という受審者として扱われることになる。
村枩の番号は98Bだった。昇段審査では、実技審査の立ち合いの相手は近い年齢で組むのが慣例である。
誕生日が隼人より遅い村枩は後に受審することになる。
実技審査は、受審者を番号順にABCD順に四人組や五人組で区切り、1A番と2B番、2B番と3C番、3C番と4D番、4D番と1A番――というように、一人二回ずつの立ち合いを行っていく。
隼人は16組目の最終番。63C番と、61A番を相手に立ち合うことになるのだろう。
――相手の番号が分かってしまえば、探したくなってしまうのが人情というものだ。
だが、隼人は村枩とのアップで整えたメンタルを崩すのが嫌で、その誘惑を無理矢理に断ち切った。
目を半眼にして静かに心を整えれば、試合場の喧騒も遠ざかり、緊張も不安も、なだらかに収まっていく。
悪くない心地だった。
村枩の立ち合いが目に入る。風格のある堂々とした構え、機を捉えた打ち。
やっぱりな、という安堵に、少しだけ嫉妬が混じる。
俺も、あんな風に立ち合うんだ。
そう決意して、審査場入りをする。そして、目の前に立つ壁のような男を見た。
短く刈り揃えられた髪。おそらく190を超える見上げるような長身。広い肩幅と、分厚い胸板。
その男は、落ち着いた顔立ちで緊張した様子もなく審査の様子を眺めていた。
一分五厘の手刺しの剣道具と、獅子鼻も見事な二号胸は、昇段審査に持ち込むにはやや古い意匠にも見えるが、七段受審者にして既に八段のような雰囲気を纏っているその男には、よく似合っていた。
63C番。垂れに貼られたその番号を、隼人は見た。見てしまった。
――き、切畠選手! 間違いない、切畠正義選手だっ! この人も来ていたなんて……!
切畠正義。それは、剣道界の怪物の異名である。
隣県の機動隊員で、全日本選手権への出場回数は実に13回。その全てで台乗りに辿りつき、優勝すること実に3回。
間違いなく九州最強の剣士であり、隼人と同じ35歳になった今も、全日本選手権の出場権を若手に譲らない。
もう故人であるが、彼は九段十段の制度が残っていたら間違いなく推薦されただろう、と言われた程の高名な範士の祖父を持ち、幼い頃から鍛え上げれられてきたという。
同じ世代で学生時代から知らないものはなく、隼人にとって憧れそのものの相手だった。
どんな難敵が相手でも、堂々たる立ち合いをしてみせる――そんな覚悟は持ってきた。
だが、憧れのその先にいるような非現実な相手に、一体どうすればいいのか。落ち着いていた隼人の心臓は、早鐘のように拍動した。
――打てるか。この人を。
見上げるような長身。隼人と目が合った切畠は、軽く頭を下げた。
何度も想像したものだ。全日本に出場して、武道館という舞台で切畠選手と立ち合う己を。
勝てないまでも、一矢報いて賞賛を浴びる――そんな空想が、いかに稚拙だったかを、隼人は今、まざまざと思い知らされた。
眼前の相手は、静かに横たわる虎のような威容を放っている。
面に飛びかかってきた所を、長身の脇の下を潜って胴を抜く。小手を抜いて大技で面を打ちこむ。面を摺り上げて面を叩き込む――
様々な勝ち筋を想像するが、どれも切畠が失策をしたという自分に甘い想定の中ですら現実味を保てない。
それは、熊をどう殴れば倒せるのか想像することにすら似ていた。
どうする――どうする?
胡乱な心をまとめることが出来ぬまま、隼人は審査場に入場し、立会人に導かれるままに並んだ。
そして、気づけばラインテープで方形に区切られた審査場に立って、62B番と並んで63C番の切畠を相手に立ち合い開始の礼をしているではないか。
開始線に向かい、蹲踞をする。
幾度となく行った模擬審査によって、体だけが動いていた。
「はじめっ」
その声を聞いた瞬間、隼人は喉が枯れんばかりに声を出して、一歩前に踏み出した。己を鼓舞する声だった。
高段審査では、発声のタイミングすらも駆け引きの対象になる。相手よりも先に声を出して、相手よりも先に打っていけ――隼人が髙田に教えたような、初心者向けの基礎が通用する段階ではないのだ。
攻め込みつつ、相手が声を発そうする刹那を見切って、相手の発生に己の声を被せて機先を制す――そんなやり取りが求められるレベルである。
だが、隼人は想像を遥かに超えた難敵を前に、幼い頃から繰り返して基礎の基礎に敢えて立ち返ることで、己を保とうとした。
けれども――隼人の気迫の声は、遥か頭上の絶壁から吼える虎の咆哮が如き切畠の気迫の声に、上乗りされてかき消された。
声一つ。
ヤ―と叫ぶ気迫の声一つで、ここまでの格の差が出るものなのか。
隼人の左足が僅かに下がり、体幹が後ろに傾く。
その瞬間を、勿論切畠は逃さなかった。
――隼人は、面は最短最速を至上とする。余計な振幅は切り捨て、カワセミが水中の魚に嘴を突き込むような勢いで面に飛び込むのだ。
対して、切畠の面は頭上から振り下ろされる野太い虎の爪だった。
切畠が竹刀を振り上げた瞬間、隼人は逞しい両の腕の間から、閃光を放つ眼力でこちらを見据える瞳を確かに見た。
面を被った頭部が、首から胴体にめりこんで沈むような強烈な勢いの面を食らった。
「あ、あ……」
いや、違う。頭はある。頭上に残る痛みも微かだ。あれ程の大振りの打ちでありながら、繊細な手の内の冴えで切畠は隼人の頭への衝撃を最小限に留めていたのだ。
頭を胴体に叩き込まれたと感じたのは、竹刀を振りかぶった瞬間に放たれた切畠の気と、それに怯えた隼人が見た一瞬の錯覚に過ぎない。
――今の面だけで、百回分の合格の価値はある――
絵本の妖怪の『塗り壁』と立ち合っているようだった。
しかし、その竹刀捌きは精妙無比。体の大きさと技の豪快から剛剣のような印象を受けるが――構え合って竹刀を抑えれば、その剣先は菖蒲の花でも抑えるように簡単に沈み、抑えられた水上の浮き木が巻き戻るように、裏からこちらの中心を取り返してくる。
決して、体格恃みではない。力恃みではない。僅かに竹刀を交えただけで、隼人を心底寒からしむる力量の持ち主だった。
何より、作り――意識の集中が恐ろしく早く、隙がまるでない。構えた瞬間には即座飛べる状態になっているのが隼人には分かる。
銃に喩えれば、ホルスターから抜いた瞬間には照準が自分の眉間に向いている――そんな相手と立ち合っている思いだ。
抑えて崩れず、払って崩れず、攻めて崩れず、担いで崩れず。
ただ崩れないという一点のみで、攻めようとする隼人の方こそが追い詰められていく。
隼人が面に飛んだのは、攻め手を欠けるまま間合いが詰まってしまった結果であり、そこには何一つ褒められるべき理合はなかった。
当然の応酬がきた。半月を描く切畠の切っ先が隼人の竹刀を摺り上げ、そのままの軌道で再び先の面を叩きこまれる。
まずい、まずい、まずい。焦燥だけが積もっていく。
だが、隼人には切畠に届く技がない。
……いいじゃないか。どの道、どうあっても勝てない相手だ。
今回は『いい勉強になった』と思って、次にまた頑張れば。
そんな諦念が隼人の中に頭をもたげる。
『今勝つ、今日勝つ、この日、この時に勝つ――上達には、時にそのような熱烈な思いが必要なのです。
次に勝つ、いつか勝つ――そう思っている間は、いつまで経っても上達できないと思いなさい』
子供の頃に聞いた、師匠の德丸の声が蘇った。
この立ち合いは、もうどうしようもないぐらい歩合が悪い。でも一本。せめて一本――
そう思って竹刀を握り直した瞬間、体を貫くような衝撃が喉に響いた。
諸手突き――基本的に、高段審査で突きはタブーとされる。拙速な技が多く、体が流れて崩れやすいからだ。
隼人も、京都審査で出した諸手突きに散々な駄目出しを食らった。
しかし、ここに非の打ち所の無い突き技があった。
隼人が技を出そうとした一瞬の体の強張りを見逃さずに繰り出した、芸術的なまでの突き技。
目算で100キロはある切畠の体重をもし竹刀の先端に載せていたなら、隼人は容易に転倒していただろう。
背中まで突き抜けた喉への衝撃は、喉元を僅か一寸押さえるに留められた突きの結果に過ぎず。
切畠は、突きを打って暫し留め、ゆるりと剣先を左目に付けた青眼へと構えを戻していく。
これが――『本物』か。
最早隼人には戦意も、悔しさすらなく――完全なる敗北を、心を、体が受け入れていた。
切畠正義に続いて、91A番の相手との立ち合いもあった筈だが、落したパックの豆腐の中身のようにぐずぐずに崩れてしまった心を建て直すのは容易なことではない。
夢遊病のように、体だけを動かして、まるで気の通らない立ち合いを流して終えた。
「ありがとうございました」
眼前で、頭を下げている短髪の頭に、隼人は正気付く。
「この度は、立ち合いをありがとうございました。また機会がありましたら、どうぞ宜しくお願い致します」
折り目正しく、切畠が隼人に頭を下げていた。
遥か格下の相手も探して挨拶に伺う、律儀な男だった。
「い、いえ、こちらこそ、勉強をさせて頂きました」
隼人は慌てて頭を下げ返した。
もし切畠と会う機会があったなら、話したいと思うことは幾らでもあった筈だ。
しかし、口から出てくるのは形式ばった挨拶ばかり。
もう一度礼をして、切畠は踵を返して立ち去ろうとする。
「あ、あの……」
それを呼びとめた意図は、隼人には明瞭に言語化できなかった。
ん? と切畠が振り返る。
「あの……切畠先生は、何のために剣道をやっているんですか……?」
ああ、馬鹿なことを聞いた。子供の質問じゃないんだぞ。
口に出してから、隼人は深く恥じ入り後悔をした。穴があったら入りたかった。
いっそ、お上りさんのファンのふりをして、胴の裏に一筆サインでもねだるか。
そんな事まで考えていたが、当の切畠は存外に真剣な顔をして、顎を抑えてフムンと悩みこむような仕草をした。
そして、その図体に似合わず、子供のように破顔してみせた。
「そんなこと考えたこともありませんでした、面目ない。
面白い質問をありがとうございました。次にお会いする時には、お答えできるようによく考えておきます」
そう言って、切畠は隼人より一回り大きい竹刀胝だらけの右手を差し出した。
隼人が恐る恐るその手を掴むと、驚く程の力でぎゅっと握手された。
「それでは」
そう頭を下げて、剣道界の怪物は静かに去っていった。
隼人は、目の前から人食い虎が立ち去ったかのように緊張をとかれ、どかりと腰を落した。
秋季東京審査の終わりだった。
隼人は、実技審査の結果を見ることも無く帰路についた。道場のLINEグループに書き込みすらしなかった。
『今回は、相手が悪かった。気を落すな』
滅多にLINEになど書き込むことがない齊木副館長が、真っ先にそんなメッセージを残していたことを知るのは、少し後の事だ。
齊木は数日後に東京の日本武道館での審査を控えている。
共に七段を受審した村枩は危なげなく合格し――追記する必要すらないが、切畠もまた七段への昇段を果たした。
また一から、稽古のやり直しだった。
◇
錬心舘道場での稽古の日々が戻ってきた。
今回の昇段審査の立ち合いの評価は、概ね皆隼人に同情的だった。
相手があの切畠正義ではどうしようもない、ペースを崩されるのも仕方がない、と。
隼人は気が戻らぬまま日常と稽古に順応したが、わだかまりは残った。
それは、昇段審査に落ちたこと――というより、全日本選手権を目指して競技者として稽古することの虚しさだった。
模擬審査に、村枩相手に何度かまぐれの一本を決めて、自分もまだ捨てたものではないと思っていたが、それが一体何だというのだ。
もしまぐれにまぐれが重なって、全日本への出場が決まっても、あんな怪物共を相手にどうすればいいのか。
隼人は切畠と立ち合って、そんな思いを抱くほどの隔絶を意識していた。
東京審査から2週後、東京の武道館で全日本選手権が始まった。
予選を勝ち抜いた燕と村枩は、既に東京に飛んでいる。
全日本選手権開始前、燕は何度も隼人に稽古を求めてきたが、あまり応じることができなかったのが少し心残りだ。
『隼人せんせ、よろしくお願いします』
面の中ではにかむ燕の笑顔を思い出すが、今の彼女には自分よりも余程適した指導者が幾らでもいるように思えた。
剣道やプロレスがテレビで放映される花形スポーツの座から転がり下りて半世紀が過ぎた。
今やマイナースポーツに近い位置まで競技規模が小さくなってしまった剣道であるが、SNSの発達で、大規模な試合は全日本剣道連盟の公式Youtubeチャンネルから配信されているのだ。
隼人は、道場の師範室にスクリーンとプロジェクターを用意し、道場のノートパソコンからライブ配信を観戦できるように手筈を整えている。
齊木らの高段者や冢本、髙田、廣都留などの道場の若者、出稽古……と言いながら、プロジェクターでの全日本配信の観戦を目当てにやってきた山國など多くの人で狭い師範室は寿司詰めになった。
順当に勝ち上がっていく切畠。
「よくこんなのと立ち合ったっスよね。俺じゃ手も足も出ませんよ」
とは冢本の言だが、この男に慰められても嬉しくも何ともない。
全日本選手権は複数の試合場で同時に進行し、それぞれライブ配信されていたが、切畠のような人気選手、村枩のような地元の選手にフォーカスをして、画面を切り替えていく。
村枩は惜しくも一回戦で敗退した。
「あっ、吉屋先生の試合が始まります」
中学生の髙田裕翔が声を上げた。
相手は、番匠友枝という長身の選手だ。あの切畠と親戚にして同門。幼い頃から切畠に鍛えられてきたという名選手だ。
齢の頃は燕と同じ程。かなり強いが、昨年女子王者の田邊を下した燕なら、なんとかできるか――
そんな期待をかけて、一同はプロジェクターの中の燕を見守る。
白鶴が羽根を広げるような見事な番匠選手の上段。その左小手を狙って、小柄な燕は幾度も飛び込んでいくが、届かない。
このまま、延長にもつれこむか――
傍目八目で残り時間を見比べならがら、固唾を飲んで見守る面々だった。
ついに、燕が左小手をフェイントにして、奥の右小手へ飛び、その竹刀が部位を捉えた。
赤い旗が一斉に上がる――しかし、そのまま燕は前に転ぶように床に倒れこみ、残心なしとして取り消された。
惜しい――誰もがそう思ったが、勝負の歩合としては悪くない、行けるかもしれないという希望に満ちた一本だった。
燕はすぐに立ち上がり、試合を続行する……誰もがそう思っていたが、燕は左足を抱えるようにして動かない。
「――アキレス……」
山國が、悲鳴のような声を上げた。
試合にやめがかかる。審判員たちが燕に駆け寄る。
――試合は、燕の棄権にて幕を閉じた。
右小手に飛び込んだ瞬間の、アキレス腱断裂だった。
短い秋が過ぎて冬の寒さが訪れつつある11月。
燕の選手生命は、風前の灯だった。
続




