勝利の天秤
隼人が指導に携わるようになって、早くも二月半が過ぎた。梅雨も過ぎて、本格的な暑さで日々の稽古でも溺れるほどに汗をかくようになる季節である。
直指館出身の子供たちも、いまだ力量は及ばないまでも、概ね元々の錬心舘メンバーと稽古を共にできる程に成長していた。
勝負勘についてはまだまだだが……フォームの修正と、同じ稽古メニューに混じっていける持久力が追い付いてきたのだ。
少年期の成長は早い。大人から始めれば覚えるのに一年かかるようなことを、十日でできるようになったりする。
隼人と燕、鬼役と仏役ではないが、隼人が稽古の雰囲気を引き締め、燕が躓きのある子を優しく指導する、という役割分担で上手く指導を回せてきたように思う。
六月頃からは、隼人の事を慕ってか、冢本も少年指導に参加してくることも増えた。
目配りができるし、愛敬のあるヤツだ、と隼人も最近はかなり冢本を高く評価している。
そして、いよいよ本格的な夏の到来である。
オレンジ色の羽根の業務用扇風機が六台も回り、エアコンが音を立て起動する。
屋内で分厚い剣道具を纏って行う剣道は、年々猛暑の記録が更新される近年、夏場に十全な稽古を行うためにはエアコンの使用が必須となりつつある。
エアコンを回さなければ、夏場の道場はすぐに40℃を越えてしまう。
昭和の昔に流行していた『扇風機を回すなんてもっての他、気合いが抜けるから水を飲むことも許さぬ』という根性教育も廃れて久しい。
『アホか! 昔とは暑さが違うんじゃ! エアコン点けにゃ熱中症で死人が出るわ!
面はできるだけ頻繁に取らせい。子供に水を飲ませるのを忘れんなよ』
道場の中で、前時代の精神を一番内面化しているような齊木でさえ、そう言う程なのだ。
隼人の体感からしても、夏の暑さは随分変わった。
夏場にエアコンの無い道場に出稽古に行くと、口に熱い真綿を詰めて稽古をしているような息苦しささえ感じる。
学校の指導者から聞いた話によれば、この暑さは、私立と公立校の剣道環境の格差にも繋がっているようだ。
エアコンの効いた道場で稽古ができる私立とは違って、公立校には未だ武道場にエアコンが設置されていない学校が多く、夏場は武道場の稽古は極力短く済ますか、スポーツセンターを借りての稽古になるのだという。
何とも、世知辛い話である。
この、道場の環境の格差は、少年スポーツクラブも同様である。閉館した直指館も、エアコンは設置されていなかった。
夏場に、「クーラーあるんだ! すげー!」と直指出身の子供たちがはしゃいでいたのを覚えている。
スポンサーの建設会社がモデルルームを兼ねて建てただけあって、本当に錬心館道場は施設については文句なしに恵まれているのだ。
隼人はカレンダーを捲る。道場のカレンダーには、燕の丸い字で四か月先までに幾つもある試合と昇段審査へのロードマップが書き込まれている。
◇
その日、隼人は、錬心館に居残り、素振りを続けていた。道場の照明は半ば落している。
誰もいなくなった薄暗い道場で、踏み込みの足音だけが響き、姿見の鏡に黒々とした自身の姿が影絵のように踊る。
――最も稽古が厳しくなるこの季節。多くのスポーツがそうであるように、剣道も試合シーズンに突入する。
燕も既に、全日本女子都道府県対抗剣道優勝大会に県選手団の一員として出場していた。燕自身は全勝していたが、チーム自体は三回戦敗退であった。
そして、この週末、隼人は県の選手権大会に出場する。
道場での活動を少年指導に軸足を移してきた隼人だが、このシーズンは完全に競技者の自分へとスイッチを切り替えてきた。
全日本選手権の県予選会が始まるからである。
県の指定強化選手である隼人は、強化稽古会へも欠かさず参加してきた。
敵として立ちはだかってくるだろう、警察機動隊や刑務官の面々の剣風も研究済みである。
剣道で試合が強いのは、1に警察官、2に刑務官、3が教職員とも言われる。
プロスポーツではない剣道は、職務のために鍛えている警察官や、部活で毎日のように少年指導をしている教職員が強い。
隼人はそのいずれでもない、実業団の剣道部員だ。上記のいずれのでもない人間にとって、全日本出場権は狭き門といえる。
加えて――35歳という隼人の齢は、全日本選手権出場選手の平均から見て、決して若くはない。
かつて、同い齢でトッププレイヤーだった機動隊の村枩は、既に現役を引退してしまったと聞く。
中学、高校、と県大会で覇を競った相手だった。
彼は、全日本でも三位入賞を二回という素晴らしい成績を残している。
隼人の頭の奥で、囁く声がする。
――村枩でさえ、もう県予選を勝ち抜くのも無理だと引退した。一度だって村枩に勝てた事がない己が、何故全日本予選に出ようなどと思うんだ。
――お前は、選手らしくありたいという自分のアイデンティティを守るためだけに、勝てもしない試合に出ようとするのだ。
べっとりと背中に貼り付き、耳元に囁きかける、声が聞こえる。
身体能力の絶頂期は過ぎただろうが、まだまだ自分は足も動く。面も飛べる。目を弱ってない。
――でも、若い奴らと戦えるほどか?
想像する。竹刀を交え、先革が触れ合う程度の離れた距離から、一足で飛び込んでくる細身の若い剣士の姿を。
あれを、自分はどう捌くか。
燕の剣道を見るたび、己の中で不安が沸き上がるのを感じていた。
これは――今から、まさに選手としての絶頂期を迎えようとする人間への、羨望と嫉妬だ。
隼人は、自分の両の頬を強く掌で叩いた。
◇
七月。全日本選手権、県予選会当日。
心中のわだかまりが解けないまま、試合の日を迎えてしまったことを隼人は悔やんだ。
会場の武道スポーツセンターを訪れる前で、錬心館道場でルーティンである剣道形も打った。
けれども、心は落ち着きがなく、そぞろにざわめている。
「隼人せんせ、おはようございます! 今日は頑張りましょうね!」
深い藍色をした綿の稽古着袴の燕が、スーツケースタイプの道具袋を引きながら駆けてきた。
これまでも、燕はふるさと選手として東京から帰県して出場していたので、隼人も試合の度に顔を見合わせていた筈だが自分の試合に集中していたせいか記憶にない。試合前に時間を割いて話すようになったのは、共に指導に携わるようになったからだろう。
しかし、続いて軽薄そうな顔の茶髪の青年が顔を出したのは予想外だった。
「うっス! 気合い入れていきましょう!」
「……冢本、何でお前まで稽古着なんだ。アップの相手は間に合ってるぞ」
「俺も申し込んだんスよ。全日本予選。ハタチ以上なら出場資格あるって聞いて。
申し込み期限と誕生日ギリでしたけど!」
「聞いてない。それにお前はテトロン袴で試合に出るのか……」
受からない大学の記念受験のように、勝ちの目がまるでないのに出場する選手も一定数はいる。
自分の力を試したいとか、普段は試合することができないハイレベルな選手と剣を交えてみたいとか、動機は人それぞれだ。
しかし、冢本まで参加してくるとは……
良くも悪くも、隼人は強張っていた肩の力が抜けた。
「お~っ! 集まってるねえ、錬心館勢。オハヨウ、オハヨウ!」
「あ、山國先生、おはようございます!」
「オバサンは吉屋ちゃんと当たる所まで勝ち残れるかな~!」
女子選手は、競技成績に限って言うなら、男子選手よりも年齢がボトルネックになり易い。
これまでの燕の戦績がそうであったように、強豪大学の女子選手が、現役の女子警察官を破って全日本に出場するのもよくある話だ。
その中で、山國今日香はよくやっていると思う。
山國は、決してフィジカルに恵まれているわけではないが、二刀という変則的なスタイルのアドバンテージを生かして、上手く立ち回って勝ちを狙うのだ。
その剣風は、普段の言動のごとく飄々と掴みどころがなく、その中には勝利への執念と熱が籠められている。
隼人は、齢も近く険しい挑戦をするもの同士、山國にはシンパシーを覚えるところも多いのだった。
◇
受付を済ませ、会場に入る。
途中、規律正しく一列に歩く選手団とすれ違った。引き締まった体。短く切り揃えられた髪。機敏な挙措。
威圧感が他とはまるで違う。警察機動隊である。
――この10年、県予選を勝ち抜いたのは、全て機動隊所属の剣士だった。
全日本出場権は譲らぬ、という自負に満ち溢れていた。
隼人は、その最後尾に、あり得ない筈の知人の顔を認め、思わず呼び止めた。
「村枩!」
隼人の同級生のトッププレイヤー。元全日本選手権三位。そして、隼人が高校時代にインターハイに出場した時の、同じチームの大将だった男だ。
高い上背と広い肩幅、厚い胸板。彫りの深い精悍な顔立ちが、隼人を正面から見据えた。
「水﨑か。久しぶりだな」
「村枩こそ。引退した、って聞いたけど、また出るのか?」
「引退……? 誰がそんなことを?」
思えば、明瞭な記憶はない。どこかの道場で聞いた、誰かの噂話だった。
「しかし、そうだな。引退と思われても仕方ない齢だもんな、俺たち」
村枩は、ニッと笑って稽古着の左肘を捲って見せた。
そこには、肘先を縦に切り裂いたような大きな傷跡が残っている。
「トミー・ジョン手術だ。知ってるか。オータニも受けた奴だぞ。
これとリハビリで、試合に復帰するのに2年かかった」
そう言って村枩は獰猛な笑みを浮かべてみせた。
「でも、戻ってきて良かった。水﨑、まだお前がいてくれた。
もう、同期でちゃんと剣道をしてる奴は、俺とお前だけだもんな」
同期で剣道を続けている人間を、隼人はまだ幾人も知っている。
だが、機動隊でストイックに剣道に取り組み村枩は、時折竹刀を握る程度の人間は剣道を「やっている」内には数えていないのだろう。
高校の同級生で、同じチームで苦楽を共にした仲であるのに、隼人は村枩とLINEの交換さえしていない。
同窓会に村枩が出席したのも、一度も見たことがない。高校の頃から20年間、隼人は村枩とは竹刀だけで繋がっている。
「お互い、ロートルだけどいい所を目指そうぜ」
「おう」
立ち話は一分もかからず終わった。
すれ違いざまに、村枩はその大きな掌で隼人の肩を叩いた。
隼人は、肩先にじんじんと熱を感じていた。
◇
県予選会は、人数の少ない女子から先に行われる。
剣道は中学生――初二段ぐらいまではそれほど男女の人数差は大きくない。
しかし、高校、大学、社会人と進むにつれ、継続率の差が顕著に開いていく傾向がある。
全日本選手権の出場を目指すほどに真摯に剣道を続ける女性は数少ないのだ。今回の出場者も20人少々しかいない。最大で五回勝てば優勝できる計算になる。
隼人は、観客席から試合の様子を眺めていた。
配られたプログラムで、トーナメント表を確認する。
燕はシードに配置されている。優勝候補の一人だ。当然のことだろう。
不運なことに、山國も燕と同じブロックに配されていた。二人とも勝ち上がれば、ベスト4を選出する試合でぶつかることになる。
――山国今日香の一回戦が始まった。
二刀の剣道は、基本的に防御的な試合運びを得意とする。けれども今日香は普段見る以上に果敢に自分から相手を攻めたてていた。
剣道は男子も女子もルールは変わらないが、ボクシングでヘビー級とフェザー級では試合運びが全く異なるように、試合の様相はかなり異なる。
女子剣道は、相手に応じてカウンターとして技を出すことが多いのだ。二刀となれば尚のことである。
けれども、山國は攻めた。小太刀で相手の竹刀を摺り落しながら正面から一本を先取。鍔競りになった所から、引き胴で二本目を。
相手は大学生だったが、幸い二刀に不慣れだったので、山國の得意の価値パターンに嵌めることができたようだ。
二回戦となり、燕の試合順が巡ってきた。相手は一回戦を勝ち上がった警察官だったが、瞬く間に二本先取して勝負を決めた。試合時間は30秒弱。
山國はスポーツドリンクを含みながら、少し焦りの表情を見せている。
試合の進行が速いと、インターバルを充分に取れないことがあるのだ。できるだけ大太刀を振る左手を温存しておきたいのだろう。
山國の二回戦は互いに有効打突のない泥試合の様相を見せ、延長戦にもつれこんだ。山國の相手も若手の警察官である。持久力の勝負では、山國に勝ち目はなかった。
しかし、山國は勝った。大蟹の鋏のように振り上げる上下段の二刀の構えの正中に隙を作り、相手が飛び込んで来た所を胴を返したのだ。
現役の機動隊員に勝つというジャイアントキリングである。会場が拍手で湧いた。
――山國はよくやった、と隼人は心の底から讃える。頭の中の競技者としての部分が、ここまでだ、と告げていた。
準々決勝で待ち構えるのは――県の若き女王、燕なのだ。
燕と山國の試合が始まった。山國のやや低めの左二刀に対し、燕は霞の構えに開きながら、剣先を左拳に向ける。
小太刀に絡めとられないようにしつつ、太刀の攻撃も掣肘する正しい対応である。
既に互いの剣風を熟知した間柄での試合だ。一試合目のような無知に付け込んだ攻勢は到底できないだろう。
加えて――隼人が知る限り、この二人は、公式戦では燕は山國に一本も許したことがなかった。
若く、速度に優れる燕が先制して攻めたてる。山國も二刀でそれを応じるが――流れは、かなり良くない。
「合議」
しばし防戦が続いた所で、試合を断ち切るように審判による合議がかけられた。
「反則一回」
隼人は見抜いていた。反則の要件は――恐らく、山國の太刀の握る位置。フィジカルに劣る山國は、試合が長引き竹刀の保持力が落ちると、太刀の鍔本を握る癖がある。
それが、小手を隠すように立ち回る公正を害する行為と判断されたのだろう。近年では珍しくないジャッジである。
山國が、軽く頭を下げて開始線へと戻る。
試合が再開される。山國が、失態を取り戻そうと高い掛け声と共に前に出るが――
「馬鹿ッ、易々と出すぎだ」
隼人は思わず口に出した。
ネコ科の動物の狩猟を思わせる踏み込みで、燕が二刀の間を貫き、山國の喉元に諸手突きを差し込んでいた。
審判の赤い旗が一斉に翻る。
出端に突きを貰った山國は、体勢を崩して転倒していた。燕が手を差し出す。
――力量の差は明らかで、もはや試合の天秤が山國に傾かないのは誰の目からも明らかだった。
それでも、二本目の開始と共に、山國は飛び込み技を警戒してか、円を描くように燕の周囲を巡って機会を狙おうとする。
ところが――
「やめ――反則二回、一本。勝負あり」
その片足が、試合場の枠を半歩踏み出していた。
自らの不注意が呼び込んだ幕切れとはいえ――あんまりな終わり方だった。
山國は意気込みこそあれど、試合内容は褒められたものではなく、燕の完勝に近い。
女子の試合を眺めながら、やっぱりこうなったか、という諦観に似た感情を隼人は抱いていた。
それは、間もなく開始される己の試合に対する予期不安だ。
若い選手の活躍。同じシニア選手の山國の失態。自分が現役を諦める理由は幾らでも考えついた。
『いい歳して高校生みたいな七転八倒する試合は大概にして、七段に通るような高段者の剣道を目指した方がええ』
そんな手厳しい指摘さえ受けてきた。
でも――『お互い、ロートルだけどいい所を目指そうぜ』村枩に叩かれた肩は、まだ熱いのだ。
正しいかとか、意味があるかとか、そういう事を考えるのは後にする。
隼人は、あまり長期的な計画をするというのが得意ではなかった。目の前のことにがむしゃらに取り組む方が性に合っている。
鼻先に吊り下げられた人参に向かって走るように、今、この時の目標にだけ専念する。
今日は、全日本の予選を勝ち抜くことを考えるのだと。
◇
一回戦の相手は、強豪高校を指導していることで有名な、教職員大会でも名の知れた選手だったが、辛うじて一本勝ちを収めることができた。
試合の合間に汗を拭っていると、隣の試合場で冢本が手も足も出ずに二本負けしているのが見えた。
苦笑する。少しだけ、次の試合への緊張で固まった体の力が抜けた。
二回戦は機動隊相手の試合だった。竹刀を交えてみてよく分かる。単純な速度では、自分はまるで及ばない。
しかし、剣道の試合は強い方が勝つとは限らない。十本に一本、あるいは二十本に一本かもしれないが、天秤がこちらに傾くことが必ずある。
勝利の天秤はメトロノームのように基礎正しく揺れはしない。常により力のある方に向かって、気まぐれに揺れるのだ。
弱い者が勝つためには、天秤が自分の方に傾いた瞬間に引きずり下ろし、二度と動かないように握り締めるしかない。
チャンスに飛び込む機運を見る目と、掴んだチャンスを逃さない握力が必要とされるのだ。
先革から中結の位置まで竹刀を交える。互いに一足で相手の面に竹刀が届く距離。この間合いに入ってしまうと、もう一息の呼吸さえできない。
剣道の攻防は、打突の瞬間ではなく、打突までにどれだけ多くのものを詰めるかによって勝負が決まる。
技が放たれるまでの無言の攻防は、海中に潜っての息止め比べにも似ている。勝つためには、どれだけ苦しくても、涼しい顔をしてやるのだ。
そして相手を誘い出す。ほら、打ってこいよ。楽になるぞ、と。
果たして、矢のように飛び出した相手の飛び込み面を、隼人は返し胴で迎え打った。
相手の速度を使って、相手を打つ。隼人にできる勝ち筋は、これしか残っていなかったのだ。
試合終了のアラームが聞こえる。またしても一本、逃げ切ったのだ。
応援席には、きっと女子選手権で優勝を果たした燕も、一回戦負けをした冢本もいるだろう。
けれども、彼らの姿は隼人の視界には入らなかった。
三回戦の相手は、隼人の同級生の村枩だったからだ。
村枩も手術から復帰後の最初の試合だ。もはや互いに35歳、競技者としては齢を食い過ぎている。
……お互い、三回戦で竹刀を交えることができただけで、結構なものじゃないか。
そんな緩んだ気持ちで、試合場の村枩を見つめるが――村枩は、自分はここに居て当然、という顔で静かに正座をしていた。
一本。せめて一本取ってやる。隼人は、目を閉じて息吹を吐き出し、手拭を頭に巻いた。
開始の号令と共に蹲踞から立ち上がり、先革を触れ合わせる。
久闊を叙すような静かな攻防。互いに、拙速に飛び込んで奇襲を狙うような剣を使う相手ではないこと知悉しての攻防だ。
隼人が気勢の第一声を上げようとした瞬間、被せるように村枩の低い気迫の声が放たれた。
大きく、太く、それでいてよく響く落ち着い村枩の声。隼人試合中であるのに、頬が綻んでくるのを感じていた。
自分にとっての壁が、まだ壁として己の前に立ちはだかってきてくれて嬉しい。
竹刀の表鎬を交えて、互いの呼吸を読みながら、一寸、二寸と互いに間合いを詰める。
疑いようもない。村枩の強さは、過去と遜色ない。それ以上かもしれない。
剣を交えた均衡を破り、軽く竹刀を担いだ。
村枩が左肘を故障してトミー・ジョン手術に至ったのは、手元を上げずに左手を押し出すことで竹刀を持ち上げ、左肘の強烈な引きで打ち込む、独特の打ち方が原因だろうと隼人は考えている。
だから、誘いをかければ、必ず再び使えるようになった得意技を俺に見せにくる。
そんな、確信に近い思いがあった。
果たして――村枩は、来た。癖のある振り方で噛みつくように小手へ振り込む。
隼人は、予め大きく下げた左足に体重を乗せ、腕を引いて村枩の竹刀を抜いた。紙一重。村枩の竹刀が小手筒の表を僅かに擦る。
相手の技の尽きた所こそ、最高の好機。隼人は小手を抜いた竹刀をそのまま村枩の面に振り下ろし――その竹刀が、摺り上げられて逸れるたの見た。
驚く暇もなく、額の上に衝撃が走る。赤い旗が三本、翻るのが見えた。
小手抜き面摺り上げ面。僅か一呼吸の間に交わされた四太刀は、そのまま村枩と隼人の実力差を示していた。
――まだ始まったばかりだ。取り返す時間はある。
――取り返す時間はあるぞ。
隼人は二度三度と己に言い切替えせ、深く呼吸をして心を鎮めようとした。
この時点で残り時間は3分と30秒。確かに取り返す時間はあった。けれども、村枩を相手に、取り返す機会など在りはしなかった。
二本目、剣先を大きく上げた村枩の飛び込み面に、隼人は成すすべもなく敗北したのだ。
試合時間は、52秒と記録されている。
◇
大会終了後、対戦相手に挨拶に行くのは当然の礼儀である。
「本日はありがとうございました。全日本選手権でも――ご健闘をお祈りいたします」
優勝カップを手にした村枩に、隼人は敬語で祝福の祝福の言葉をかけた。
負けたことは悔しいが――自分を負かした相手が優勝したともなれば、多少は溜飲も下がるというものだ。
それも、自分と同い年のシニア選手が若手を破って優勝ともなれば、誇らしくさえある。
――己自身は何一つ変わっていない癖に。隼人の奥底で、黒い影が囁いた。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。いい試合をさせてもらいました」
村枩も、敬語で折り目正しく頭を下げた。
この男は、いつだって礼儀正しい。
しかし――顔を上げた村枩の目に、隼人は軽い失望と蔑みを色を見た。
――お前、詰まらない剣道をするようになったなあ。
――水﨑、弱くなったんじゃないのか?
――弱いお前が、少年剣道の指導なんかに携わってどうするつもりだ?
勿論、それらは、全て隼人の幻聴、錯覚の類である。村枩は隼人の少年指導のことなど知りもしないのだから。
けれども、隼人は怯えた。村枩の真っ直ぐな瞳に。自分自身の弱さに。
村枩が、何か言いたげに手を伸ばす。
隼人は、頭を下げて、逃げ出した。
「あ、水﨑先生、お疲れ様っス。吉屋さんと話してたんすけど、今日これから打ち上げに一杯どうっスか?
……水﨑先生?」
冢本の問いかけを聞こえないふりをして、隼人は踵を返した。
――誰しも、競技を引退する日は必ず来る。隼人もまた、競技者としての日々の終わりが近づいていることを感じていた。
だからこそ、指導者としての道や、昇段審査で八段を目指す道など、これまで意識していなかった今後の道を模索していたのだ。
それでも――隼人のプライドが、理性を折り合いを付けられずに痙攣を起こす。
――負けっぱなしで終わるのは嫌だ。同い年の村枩が全日本に出たというのに、自分が先に勝負の世界から降りるのは嫌だ。年々齢老いて跳べなくなっていく体が嫌だ。
それらは、なにもかも駄々っ子の無いものねだりだ――と自分でも思う。
30代の半ばの男が抱く悩みにしては、あまりにみっともない。
剣道で勝つことだけが、人生の全てではない。そう思ったからこそ、隼人は剣道家としての最高のキャリアを積める機動隊入りを断ったのだ。
だのに、10年以上も経って、選ばなかった道に後ろ髪引かれるなんて、女々しいことだ。隼人は、己をそう恥じる。
剣の道と書いて、剣道と読む。
隼人はその道を真っ直ぐ歩いてきたつもりだった。
弛まず努力を続けてきた。およそ最高の良師に師事することもできた。
技のみではなく、歴史や文化にも興味を持って学んできた。
鼻先に人参を釣られた馬のように、真っ直ぐに進んできたつもりだったのに。
中年になってふと己の道を振り返れば、足跡は曲がりくねり、眼前には通行止めの壁が聳えている。
そんな幻視をして、隼人は壁に手をついて項垂れこんだ。
続




