形を打つのも四苦八苦
「ちわ~っす、錬心舘ってこちらですか? 元直指はみんなこっちに稽古に来てるって聞いたんスけど」
六月の梅雨の合間を狙ったように錬心館に現れた男は、一目見るだに隼人の気に食わない容姿をしていた。
浮ついた茶髪と派手なプリントTシャツで、足先にはサンダルをつっかけている。その姿は防具を背負っていなければ誰も剣道家だとは思わないだろう。
「冢本琢也って言います。三段っス。ほんとは四段の筈だったんスけど、こないだ形で落ちちゃって。四段は半年持ち越しっス。あはは」
「なるほど、冢本さんは今大学生なんですか?」
「あ~、大学の剣道部は強い先生もいないし、自治会みたいな感じが強くてヤだったんすよ。だから、直指でやってたんすけど、潰れちゃって」
ヘラリと笑うだらしない表情に、内心の不快感を社交辞令の笑みで蔽い隠し、隼人は尋ねた。
「確か、この間の直指館の閉館式典にはいらっしゃりませんでしたよね?」
「あ、東京の方で連休にイベントがあってたんで、そっちに行ってたんスよ。それからは、実家の方に帰ってたり色々で」
隼人は年輩の剣士ほど、上下関係だの礼儀だのを五月蝿くいう性質ではない。
飲み事の度に段位順で座順を定め、同じ段位なら先に昇段した方を上座に配置する、などという剣道界の七面倒臭い慣習など、寧ろ鬱陶しく思っている方だ。
それでも。自分が所属していた道場への義理も感じぬ冢本の軽薄な態度には、神経がささくれ立つのを感じるのだった。
「玄関で立ち話も何ですので、とりあえずお上がり下さい」
気に入らぬ男ではあるが、錬心館に入門したいというのなら、隼人が断る筋合いはない。
そして、館長の德丸は来るもの拒まず避るもの追わずの性格である。この冢本の入門にも異を唱えないだろうことは想像できた。
館長への挨拶、稽古前の入門者の紹介と、いつもの流れが恙なく過ぎる。
この冢本という青年、私服からはだらしない印象を受けるが、稽古着と道具の着装は悪くはない。
口を開けば軽率な印象があるが、初めて敷居を跨ぐ道場での立ち振る舞いも落ち着いている。
――お、こいつそれなりに強いな。
隼人はそう感じた。色んな道場に顔を出してきた手合いだろう。
「冢本さん、よろしくお願いします」
頭を下げた燕に、冢本は目を見開いた。
「マジ!? 吉屋選手! 築波大の吉屋燕選手じゃないスか!
この道場に通ってたんスか! ラッキーだなあ!
Youtubeの配信で見てましたよ! 去年の全日本選手権! マジリスペクトです!
実物見るとマジで可愛い! ねえ、稽古終わったら飯行きません? 俺奢りますんで!」
去年まで大学生だった燕は、大学剣道界隈ではなお人気が高いようだ。
それにしても、冢本の言葉は、初対面の相手を食事に誘うには、あまりに無神経で不躾だった。
燕は、ちらりと隼人に視線を送る。
隼人は燕の視線にも、その意図にも、気付かない。隼人から見れば、二人とも自分より一回り離れた学生のようなものなのだ、食事でもカラオケでも好きに行けば良いとぐらいに思っている。
燕は、少しだけ顔を曇らせたが、鬱憤を晴らすように、冢本に微笑みながら返答をした。
「いいですよ。地稽古の時に、一本取れたらご飯付き合ってあげます」
◇
結果からすれば、燕の完勝だった。
一本取れたら、という縛りは剣道の競技特性から考えれば、相当に緩い。
相当な力の差があっても、互いに意図せぬタイミングのズレが重なって、下手のものが上手を打ててしまう事もよくあるのだ。
故に、剣道に連覇を続けるような王者は滅多に生まれない。
過去には平成の宮本武蔵と呼ばれた宮嵜選手、近年では隣県の切畠選手や女子の田邊選手が連続して好成績を残しているが、これらはごく稀な反例と言えよう。
相手に一本も打たせずに完封というのは、それだけの力量差がなければ不可能な芸当なのだ。女性が体格差のある男性相手にするなら、尚のこと。
隼人は、その様子をじっと見ていた。
冢本という青年は、見立てた通りに決して弱くはなかった。体格も良いし、技も仕掛け、応じ、いずれも多彩なものを持っている。
けれども、それ以上に燕が上手だった。間合いを誤認させ、引き出し、飛び込んできた所を抜いて打つ。
相手の竹刀を裏に表に翻弄し、引き出した所を胴を返す。
五段を受審すると言ったが、今六段を受けても、難なく通るだろうと隼人は思う。
燕が錬心館に戻ってきて一月あまり、隼人も燕と幾度も立ち合ってきた。
概ね、立ち合いでは隼人が優勢である。幾ら女子全日本権者とはいえ、体格の差もあれば、経験の差もある。
けれども、それだけなのではないか、体格差がなければ、自分は燕に手も足も出ないのではないかという怖れが頭を過るのだ。
「いや~ ほんとに強えええぇ! 完敗ですわ! 飯奢るとか生言ってさーせんでした!」
稽古の後、存外素直に頭を下げた冢本に、燕はふふん、と誇らしげに胸を張った。
「冢本さん。普段の稽古が少し足りないんじゃないですか。是非これからもうちに来て下さいよ。いい刺激になると思いますよ」
少し強いぐらいで調子に乗ってるなら、ボコボコにして鍛えてやるぞ。
そんな思いを、最大限にオブラートに包んで追撃をする。
冢本は、居心地悪そうに頭を掻いた。
「あの、水﨑さん……それから、吉屋さんも。俺に敬語使うの、辞めてくれません?
自分より齢も段位も上のヒトに敬語使われるのって、どうもムズ痒くて。
俺なんて、全然タメ語でいいっスよ」
わかる。隼人は胸中でそう思った。
「うん、分かった。じゃあ、私もこれからは冢本君って呼ぶね」
先に燕が返答した。
「私の事も、別に吉屋さんでいいから。でも、隼人せんせ――水﨑先生は、ちゃんと先生なんだから、水﨑先生ときちんと呼ぶように。絶対だからね」
人差し指を立てて念押しをする。
当の隼人は、德丸館長や齊木副館長への口の聞き方を気をつければ、俺のことはどうだっていいのに、と苦笑をする。
他人の心の機微には、やや鈍感な所がある男なのである。
「今度から稽古に来るんで、よろしくお願いします。
それから――ちょっとずつで良いんで、形も教えて貰っていいっスか?」
「ああ、四段は剣道形で落ちたんだったね。いいよ。木刀も持っておいで」
「受審前にちょっとだけ直指館で濵尻さんに習ったんすけど、ちゃんと覚えきれなくて。
まあ、大丈夫っス。手順をちゃんと覚えれば、次は通りますから」
――剣道の昇段審査では、実技審査が終わった後、剣道形の審査と学科審査が行われる。
実技審査に比べて、形審査での不合格者は比率としてはかなり少ない。
それ故に昔から言われる。形審査で落ちるのは恥だ。形審査で落ちるようなみっともないことはするな、と。
実技審査の立ち合いは、勝負の歩合を加味して判断されるので、どんなに努力しても相手次第では一本も打てないことがあるだろう。
けれども、決まった形を演武するものならば、その成否は己が修練にかかっている。
形審査で不合格となった場合、一年以内に再び審査を受ければ、実技審査は免除され、実質形のみの審査を受けることができる。
冢本が楽観視しているのも、それ故だろう。
「前回はとちったが、少し詰めれば次は合格するだろう」と。
けれども、隼人はそんな軽佻浮薄な思いで形の再受審をする者を、見逃したくなかった。
少しだけ意地悪な笑みが浮かぶ。
やっぱり、こいつは日本剣道形を舐めている。
丁度良い機会だ。この浮ついた若いのに、徹底的に剣道形の何たるかを叩き込んでやろうじゃないか。
錬心館の館長である德丸範士は、日本剣道形にかけては九州一と呼ばれる程の名人である。幼い頃から德丸から形を叩きこまれてきた隼人は、形に関しては少しばかり自信があったのだ。
◇
日本剣道形は、剣道における基本的な技や動きを体系化した形だ。二人一組となり、木刀で演武を行う。
全ての形が、片方が打ち込んでいき、もう片方がそれに対応して勝利する、という流れで作られているのだが、この「打ち込んで行き、負ける側」を打太刀、「打ってきた相手に対応して勝つ側」を仕太刀と呼ぶ。
日本剣道形は、太刀の形七本、小太刀の形三本の、計十本から構成される。
昇段審査に於いては、その発達段階に応じて指定された本数を打つことになるのだが、その取捨選択には地方審査を実施する都道府県によって多少の差異が存在する。
隼人の所属する県では、初段では、一本目、二本目、三本目、の三本。
二段では、五本目まで。三段では太刀の形全七本。四段では小太刀の形も含めた全十本を通して演武することになる。
形に於いては、小太刀の形への入り口で躓く者は少なくない。
太刀の形は竹刀稽古の感覚を援用できる部分も少なくないが、片手で小太刀を扱うのは、競技剣道を専らとしてきた人間にとって未知の技術だからだ。
――冢本が審査が間違ったのも、小太刀の取り間違いが原因だろう。
隼人は、そう考えていたのだが。
「いや、全然ダメ。本当に形は何から何まで下手だね。
三段までは手順を間違えなければ通るけど、これから上の段位はそれじゃ通らなくなるよ。
十本の裏表、要点を今のうちに全部覚えておいた方がいい」
「分かったっス」
「まず、一番基本的な事から。仕太刀は絶対に打太刀より先には動かない。
礼をする時も、構えた時も、元の位置に戻る時も、必ず打太刀が動くのを見てから動くこと。
ダンスのステップみたいなもんだから。順番を間違えないように」
ダンスのステップみたいなもん、というのは半ば以上に方便である。
隼人自身全くそんな風には思ってはいないが、冢本に分かり易いように咀嚼して説明しているのだ。
本来ならば、この錬心館に来て形を習うのならば、德丸に教えを乞うのが筋だろう。
――審査の前に是非一本形を見て頂きたく。そう言って、八段審査を目前とした高段者が形のために錬心館へ出稽古に訪れる事も多い。
けれども、当面は――最低限、形の初歩が身に着くまでは、隼人は己が教えると決めていた。
子供に四則演算を教えるために高等数学の専門家を招く必要などまるでない。最低限の体裁を整える所までは、自分が矯正しておこうと隼人は決めていた。
冢本は、隼人から見て――かなり、飲みこみがいい。
手順だけでなく、剣先の付け所、切り結ぶ高さ、打ち込む拍子、教える事を悉く吸収していく。
相手と呼吸を続飯付けで行う、難度の高い部分にも素早く順応した。
結構な事である。しかし、「何だ、簡単じゃないか」とでも言うような、冢本の態度は、どうにも隼人は気に食わなかった。
小器用にできるばかりに増長して失敗する――そう齊木に笑われた自身との同族嫌悪なのかもしれない。
隼人は知っている。物事を浅く考えて調子に乗る人間は、深く考え畏まり、分を弁えて縮こまる人間より、余程伸びやすいことを。
――だが冢本のこれは違う。頭の冷静な部分がそう告げた。
◇
「何回か教えただけでかなり良くなったな」
「うっス。マジありがとうございます。これで四段、大丈夫だと思います。
水﨑先生、教えるの上手いっスよね。元直指の子達も、みんな超上手くなってるんで、びっくりしたっスよ。
髙田君なんて、あの面は絶対直んないって思ってたんスけど」
形稽古の指導は、稽古着が汗で重たくならない竹刀稽古の前に行うことが多かった。
冢本への指導に、直指館出身の子供たちへの指導も継続して行っている。
中々自分の稽古の時間が取れないなあ、と隼人は胸中で時折ぼやくが、現在の稽古はそれほど嫌いではない。
「なあ、ぶっちゃけさ、形ってあんまりやる意味ない、って思わないか?」
カマをかけた隼人のその言葉に、冢本はころりと乗っかった。
「あ、思います思います。別に、剣道の強さと形の上手さ、ってあんまり関係ないっスよね。
俺も、ぶっちゃけ形やってる時間あったら、面かぶって稽古やってる方が強くなる、って思うっスよ」
冢本が口にしたような、『稽古に於けるタイムパフォーマンス優先主義』は、近年の若い剣士では珍しくない傾向だ。
部活形態の変化などで、限られた練習時間をどう使って強くなるかを工夫する者しか上に行けなくなったのだ。
剣道競技者としての隼人は、それを正しいと思うし、あまり上昇志向がないように見える冢本もそんな意識を持っていることは、美点だとさえ思う。
けれども、錬心館道場德丸範士の弟子としての隼人は。
「……やっぱりか。面白くねえなあ」
「え?」
「そりゃ、お前の言ってることは大体正しい。
毎日一時間追加で稽古するなら、形を打つより面かぶって稽古する方が強くなるだろうよ。
ただそれは、稽古も形も両方知ってる人間が言うから正しいんであって、形をよく知らないお前が言うのは、何か違うじゃないかと思う」
それは、隼人自体明瞭に言語化できぬ矛盾に対する葛藤だった。
冢本がよく分からないという不安が顔を浮かべているが、隼人自身も自分が口に出した言葉をよく分かってはいない。
後追いで、一つずつ、可能な限り言語化して伝えようとする。
それは、本来言語化不可能な領域のことなのだ。
七段審査の日の朝を思い出す。隼人は、大きな試合や審査の日には、竹刀と共に木刀を常に持参していた。
本番の前に、一人で剣道形を打つのをルーティンとしているのだ。
静かに形を打った時の、己の心がまとまる独特の感触。あれを言葉で伝えることは、おそらく不可能だろう。
それでも、形の世界の入り口程度は伝えてやりたい。
隼人は、師範室の冷蔵庫で冷やしてあったスポーツドリンクを、一本冢本に投げて渡した。
「まあ、ちょっと付き合えよ。オッサンのつまらない説教だと思ってさ」
ペットボトルのキャップを捻って一気に煽る。甘酸っぱいスポーツドリンクが水分の塩分の抜けた稽古後の体に染みわたるようだった。
「剣道形、ただ順番に手順を覚えていくだけだと、全然面白くも何ともないんだけどな。
技の『意味』と『流れ』を覚えていくと、これが結構面白いんだよ」
「『流れ』って、どういう意味スか?」
「形の持つストーリーって意味だよ。大太刀にしても、単純に技をただ七つ並べてるんじゃない。並びの中に物語がある」
「剣道形、明治維新の時に、古流剣術の技から寄せ集めた、って聞いたんスけど……」
思ったよりも良い反応に、剣道史好きの隼人が笑みを見せる。
「それ言ったの誰だ? インターネットで読んだだけじゃないのか?」
「ええと、すみません、覚えてません」
「とりあえず、一本目から三本目までやってみよう。軽く流しでやるぞ。俺が仕太刀な。
まず、一本目――」
互いに上段で構え合い、仕太刀――勝つ側の隼人が、相手の頭に木刀を振り下ろした所で寸止めする。
「ここが、一本目の事実上の決着の部分だ。俺が上段から頭に斬りつけたんだから、真剣だったら勿論お前は死んでる」
「分んないっスよ。俺結構石頭っスから」
「無駄口はいい。続けるぞ。次は二本目」
互いに中段で構え合い、仕太刀の隼人が、相手の小手を抜いて、小手へ木刀を切り付け寸止めする。
「これが二本目の決着。俺は勝ったが、お前は死んじゃいない。……まあ、手首から先は切り落されて重症だろうが」
冢本の顔に、理解の色が広がった。こいつ、本当に飲みこみがいいな、と感心をする。
三本目、互いに下段から剣先を上げ、打太刀が突いてきた所を剣前体後の動きで入れ突きに萎やして突き返す。
打太刀の冢本は、隼人の反撃を捌こうとするが、捌ききれずに後ろに下がり、木刀の先を開いて「負け」を示した。
「何度もやってるこの動き。『相手が死んでいない』という想定で、後ろに追い込む事を『位詰』と言うんだ。
学科問題に出るから覚えとけよ。実技と形は通ったが、学科で落ちたなんて話になったら洒落にもならないからな」
「ありがとうございます。1、2、3、本目は、それぞれ殺して決着、重症で決着、無傷で決着という流れになってるんスね。
分かりやすいっス!」
「昔の先生の言葉で、義・仁・勇、と言ったりするんだが、まあ、一種の思想だな。
殺さずに適切に取り押さえる方がより高度で、優れた技術という考え方だ。
小太刀の方も考えてみろ」
冢本は、目線を上に上げて、覚えたばかりの小太刀の形の手順を頭の中で繰り返し。
「あっ、こっちも、同じ意味なんスかね?」
「応。小太刀の形は、二本目と三本目で、空いている左手で相手を取り抑えるけど、一本目は頭を打って振り上げて残心で終わりだろう。
だから、同じように、一本目は打った時点で死んでる。二本目は、小太刀で頭を斬りつけたけど、まだ生きてるから左手で取り押さえる。三本目は、小太刀は太刀を制するのに使って、左手でしっかり相手を取り押さえる、という同じ流れだよ」
「なるほど~ ……でも、それじゃあ太刀の四本目以降はどうなるんスか?」
隼人は返答に詰まった。答えることはできるが、理合を冢本に分かるように完結に説明するのは、容易なことではない。
先の、三本目までの説明にしても、こんなに雑でいいのかと思うほど、大いに遺漏ある説明なのである。
視線を彷徨わせる。ふと、冢本の派手なスマホケースが目に入った。稽古が終わったあとスマホでプレイしてるソシャゲ――陰陽師GOの文字とイラストが載っている。
隼人はつい、とそれに指を向けた。
「冢本は、陰陽五行とか言って意味が分かるか?」
「おっ! バリバリ分かりますよ! 陰陽五行の相生相克は属性の基本中の基本っスよ!」
「じゃあ、形で使う、普段の稽古で使わない構えを、五行の形と言うのは教えたっけ?」
「え? そうだったんスか?」
「上段が火、中段が水、下段が地、八相が木、脇構えが金だ。
それで四、五、六本目を解釈してみると、どうなる……?」
冢本が再び脳内で動きを想像する。四本目が八相と脇構え、五本目が上段と中段、六本目が中段と下段――
「あっ、全部五行相克で勝つようになってるじゃないスか! すげえ! 気付かなかった!」
興味津々、と言った顔の冢本に、隼人はしてやったり、と思う。
「まあ、こんな事覚えても全然稽古の役には立たないんだが――雑学としては、面白いだろ」
「面白いっス! でも、どうしてこういう事を教えてくれないんスかね……?」
「今の全剣連の方針は、基本的に『形のみを教授する』ということになってるからね。
こういう形の『意図』や『解釈』は、自分で勉強したり、あるいは稽古の中で見つけなさい、という事じゃないのか?」
「え~、詰まんないっスよ……」
「いや、俺もそう思うが、全剣連の方針も分かるよ。こういうものは、下手に意味を含めて伝えると、伝えるものが意味を過剰に解釈して形が変わっていくことがあるんだ。形だけ伝えた方が、案外真意が残るものなのかもしれない」
隼人の地元の伝統芸能で、ケベス祭りという祭事がある。由来も不明なら、ケベスという言葉の意味も不明、という謎の奇祭だが、今尚人々に親しまれている。
伝統とは、そんなものでいいんじゃないか――隼人は、そうも思うのだ。
「だから、剣道形の理屈の話はこれぐらいにしておく。
形は武道らしく格好をつけるための無駄なものじゃない、とだけ、覚えておいて貰えればいい」
競技者である間は、試合で勝つことを専一にしたいと思う隼人がいるが。
師匠の德丸が使う、指の形に柄が擦り減った木刀を触って手が震える程感動した隼人も、剣道史の話が好きで若い大学生を捕まえて、退屈だろう剣道形の由縁の講釈を垂れてしまう隼人もいるのだ。
稽古とは、複数の自分を止揚していく行為のようにも思う。
「……でも、やっぱり、小太刀の形はあんまり役に立たない気がするんスよね。
使う機会ないじゃないスか。小太刀」
なんだか綺麗に説教が決まったぞ――そう隼人がそう思っていた時に、台無しになるようなことを冢本が要った。
隼人は嘆息しながら、カレンダーに目を向けた。
「そう思うなら、今度の日曜にもう一度来てくれ。本当に小太刀の形が役立つことを教えてやるよ」
大昔のグルメ漫画の台詞の真似をして、隼人は悪戯っぽく笑った。
◇
「どうも~! うわ、本当になんかヤンキーっぽい子が入ってる!」
ポニーテールの長身の女性が、慣れた足取り錬心館の敷居を跨ぎ、一礼してこちらに手を振った。
丸い眼鏡が印象的だ。
「こちら、妙武道場の山國先生。時々うちにも稽古に来て下さる」
「山國今日香です! ヨロシクヨロシク! 一応ここにも準会員としてだけど籍を置いてるから」
「こちら、うちの新人の冢本君」
「っス、宜しくお願いします……」
山國の立ち振る舞いには、独特の圧力がある。
冢本は気圧されているようだった。
「あ、山國先生! おはようございます、今日は宜しくお願いします!」
「吉屋ちゃんもヨロシクヨロシク! 今度の全日本予選はお手柔らかにね~!」
「またまたそんな事言っちゃって~」
山國は、燕と冢本に視線を送り、『うっ』と胸を抑えた。
「若い! 若すぎる! 大学生とピチピチの新社会人、アラサーの今日香お姉さんには余りにも目の毒で胸が痛くなる!
ああ、剣道だけで消えていった私の青春が憎いよう!
水﨑さん、こんな眩しい所に私を呼び出したんだから、中年同士、一杯ぐらい付き合ってくれますよね」
「わかった、わーかりましたから。稽古を始めましょう」
燕は、キャッキャと冗談交じりに話す隼人と山國を、何か言いたげな視線でじっとり眺めていたが、竹刀を握って踵を返した。
冢本はポツリと「コエー」と言って、隼人の耳元で囁いた。
「……なんか強烈な人っスね」
「まあ見とけ。あれで、山國さんはすげーんだ」
隼人の言葉の意味は、冢本にもすぐに理解できた。
山國今日香は、朱染めの竹刀袋から、長短二本の竹刀を取り出した。
滅多に見ない、竹刀の小太刀。
「……二刀」
「ああ、山國さんは、うちの県では女性で二刀を使える唯一の人だ。
都道府県対抗や国スポ選手にも選ばれてるし、九州の女性二刀じゃ一番強いんじゃないかな。
小太刀なんて使えない、って舐めたことを言ってる奴がいる、って言っておいたから、今日はボコボコにして貰えると思うぞ。
勉強させて貰え」
「……なんか俺、こっちに来てから、強い女子選手にボコられるばっかりな気がするんスけど」
「いいじゃないか。役得と思えよ。滅多にない経験だぞ」
隼人はけらけらと笑った。
冢本も笑い返そうとするが、その頬は引き攣っている。
――その日、冢本は山國の小太刀に存分に翻弄され、絡め取られ、散々に打たれた。
慣れぬ二刀と相対したものは、小太刀の洗礼を浴びることになる。
ここまでは、隼人の狙い通り。
けれど、その後冢本が隼人のことを兄貴分のように慕ってついて回るようになったことは、流石に慮外のことだったとしか言いようがない。
続




