彼らのファーストステップ
「イチ、ニ、面!、イチ、ニ、面!」
錬心館に、子供たちの声が木霊する。
隼人が引き受けた子供たちだ。けれども、その掛け声は明らかに鋭さと気合に欠けていた。
掛け声に合わせて振られる竹刀の動きもバラバラ。そもそも、竹刀を頭上まで振り上げるのが間に合っていない子も散見する。
「うーん、これは思った以上に大変そうだな」
隼人は、隣に立つ燕に視線を送った。
「今は、これぐらいの力量の子も多いですよ。素振りも、周り稽古も、ついて行けない子が多くてテンポが悪くなっています。力量の低い子は、個別指導をしていった方がいいでしょうね」
的確な分析。社会体育指導員と、武道授業協力者の資格を持っている燕は、指導者としては、明らかに隼人より優秀で立つ瀬がない。
「それにしても、色んな子がいるなあ。今更だが、少年部も変わったもんだ」
「中学生ぐらいの子も多いですね」
剣道の少年指導を取り巻く環境は、隼人が少年時代だった頃から随分変わってきたように思う。
剣道クラブの少年部、と言えば一般的には小学生以下を指す。中学校進学を機に子供たちは剣道クラブを卒部し、各々の進学先の中学校で活躍していくことになるのだ。
されど昨今、中学高校の部活動の事情は大きく変わった。
まず、学校部活動と地域クラブの移行である。働き方改革が進む中、部活動の顧問は教員の負担が余りに重いとして、実施回数を減らし、地域クラブ――錬心館のような民間のスポーツクラブに振り分けられるようになったのだ。
これはまあ、仕方のないことだろう。隼人は中学高校と、剣道の強豪校に進学したが、引退までに部活が休みだった日は年に片手で数えるぐらいしかなかった。毎日授業が終われば遅くまで稽古。土日は弁当を持って二部練、顧問がマイクロバスを運転して遠征に出かけることも度々だった。あんな真似は隼人には到底できる気がしない。一年で過労死してしまう。社会人になって、仕事上がりに稽古へ参加できる程度にはワークライフバランスを保っている隼人は、畏怖と尊敬を籠めて、中高の恩師のギラギラとした瞳を思い出すのだった。
そんな流れで、部活動のアウトソーシングが進み、中学校や高校に進学しても、週に何日かは小学校の頃に所属していた道場に戻ってきて稽古をする子は少ない。
それから――もっと世知辛い話であるが、少子高齢化が進んでいるし、少年剣道人口の減少は少子化の倍の勢いで進行している。単純に、進学した学校に剣道をする環境がない、という子も非常に多いのだ。
隼人は審判として少年やジュニアの剣道大会に携わることも多いが、毎年の子供の減り方は愕然とするほどだし、中学生になっても中学校ではなく、出身道場というスポーツクラブの単位で大会に出場してくる子供たちも珍しくはない。
「試合の度に思うよ。いつの間に中学生がこんなに弱くなったんだ? って」
「そうですね。強い子は私立の強豪校が総取りしちゃって、公立は何とかチームが組めるぐらいの人数しか残らないなんて、最近の部活動あるあるですよ」
燕の言葉に、隼人は腕を組んだ。
競技人口の減少は、そのまま競技レベルの低下に直結する。
隼人も燕も――競技の中では、かなり高い位置に立ち続けている人間である。
故に、競技人口減少も、競技レベルの低下も、憂慮すべき事態として知っていたが、肌感としてここまで強く意識したことがなかったのだ。
幼稚園から剣道を始めた隼人にとって、もはやいつ習得したかも思い出せない基本的な技の数々。彼らが何故それをできないのかを考えるためには、想像力を働かせる必要があった。
「とりあえず、跳躍素振りと切り返しからですね。竹刀をちゃんと振れていない子が多いんで、体ができてくれば自然に解決することも多いと思います」
技は後回し。まずは技術を入れるための器作りから。
燕の方針は、全く正しい。幼い頃にこの錬心館で德丸から学んだ通りのことを子供らに伝えるようとしている。
「は~い、じゃあ、みんな集まって! 跳躍素振りをもう一回やります。
振り上げる時は、左手を緩めないようにして、頭の後ろまで大きく!
私が今からお手本で20本やって見せるから、みんなよく見ててね!
行くよ~、まず最初は後ろに下がって振り上げて~
はい、イチ、ニ、イチ、ニ――」
小柄な体が、勢いよく前後に跳ねる。
ショートカットの髪が揺れ、竹刀が風切り音を立てる。
綺麗な素振りだ、と隼人は感心した。勢いと鋭さがありながら、余計な力みはまるでない。
全身の総ての力を一つにまとめて繰り出される竹刀は、振る度にブレなく喉元の高さで制止する。
――何て絵になる素振りをする奴だ。
隼人は舌を巻いた。同じことが隼人にもできるか、と言えば、それは勿論可能である。
男女の筋力差があるので、より速く振る事さえできて当然だ。
けれども、燕の素振りには、隼人の己の限界速度を高めるための跳躍素振りとは違って、見るもの魅了する華があった。
真剣でありながら、動きから喜色が溢れている。それは、子供たちに『こんな素振りができるようになりたい』と思わせる引力となる。
子供たちが、目を見開いて燕の素振りを見つめている。
「もしかして、俺、要らないんじゃねえの」
隼人はやっかみ混じりにそう呟いた。
燕の素振りが終わると、子供たちが我先にと真似した素振りを始めた。
その熱量は、先ほどの比ではない。
隼人は燕と共に、彼らのフォームを一人ずつ修正していく。
その中で、一際フォームの乱れが目に余る少年の前で足を止めた。
少年部の中で、一際体格の大きな子だった。名前は確か――垂の目印に視線を落とす。
「髙田君。速く振る必要はないから、もう一回ゆっくり最初からやってごらん」
「はい、分かりました!」
少年は素直に、大きな声で返事をした。
髙田裕翔、中学二年生。
確か――前回の冬の昇段審査で、初段に落ちた子だったか。濵尻がこの子のことを気にかけていたのを思い出す。
髙田は、やる気に欠けて下手なのかと言うと、そういう訳ではないようだ。
本人の視線は本気そのものだし、隼人の指導する言葉にも熱心に耳を傾けている。
けれども、体がそれに伴っていない。
言葉で指導したことはちゃんと憶え「分かりました」と勢いよく返答をするのだが、体現化できていないのだ。
今も、跳躍素振りを見ていると、体の動きと手足の動きがちぐはぐにずれてくるのが分かる。
跳躍素振りぐらい「できて当然」という感覚の隼人にとって、それは不可解で針の狂った時計のような気持ちの悪さを覚えるものだった。
素振りが終わり、燕は面を被っての指導に移っていく。
その間に、隼人は濵尻から譲り受けた稽古ノートを見返した。
付箋を付けた所を幾つか捲ると、髙田裕翔に関して詳細に記した頁があった。
『・保護者から、発達性の協調運動障害があると聞く
・中学校の剣道部は、稽古についていけなくて退部した
・真面目ないい子だが、ナイーブな所がある。できるだけ褒める。
・打突の時に手足が合わなくなるのを直したい(大きい面はゆっくりやらせる)
・手の内の冴えができていないので、打たれたら痛い。あまり小さい子と組ませないように
・やる気はあるから、損なわないようにする』
丁寧な筆致で、髙田少年の剣道の注意点や、指導の目標まで書き込んであった。
隼人の目から見て、濵尻は剣道家としてはあまり優秀とは思えなかった。けれども、朱線を幾つも引き、付箋だらけになった稽古日誌を読むと、指導への熱意は紛れもない本物だった事を伺える。
『髙田君の面打ちが直らない。どう教えれば伝わるのだろうか』
『剣道に対して劣等感があるようだ。皆と一緒に楽しく剣道ができるようにしてあげたい』
慮る日誌の数々には、指導者としての熱意とは裏腹の、己の指導力の至らなさへの嘆きも赤裸々に綴られていた。
これを他人に渡すのは、さぞかし勇気が要ったことだろう。
隼人は、元に立った燕に面を打ち込んでいく髙田をじっと見つめる。
髙田は、中学生二年生ながら、身長はすでに燕を幾分追い越している。
それにしても――確かに、これは拙い。初段に落ちるというのも仕方がないことだろう。
隼人たちが受審しているような、全国規模の高段位の審査は、言うまでもなく『優れた者を合格させる』審査だ。
けれども、各都道府県に委託されている低段位の審査、特に初段、二段、三段ぐらいまでは、県の方針による差はあれど、概ねが受審すれば過半数が合格する。
隼人の県の初二段に至っては、『著しく技倆が劣るだけを落す』審査と言ってもいい。
そして、眼前の髙田の剣道にはまさに著しい問題があった。
気剣体一致――発声と踏み込みと打突、体移動を同時に行うのは、剣道の基礎だ。
それすらもまともにできていないことが、音を聞くだけで分かる。ドンと踏み込んだ音と、パンと面を打った音に明らかなズレがあるのだ。動かない元立ちに面を打つだけの約束稽古でこれなら、相手のいる立ち合いでまともに打てる筈もない。
前途多難を感じる隼人だった。
◇
「|発達性の《Developmental 》|協調運動《Coordination》障害というのは、発達障害の方に起こりがちな特徴で……
ええっと、その前に、隼人せんせは、発達障害ってどのぐらい分かります?」
「まあ、一般的に知られている程度のことは……」
嘘である。燕に相談する前日、隼人はインターネットで検索して発達障害のことを調べたばかりだ。
完全な一夜漬けである。
「頼もしいです。協調運動障害は、体を連動させる動きが苦手、という発達障害の症状の一つです。
跳び箱を飛び越えるのが苦手とか、キャッチボールが苦手とか。
髙田君は典型的な粗大運動の協調が苦手なタイプですね。剣道では、打突の時に手足がバラバラになりがちという症状が起こりがち、という症例報告が幾つもあります」
「よくそんなことまで知っているもんだな」
「大学時代に、スポーツ医学に関する論文は結構読んできましたから」
燕は少しだけ誇らしげに笑った。
ほお、と隼人は感嘆の声を漏らす。
剣窓や武道学研究を欠かさず読んでる隼人は、勉強熱心な者同士、燕に通じ合うものを感じた。
……隼人は知らない。燕が読者家で剣道や運動生理学などの本に堪能なのは、小学生の頃、稽古が終わった後、物言わずに道場の本棚にある剣道雑誌を読み込んでいた隼人の姿に感銘を受けたからだということを。
「でも、どうやれば直してやれるんだろうな」
「それは……丁寧に指導してあげれば、技については直っていくと思います。ただ、生まれ付いてのものなので、すぐにという訳には……」
燕は、顔を曇らせた。
言わんとすることは隼人にも分かる。
協調運動障害が生まれつきのものである以上、気剣体の一致ができるようになったとしても、髙田は次々と困難に直面することになるだろう。
固すぎる握り。力の入り過ぎた肩。冴えのない打突。――課題は山積みである。
思い返せば、隼人も中学生時代、同級生には髙田のような子がいたのだ。その子も、強豪だった剣道部にまるで親しむことができず、いつしか最初からいなかったようにいなくなった。
『ああ、やっぱり続かなかったか』
その時、隼人はそんなことを思って、それっきりその子の事を思い出すことはなかった。
今更の話であるが、かつての自分の無情さに少しだけ胸が痛んだ。
しかし、隼人は今も、適正のないものが別の道を探すことは、当然のことのように思えるのだ。
幾ら多少の改善をみたとしても、髙田が試合で勝てるような選手になる見込みは、隼人の見立てでは殆どない。
「……意味、あるのかな」
ぼそりと隼人が呟いた瞬間、燕が師範室の机を叩いて立ち上がった。
「少なくとも、気剣体の一致を直して、一本でも打てれば、初段は取れます。
これからどんな風に剣道をやりたいかは、髙田君が決めればいいことです。
今は、まず初段が取れる剣道ができるようになることを目指して教えましょう」
眉根を寄せた真剣な言葉に、隼人は思わず仰け反った。
……生涯剣道だの、勝つ事が全てじゃない、だのという道徳的な講話は、耳にタコができるほどよく聞く。
けれども、競技で上に行く人間は、例外なく勝つ事が第一、今勝てるなら全てを擲っていいというほどの覚悟を内面化している。
隼人はそうであったし、勝てるようにならないのなら、何のために剣道をしているのか、という弱いものを軽蔑する気持ちすらあった。
けれども、現役の全日本選手である燕は、真っ直ぐに、何一つ嘘のない真剣な眼差しで隼人に説いたのだ。
まずは初段を取れる剣道を目ざせばいい、と。
隼人は宙を仰ぐ。それから項垂れて、唾を飲み込んだ。自らの浅ましさが、少し羞ずかしい。
「そうだな。その通りだな。
まずは二挙動で大きな面、それを段々早くしていけば直る筈だ。夏の審査は間に合うだろう」
「そうですね、私もそう思います」
「問題は、立ち合いの方だな。面打ちが良くなっても、一本取らせるのには難儀するぞ……」
「はい、そこなんですよ……」
頭を悩ませる二人の間に、不機嫌そうな胴間声が割り込んできた。
「まてえ子には、小技は捨てさせい」
齊木だった。まてえ、という言葉で齊木の使う方言で、鈍いとか、どんくさいといった意味になる。
「あん髙田っちゅう図体がでかいがまてえ子のことじゃろうが。
ああいう子は、まずは小技を教えず、飛び込みの面だけ鍛えるんじゃ。
体格がいいから、飛び込み面が出れば競り勝てるようになる」
「齊木先生は発達障害の子の教え方にお詳しいんですか?」
「発達なんちゃらは知らん。昔からそうしちょる。
まてえ子には、まてえ子なりの育て方があるんじゃ。いっぺんに技を教えても覚えきらんからな。
飛び込み面だけ教えて、飛び込み面なら勝てる、という自信がつくと、半ば小器用な奴より大成することがあるもんじゃ」
ほら、子供の頃から小器用じゃったが、調子に乗って七段落ちた奴がここに居るじゃろ。
齊木は、そう言ってシシシと意地悪に笑ってみせた。
この爺さん、自分もまた八段に落ちた癖に――とは思うものの、隼人は努めて笑顔で返す。
「なるほど、いつもながら大変勉強になります」
齊木と隼人の間で、視線がパチリと火花を飛ばした。
その様子を、にこにことした笑顔で燕は眺めている。
◇
髙田への指導方針は決まった。まずは『当たれば一本になる』技を身につけるところから。
協調運動に問題がある事は折りこんで、面打ちという一つの技を、構える、振り上げる、打突する、抜ける、振り返って構える、という構成要素に分解して教えていく。
教導は、燕が率先して取り組んだ。三十代半ばの隼人より歳が近く、童顔で、何より人当たりの燕の指導は、子供たちに人気だった。
燕は、髙田だけではなく、全体練習の指導も引き受けていたが、気づけば、切り返しの本数が百本、二百本と増えている。
思った以上のスパルタ方針。今までの稽古に比べてかなりきつい筈だ。
「じゃあ、もう一回百本切り返しをやってみようか! できるかな~!」
燕は指導で子供の気分を盛り立て、より高い難易度でも挑戦してやろう、と心を奮わせるように引き立てるのが上手かった。
隼人にはない特質である。この調子なら、将来は指導者としても大成するのは間違いないだろう。
しかし、髙田の改善は二人が思ったようには進まなかった。
髙田が、教えた通りに竹刀を振ろうとせず、間違った方法に撞着するのである。
発達障害の子供はこだわりが強く、自分の決めた方法を曲げない傾向がある――隼人が参考にした書籍にはそんなことが書かれていたが、ただそれだけでは説明がつかない頑固な執着だった。
「困りましたねえ」
これには、燕もどうしようもなかった。
成果の出ない、無為な日々が続いた。
燕が出張の関係で数日間道場に顔を出せなくなった時、隼人は思い切って髙田に聞いてみる事にした。
「どうして、吉屋先生の言う通りにやらないんだ?
先生の言う通りにやらないと、いつまで経っても良くならないぞ」
髙田は、拗ねたような顔で俯いていたが、隼人と目を合わさずにポツリと言った。
「だって、カッコ悪いもん」
「え?」
「中学の剣道部の先生も、吉屋先生と同じ事言った。面打ちを分けてやれ、って。
でも、やってたら、他のみんなが笑ったんだ。ダサいことやってるって。
下手だから、一人違うことやらされてる、って。
弱いから、格好悪いことやってる、って。みんな、みんなそう言って笑ったんだ」
そう言って、髙田はひんひんとしゃくり上げるようにして泣いた。
――それは、隼人のような人間からは、見えなかった光景だった。
自分が弱いのは分かっている。それを改善したい。強くなりたい。
でも、周りの子達より低いことをして強くなるのは、笑われたトラウマを刺激されるので肯んずることができない。
――だから、絶対に他の子達と同じメニューの中で強くならなければならない。
髙田が吐露したのは、そんな、二律背反に挟まれた屈折した葛藤だった。
隼人は、くしゅりと髙田の頭を撫でた。
一昔の指導者なら、『甘ったれたこというな、そんな性根だからいつまで経っても上達しないんだろうが!』と怒鳴りつけただろう。
事実、隼人の喉元まで出かかったのも、その類の言葉だ。
けれども、違う台詞を選択した。
「そうだよな。男なら、格好つけたいもんな。
ところで、これからお家の人に電話して、居残りで稽古できるか?
吉屋先生が戻ってくるまで、あと四日ある。その間に直そうぜ。
道場の鍵を開けてやるから、休みの日も来い。
あと四日のうちに秘密の特訓して、綺麗に直すことができたら、吉屋先生もきっと驚くぞ~」
髙田が、涙で濡れた顔を上げた。
「四日で直るの?」
「直るんじゃない、直すんだよ。今なら、お前を笑う奴なんて誰もいない。
二人っきりだ。他にはだれもいないぞ。百本でも、二百本でも、直るまで付き合ってやるから。
手と足を同時、ただそれだけをできるようにするんだ。
四日で直せたら――きっと、滅茶苦茶カッコイイぞ!」
髙田は、こくりと小さく頷いた。
手の焼ける奴め、どうして俺がこんな苦労を――隼人はそんなことを思ったが、不思議と不快感は無かった。
今までにない真剣さで面を打ちこんでくる髙田に、元に立った隼人は無意識に口元を緩ませる。
◇
「すごいすごい! 髙田君、気剣体一致で打ててます、凄く良くなってます!」
出張から戻ってきた燕ははしゃぐように言った。少し子供っぽい過剰な喜び方は、髙田への賞賛なのだろう。
ドン、という踏み込みと、パンという面への竹刀の打突。それがきっちりと揃っている。
隼人たちにとっては、出来て当然――というか、何故できないのか頭を捻らねばならないような基本中の基本。
見方によっては、纏っていたマイナスがゼロになっただけとも言えよう。
それでも――髙田という少年にとって、確かな前進だった。
燕に褒められ、髙田は幾度も面打ちを披露する。胸を張って、打つたびにキレを増して。
「どうやって指導したんですか? 教えて下さいよ」
隼人は、剣道具を付けた髙田と、ぐっと肩を組んで見せた。
「それはな――男の秘密だ」
え~、と燕は膨れて見せる。
「でも、凄い。気剣体一致で打てるようになったのなら、次は飛び込みで面を打てるようにしましょう。
私では直してあげられなかったのに。隼人せんせは――やっぱり、凄いです」
隼人は、賞賛も全く分不相応なものだとむず痒くなる。
指導方は燕が考えたものと寸分変わらない。半ば姑息な方法で髙田に稽古をさせただけなのだ。
何一つ褒められることなどないだろう。
「でも――これで、次は初段受かりますよ、髙田君。受かるように仕上げて見せます」
その台詞に伴った笑みは、県の選手権で優勝し、全日本出場を決めたトロフィーを掲げた時と全く同じだった。
――お前は、剣道に関することは何でも本気なんだな。俺は、出来の悪い子供の指導なんて、余計な仕事だと思っていたのに。
隼人は、燕の明るさに身を焼かれるような思いを感じていた。
下を向いてひんひん、と泣く髙田の姿を思い出す。かつての隼人なら、視界に入れようとすらしなかった姿。
エリート……とまでは自惚れないが、全国レベルの競技者としてこれまでの剣道人生を歩んできた隼人にとって、弱者の取得する段位など、勝てない者の慰み程度の価値しかなかった。
けれども、燕は衒いなく、そこに確かな価値を確信しているようだった。
燕は、隼人よりも一回りは年下だ。隼人が大学を卒業したばかりの、同じ年頃だった自分を思い返してみれば、国民スポーツ大会や全日本選手権の予選でどこまで行けるかしか考えて無かったように思う。
だけど――段位を一つずつ登っていくことにも、勝利の代替品ではなく、弱者の慰みでもない、本物の価値があり得るのではないか。
今まで顧みて来なかったそんな思いが自分の中に萌芽したことに、隼人は微かな戸惑いを覚えるのだった。
続




