第98話 返事
翌日。
朝から青空が広がっていた。
山道には木漏れ日が揺れ、夏の風が木々の葉を静かに鳴らしている。
春人たちは、黒崎と一緒に氷室へ向かっていた。
昨日決めたことは、一つ。
今日は。
氷色の歌を調べる。
誰も、それ以外の話はしなかった。
頭の中には、あの歌が何度も流れていた。
アー イーラ ムー ナー。
アー ヨーラ モー ウー。
言葉の意味は分からない。
それでも。
昨日、あの歌に石は応えた。
だから今日は。
歌そのものを知りたかった。
◇
氷室へ入る。
外の暑さが嘘のように、冷たい空気が体を包んだ。
静かな石の部屋。
水滴が落ちる音だけが、小さく響いている。
春人は奥へ向かって声をかけた。
「氷色」
返事はない。
五人は静かに待った。
黒崎も少し離れた場所で様子を見ている。
その時だった。
――アー……
小さな歌声が、氷室の奥から聞こえた。
「!」
五人は一斉に顔を上げる。
歌声は、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
アー……
イーラ……
ムー……
ナー……
暗闇の奥で、淡い青白い光が揺れた。
その光は少しずつ近づき、小さな人影になる。
歌が止んだ。
氷色だった。
「……きた」
春人はほっと笑う。
「氷色」
氷色も小さく笑った。
「……うん」
蒼太は思わずつぶやく。
「歌いながら来た……」
みゆも静かにうなずいた。
初めて見る姿だった。
◇
春人は一歩前へ出る。
「氷色」
「今日は」
「一緒に歌ってくれる?」
氷色は少し首をかしげる。
「……いっしょ」
そして、うれしそうにうなずいた。
「うん」
みゆはノートを閉じる。
「今は」
「聞く」
黒崎が静かに言った。
「始めてみ」
◇
春人は息を吸う。
「いくよ」
五人が歌い始めた。
アー……
イーラ……
ムー……
ナー……
氷色の声が、自然に重なる。
まるで最初から六人で歌っていたように、美しく一つになった。
二行目。
アー……
ヨーラ……
モー……
ウー……
歌が終わる。
余韻だけが氷室いっぱいに広がった。
誰も動かない。
その時だった。
――ワー……
春人は息をのむ。
氷室の、一番奥。
暗闇の向こうから。
知らない歌声が返ってきた。
ワー……
ナー……
ヨー……
ラー……
一節だけだった。
それ以上は続かない。
静寂だけが戻る。
◇
春人は暗闇を見つめた。
あの場所だった。
以前。
金色の光が見えた場所。
蒼太も動かない。
「……返ってきた」
陸が小さく言う。
「聞こえた」
あかりもうなずく。
みゆはノートを開こうとして、手を止めた。
今は書くよりも、この歌を忘れたくなかった。
◇
「……どうした」
黒崎の声が響いた。
五人は一斉に振り向く。
黒崎は、不思議そうに五人を見ている。
「何があった」
春人は驚いた。
「聞こえませんでした?」
「歌です」
「奥から」
黒崎は暗闇を見つめる。
しばらく耳を澄ませたあと、静かに首を横へ振った。
「いや」
「わしには、お前ら五人の歌しか聞こえんかった」
まただった。
石の光も。
返ってきた歌も。
黒崎には届かない。
みゆは静かにノートを開く。
鉛筆を走らせた。
『返歌を確認(五人)』
『黒崎には聞こえない』
◇
春人は氷色を見た。
氷色は暗闇の奥を見つめたまま、小さくつぶやく。
「……こたえ」
「返事?」
氷色は、こくりとうなずいた。
「うた」
「こたえ」
しばらく、そのまま動かなかった。
暗闇を見つめたまま。
まるで、ずっと会えなかった誰かを見つけたように。
そして。
小さく笑った。
「……ひさしぶり」
その声は、とてもやさしかった。
五人は思わず顔を見合わせる。
「久しぶり……?」
春人が聞き返す。
氷色は胸へ手を当てる。
「ずっと」
「こなかった」
「きょう」
「かえった」
春人は息をのむ。
この返事を。
氷色はずっと待っていたんだ。
その視線は暗闇から離れない。
小さくうなずく。
「……いる」
静かな氷室に、その一言だけが残った。
誰も、すぐには声を出せなかった。
春人は暗闇を見つめる。
この氷室には。
氷色だけじゃない。
歌に応える誰かがいる。
胸の奥が、静かに高鳴った。
その時だった。
――ふわり。
氷色の足元で、小さな金色の光が揺れた。
「!」
春人が息をのむ。
光は、ほんの一瞬だけだった。
灯火のように揺れる。
けれど。
次の瞬間には静かに消えてしまった。
氷色は、その消えた場所をじっと見つめる。
少しだけ寂しそうに。
小さく首を振った。
「……まだ」
「まだ?」
春人が聞き返す。
氷色は暗闇を見つめたまま、小さく言う。
「……たりない」
それ以上は言わなかった。
氷室には、また静けさだけが戻る。
水滴が、ぽちゃん、と落ちた。
春人は暗闇を見つめる。
その先へ進むには、まだ何かが足りない。
春人は、その予感だけを胸に刻んだ。
氷色の言う「まだ足りない」。
その意味を知る日は、まだ少し先だった。




