第91話 午後の納屋
昼過ぎ。
強い日差しが、甘岩の町を照らしていた。
春人は家で昼ご飯を食べ終えると、水筒を持って自転車へまたがる。
午前中の出来事が、頭から離れなかった。
歌。
止まった風。
氷色の言葉。
――石は、喜んだ。
「……」
考えながらペダルをこぐ。
田んぼの上では入道雲が大きく育ち始めていた。
◇
陸の家の納屋へ着くと、もう何台もの自転車が並んでいた。
「春人!」
あかりが手を振る。
「遅い!」
「ごめん」
「ちょっと考え事してた」
納屋へ入ると、陸が机の上を片付けているところだった。
「今日はここで整理じゃ」
蒼太はもうノートを広げている。
みゆも、自分のノートを机へ置いた。
「まず」
陸が手をたたく。
「黒崎さんの言うたこと」
「ちゃんと守るぞ」
春人もうなずいた。
「観察と考察を分ける」
「そう」
陸は紙を二枚並べる。
一枚には、
観察
もう一枚には、
考察
と書いた。
「まずは観察」
「見たことだけ」
「思ったことは禁止」
蒼太が苦笑する。
「それが一番難しいんじゃけど」
「じゃけぇ練習じゃ」
陸が笑う。
◇
みゆはノートを開いた。
「じゃあ……」
静かな声で読み始める。
「石は十一個」
春人が一枚目の紙へ書く。
『石は十一個』
「刻みがあった」
『刻みが二か所』
「一つは途中で曲がってた」
『線は途中で曲がる』
「歌を歌ったら」
みゆは少し顔を上げる。
「風が止まった」
春人の手が止まる。
「これは……」
蒼太が言う。
「観察でええんじゃね?」
「うん」
春人はうなずいた。
「『風が止まった』は見たこと」
「『石が喜んだから』は考察」
「なるほど」
蒼太が感心したように笑う。
「難しいな」
◇
あかりも手を挙げた。
「セミも静かになった」
『セミが一瞬鳴き止んだ』
陸が続ける。
「大人二人は気づいとらん」
『黒崎・杉谷は変化なし』
みゆがもう一つ付け足した。
「歌が返ってきた気がした」
春人は少し考える。
「これは……」
「気がした、だから考察?」
蒼太が首をかしげる。
みゆは少し困ったように笑う。
「じゃあ」
「『みゆはそう感じた』」
春人は笑った。
「それなら観察になる」
紙へ書く。
『みゆは歌が返ってきたように感じた』
「春人」
陸が笑う。
「お前も何かあったじゃろ」
春人は少し迷ってから言った。
「……刻みが、一瞬だけ青白く見えた」
蒼太が顔を上げる。
「わしは見えんかった」
「ぼくも」
「だから」
春人は少し笑う。
「『春人にはそう見えた』」
みゆが静かに書き加えた。
『春人には刻みが青白く見えた』
◇
机の上の紙は、少しずつ文字で埋まっていく。
誰も「なぜだろう」とは言わなかった。
黒崎との約束だからだ。
並んだのは、見たこと。
聞いたこと。
感じたことだけ。
蒼太が腕を組む。
「……これだけでも」
「結構あるな」
春人もうなずいた。
「うん」
「前までは全部ごちゃごちゃだった」
「でも」
「分けると、少し見えてくる」
納屋へ、夏の風が吹き抜ける。
机の上の紙が、かすかに揺れた。
その文字を見つめながら、五人は同じことを考えていた。
――ここからが、考える時間なんだ。
みゆが観察を全部読み上げる。
「……以上」
納屋が静かになる。
陸が頭をかく。
「で」
「結局、何が分かったんじゃ」
すると春人が紙を見ながら言う。
「観察だけで考えてみるね」
みんながうなずく。
「まず一つ」
「歌ったら、僕たち五人は何か変化を感じた」
蒼太もうなずく。
「風が止まった」
「ああ」
「セミも静かになった」
春人は二本目の線を引く。
「二つ目」
「黒崎さんと杉谷さんは何も感じなかった」
あかりが言う。
「ってことは」
「子どもだから?」
蒼太が首を振る。
「いや」
「氷色が見える五人だからじゃね?」
春人はその言葉を書かずに止まる。
「それはまだ考察」
「そっか」
みんな笑う。
そして春人が続ける。
「三つ目」
「氷色は、『石が歌を聞いた』って言った」
みゆが小さく付け足す。
「『喜んだ』とも」
春人はうなずく。
「四つ目」
「昔は歌っていた」
「今は忘れられた」
春人は紙を見つめたまま言う。
「つまり」
「昔は、石に歌を届けることは特別じゃなかった」
陸が目を丸くする。
「普通じゃったってことか」
「うん」
納屋が静かになる。
蒼太が腕を組んだまま言う。
「待て」
「もっと大事なんがある」
みんなが蒼太を見る。
「歌っただけで」
「風が止まった」
「セミが静かになった」
「氷色は『石は喜んだ』って言うた」
少し黙ってから続ける。
「……つまり」
「歌は」
「石に届くんじゃねぇか」
春人は少し考えてから、首を振った。
「まだ分からない」
蒼太が「えっ」と顔を上げる。
「でも」
春人は笑う。
「そう考えると、全部つながる」
みゆも小さくうなずく。
「……仮説」
その一言に、蒼太もにやりと笑った。
「そうじゃ」
「これはまだ仮説じゃ」
陸が笑う。
「黒崎さんに百点もらえる言い方じゃな」
納屋に笑い声が広がった。
けれど。
春人は、机の上の二枚の紙を見つめた。
「観察」と「考察」。
黒崎が教えてくれた、その順番だけは守れた気がした。
納屋の外では、入道雲がゆっくりと夏空へ広がっていた。
歌は、石に届くのかもしれない。
それが、五人が初めて自分たちでたどり着いた仮説だった。




