第89話 刻みを調べる
円形列石の前に、静かな空気が流れていた。
風が木々を揺らし、クマゼミの声だけが山へ響いている。
黒崎は、一番大きな石の前へゆっくり歩いた。
「ほんなら」
「お前らが見つけた、この刻みを調べてみようか」
五人は自然と石の前へ集まる。
何度も見た石。
それなのに、今日はまるで違って見えた。
黒崎は振り返る。
「最初に約束じゃ」
「答えを探すな」
蒼太が苦笑する。
「またそれか」
「またじゃ」
黒崎も笑った。
「調査いうんは、答え探しじゃねぇ」
「事実集めじゃ」
杉谷もうなずく。
「答えは最後でええ」
「最初から答え決めたら、おえん」
五人は静かにうなずいた。
「ほんなら、あかり」
「まず写真」
「はい!」
あかりはデジタルカメラを構えた。
「最初は全景」
カシャッ。
「次」
「少し近う」
カシャッ。
「最後」
「刻みだけ」
息を止めるように近づき、慎重にシャッターを押す。
カシャッ。
黒崎は画面を確認し、満足そうにうなずいた。
「ええ」
「場所も刻みも分かる」
「これであとから見返せる」
あかりはほっと息をついた。
次は方位磁針だった。
黒崎は石の前へ立ち、静かに針を読む。
「主面は南南東」
蒼太がすぐに書き留める。
『刻みのある面 南南東』
「高さ」
「七十八センチ」
「幅」
「四十五センチ」
陸が巻き尺を支え、春人とみゆが数字を書き写す。
「数字は嘘つかん」
黒崎が言う。
「『大きい』は人によって違う」
「じゃけど七十八センチは、誰が測っても七十八センチじゃ」
春人は思わず感心した。
「そういうことか……」
「次」
黒崎は刻みの前へしゃがみ込んだ。
「触ってもええ」
「でも」
「擦るな」
「削るな」
「苔も取るな」
五人はそっと石へ手を添えた。
ひんやりとしている。
少し湿った感触。
「ざらざらしとる」
あかりがつぶやく。
「こっちは苔が多い」
みゆが反対側を見る。
蒼太は刻みへ顔を近づけた。
「……」
何か言いかける。
黒崎が笑った。
「言うてみ」
「でも」
「見えたことだけじゃ」
蒼太はゆっくり答えた。
「細い線が一本」
「途中で少し曲がっとる」
「深さは、あんまり変わっとらん」
「ええ」
黒崎はうなずく。
「それが観察じゃ」
続いて、小さなルーペが配られた。
「おお」
陸が目を輝かせる。
「虫見るやつじゃ」
「今日は石を見る」
黒崎は笑う。
春人が最初にのぞき込んだ。
線の中には、小さな砂粒が見える。
細かな凹凸。
苔の根。
「思ったより、でこぼこしてる」
「ええ」
「それも立派な記録じゃ」
みゆも順番にのぞく。
「線の中だけ……少し色が違う」
「そう見えたなら、それを書く」
黒崎は余計な説明をしない。
見えたことだけ。
その繰り返しだった。
「ほんなら」
黒崎は立ち上がった。
「今度は比べる」
「他の石にも同じ線があるか見てみ」
五人は円形列石をゆっくり回り始める。
「こっちはない」
「これも」
「あ」
あかりがしゃがみ込んだ。
「線」
全員が集まる。
最初の刻みとは少し違う。
途中で消えている。
幅もばらばらだった。
「……違う」
蒼太がつぶやく。
「何が違う?」
黒崎はすぐには答えない。
「幅」
「深さ」
「途中で切れとる」
「ええ」
黒崎は静かに笑った。
「比べたから分かった」
五人は小さくうなずいた。
その時だった。
陸が石を見つめたまま、小さく鼻歌を歌い始めた。
「……アー……イーラ……ムー……ナー……」
春人が振り向く。
「陸?」
「いや」
陸は照れくさそうに頭をかく。
「なんか頭から離れんのじゃ」
蒼太が吹き出した。
「わしも昨日からずっとじゃ」
あかりも笑う。
「わたし、お母さんに『何その歌』って聞かれた」
みゆも小さくうなずく。
「夢でも聞こえた」
少しだけ沈黙が流れる。
春人はみんなの顔を見回した。
「……歌ってみる?」
誰も反対しなかった。
五人は自然と円形列石の方を向く。
そして、小さく声を重ねた。
「アー イーラ ムー ナー」
「アー ヨーラ モー ウー」
歌は山の中へ静かに溶けていく。
その瞬間だった。
風が、ふっと止んだ。
さっきまで絶え間なく鳴いていたクマゼミの声も、一瞬だけ途切れる。
山全体が、息を止めたようだった。
「……」
春人は思わず顔を上げる。
けれど。
次の瞬間にはまた風が吹き、セミが一斉に鳴き始めた。
「今……」
春人がつぶやく。
「あ」
みゆも小さく声を漏らした。
「静かになった」
陸も周りを見回す。
「わしも思うた」
あかりもうなずく。
「なんか、一瞬だけ」
蒼太は黙ったまま、刻みを見つめていた。
黒崎が首をかしげる。
「どうした?」
「何かあったんか?」
春人たちは顔を見合わせる。
「……」
誰も答えられない。
杉谷も辺りを見回した。
「風なら吹いとるし、セミも鳴いとるぞ」
黒崎もうなずく。
「何も変わっとらんじゃろ」
大人二人には、何も感じなかったらしい。
その時だった。
春人は刻みへ目を向ける。
ほんの一瞬だけ。
刻みの奥が、朝露を受けたように淡く青白く見えた。
「……!」
瞬きをする。
もう何もない。
ただの石だった。
隣を見る。
みゆも同じ刻みを見つめている。
「みゆ?」
小声で呼ぶと、みゆは少しだけ戸惑ったように言った。
「……歌」
「返ってきた気がした」
春人の胸が小さく鳴る。
自分だけじゃない。
でも。
黒崎も杉谷も、何も気づいていない。
「気のせい……かな」
みゆはそう言って小さく笑った。
春人も何も言えなかった。
黒崎はクリップボードを閉じた。
「今日はここまでじゃ」
「初日にしちゃ、よう見た」
杉谷も満足そうに笑う。
「もう探検隊じゃねぇな」
「立派な調査隊じゃ」
五人は顔を見合わせ、少し照れくさそうに笑った。
山を下り始める。
途中で黒崎と杉谷は駐車場の方へ向かった。
「気ぃつけて帰れよ」
「帰る時間、忘れたらおえんぞ」
「はーい!」
二人を見送ると、陸がぽつりと言った。
「……なあ」
「まだ帰るん、惜しゅうね?」
蒼太がにやりと笑う。
「行くとこあるじゃろ」
あかりもうなずく。
「報告」
みゆが小さく続けた。
「氷色」
春人も笑った。
「うん」
「今日のこと、全部話しに行こう」
五人は迷うことなく氷室へ向かって自転車を漕ぎ出した。
昼を過ぎた林は静かだった。
さっきまで聞こえていたセミの声も、木々の奥へ入るにつれて少しずつ遠ざかっていく。
やがて見慣れた氷室の入口が見えてきた。
「氷色ー!」
陸が声を張る。
返事はない。
春人はタブレットを取り出した。
画面が淡く光る。
そして五人が中へ入ると――
白い光が、ゆっくりと集まり始めた。
「……きた」
透き通る声だった。
氷色はいつものように笑っている。
けれど。
今日は五人を見る前に、ふわりと入口の方を向いた。
まるで誰かの気配を感じ取るように。
「……うた」
小さくつぶやくと、氷色は目を閉じた。
嬉しそうに耳を澄ませる。
「きこえた」
春人たちは顔を見合わせた。
「歌?」
氷色はこくりとうなずく。
みゆが小さく尋ねる。
「石が……歌ったの?」
氷色は少し考えてから首を横へ振る。
「ちがう」
「きいた」
「みんなのうた」
「よろこんだ」
五人は息をのんだ。
「え?」
春人が思わず聞き返す。
氷色は石の方を見るように、そっと胸へ手を当てた。
「うた」
「ひさしぶり」
そう言って、氷色は本当にうれしそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
春人は円形列石を思い出す。
あの歌。
止まった風。
青白く光った刻み。
全部が、ばらばらだった。
けれど。
氷色の一言で、その点が少しだけ線になった気がした。
――石は、歌を待っていた。
春人はそう思った。




