第88話 見る順番
円形列石の前には、夏の静けさが広がっていた。
クマゼミの声だけが山に響く。
黒崎は方位磁針を手にしたまま、五人を見回した。
「今日覚えることは、一つだけじゃ」
「石を見る前に」
「見るべきもんがある」
春人は思わず円形列石から目を離した。
石より先に見るもの。
そんなものがあるなんて、思ってもいなかった。
「さて」
「最初の授業を始めるか」
黒崎は地面へ一本の棒を置いた。
「まず」
「石へ近づくな」
「え?」
あかりが声を上げる。
「まだ見ちゃだめなん?」
「見る」
「じゃけど、近づく前に見る」
黒崎は周囲を指さした。
「調査いうんはな」
「石だけを見ることじゃねぇ」
「石が、どこにあるかを見ることじゃ」
五人は円形列石の周りを見回した。
木。
草。
山の斜面。
空。
今まで何度も来た場所。
なのに。
そんなふうに見たことは、一度もなかった。
杉谷が笑う。
「山は全部つながっとる」
「石だけ見よったら、おえん」
「周り全部見て、初めて石の意味が見えてくる」
蒼太が小さくうなずいた。
「……なるほど」
黒崎は続ける。
「探検は見つけることが目的じゃ」
「じゃが調査は違う」
「正しく知ることが目的じゃ」
その言葉に、五人は黙って耳を傾けた。
「見つけた瞬間が、一番危ねぇ」
春人が首をかしげる。
「危ない?」
「思い込みじゃ」
黒崎は方位磁針を軽く回した。
「これは古い石じゃ」
「これは祭りの跡じゃ」
「これは絶対そうじゃ」
「そう決めつけたら」
「人は、見たいもんしか見えん」
蒼太が息をのむ。
黒崎は笑った。
「じゃけぇ」
「最初は何も決めん」
「見たままを書く」
「それが調査の基本じゃ」
風が吹いた。
木の葉がさらさらと揺れる。
杉谷が足元を指した。
「ほれ」
「ここ」
子どもたちはのぞき込む。
「獣道じゃ」
「人が歩く道とは違う」
「こういうもんも覚えとく」
「あとで役に立つ」
陸が感心したようにうなずく。
「全然見えんかった」
「じゃろ」
杉谷が笑う。
「見よう思わにゃ、見えん」
黒崎はクリップボードを配り始めた。
「ほんなら仕事開始じゃ」
あかりへデジタルカメラを渡す。
「まず全景」
「石だけ撮るな」
「周りも全部入れろ」
「はい!」
次に、みゆへ。
「見たまま描く」
「上手に描かんでええ」
「位置が分かれば十分じゃ」
みゆは大きくうなずいた。
蒼太には方眼紙を渡す。
「気づいたことを書く」
「考えは書くな」
「見えたことだけじゃ」
「……分かった」
陸には巻き尺を渡す。
「今は測らん」
「じゃが、石までの歩きやすい道を探せ」
「足元も見るんじゃ」
「任せろ」
最後に春人を見る。
「春人」
「お前は全体を見る」
「みんなが何を見つけたか」
「全部つなげる役じゃ」
春人はクリップボードを受け取った。
「分かった」
黒崎は満足そうにうなずく。
「よし」
「これで調査隊らしくなった」
そして円形列石へ向き直る。
夏の風が、静かに吹き抜ける。
黒崎はゆっくりと口を開いた。
「ほんなら」
「まずは10分」
「誰も石には触るな」
「周りだけ見てこい」
五人は顔を見合わせた。
石を見に来たのに。
石を見てはいけない。
不思議な調査の始まりだった。
「10分経ったら呼ぶ」
「それまでは石に近づかんこと」
黒崎が言う。
「行ってこい」
「はい!」
五人はそれぞれ、自分の役目を思い出しながら歩き始めた。
◇
春人はクリップボードを抱え、少し離れた場所から円形列石を見つめた。
石だけを見るな。
周りも見る。
黒崎の言葉を思い返す。
空はよく晴れている。
列石の向こうには、背の高いアカマツ。
西側にはシダが広がり、北側には大きな岩が一つある。
今まで何度も来た場所なのに、初めて気づくことばかりだった。
「……意外と覚えとらんな」
思わずつぶやき、紙へ書き込んでいく。
『西側 シダが多い』
『北側 大きな岩』
『南側 開けている』
書いているうちに、景色が少しずつ頭の中でつながっていった。
◇
「あっ」
あかりは少し離れた場所でしゃがみ込んだ。
デジタルカメラを構える。
「黒崎さん」
「これくらい離れてええ?」
「もっと離れろ」
黒崎が手で合図する。
「石だけ写したら意味がねぇ」
「周りの木も」
「地面も」
「全部入れろ」
「全部?」
「あとで写真見た時」
「『ここじゃ』って分からんと意味がねぇ」
「なるほど」
あかりはさらに数歩下がった。
カシャッ。
画面いっぱいに、円形列石と周囲の森が収まる。
「よし」
今度は少し角度を変える。
カシャッ。
反対側へ回る。
カシャッ。
撮るたびに、同じ場所なのに違って見えた。
◇
一方、みゆは静かに座り込んでいた。
ノートへ鉛筆を走らせる。
丸。
その周りの石。
木。
岩。
一本一本、ゆっくり描いていく。
黒崎が後ろからのぞき込んだ。
「ええ」
みゆが顔を上げる。
「絵が上手じゃなくてもええ」
「位置が分かれば十分じゃ」
みゆは小さく笑った。
「うん」
少し肩の力が抜けた。
◇
蒼太は方眼紙へ次々と書き込んでいた。
『石 11個』
『高さ ばらばら』
『苔 北側に多い』
途中で手が止まる。
「……」
“祭祀跡かもしれん”
そう書こうとして、止めた。
黒崎の言葉。
見たままを書く。
蒼太はその一行を消した。
「まずは……見えたことだけ」
そうつぶやいて、もう一度鉛筆を動かした。
◇
陸は列石の周りをぐるりと歩いていた。
「こっちは歩きやすい」
「でもここ」
しゃがみ込む。
「根っこが出とる」
「足引っかけそうじゃ」
杉谷がうなずく。
「そういうんも大事じゃ」
「調査する人が転んだら、おえんけぇな」
「確かに」
陸は苦笑した。
「わし、真っ先に転びそうじゃ」
「気ぃつけぇ」
二人は笑った。
◇
10分ほど経った。
黒崎が手をたたく。
「よし」
「一回集まれ」
五人が円になって集まる。
「どうじゃ」
「石を見んでも、結構書けたじゃろ」
春人はクリップボードを見下ろした。
本当だった。
まだ石には一歩も近づいていない。
それなのに、紙はもう文字で埋まり始めていた。
黒崎は満足そうにうなずく。
「それでええ」
「調査は」
「石に着く前から始まっとる」
五人は黙ってうなずいた。
さっきまで見慣れた景色だった場所が、もう違って見えていた。
黒崎はゆっくり円形列石へ向き直る。
そして、小さく笑う。
「ほんなら」
「やっと石を見る番じゃ」
五人は思わず顔を見合わせた。
今度こそ、本当の調査が始まる。
黒崎はゆっくり円形列石へ近づいた。
五人もその後ろへ続く。
けれど。
誰一人、石へ触ろうとはしなかった。
さっき教わったばかりだからだ。
黒崎は一番外側の石の前で立ち止まる。
「よし」
「ここからは石を見る」
「じゃが」
方位磁針を地面へかざした。
「最初に見るんは、石そのものじゃねぇ」
春人が首をかしげる。
「まだ違うの?」
「違う」
黒崎は方位磁針を見ながら答えた。
「石が、どっち向いとるか」
蒼太の目が丸くなる。
「向き?」
「そうじゃ」
「石には向きがある場合がある」
黒崎は石の平らな面を軽く指した。
「この面」
「どっち向いとるように見える」
五人は石を見つめる。
「……南?」
春人が答える。
黒崎は方位磁針を確認した。
「惜しい」
「南南東じゃ」
「人間の目は案外あてにならん」
「じゃけぇ道具を使う」
春人は小さくうなずいた。
「なるほど……」
黒崎はクリップボードへ書き込む。
『一号石 主面 南南東』
「これだけ」
「まだ何の石かは考えん」
「まず事実だけを書く」
蒼太も同じように書き始めた。
◇
次に黒崎は巻き尺を取り出した。
「陸」
「はい」
「端持っとけ」
陸が巻き尺の先を石へ当てる。
黒崎はゆっくり伸ばしていく。
「高さ」
「七十八センチ」
春人が驚く。
「測るんだ」
「測る」
「大きそう、じゃ駄目じゃ」
「数字にする」
「誰が見ても同じになる」
みゆはノートへ
『高さ 約七十八センチ』
と丁寧に書いた。
◇
「次」
黒崎は石の表面を眺めた。
「触ってええ」
子どもたちが少し驚く。
「でも」
「叩くな」
「削るな」
「苔も剥がすな」
杉谷が笑う。
「山のもんも石の一部じゃ」
「それ取ったら、おえん」
「はい」
五人は慎重に石へ手を添えた。
「ざらざら」
あかりがつぶやく。
「こっちは」
みゆが反対側へ回る。
「なんか冷たい」
「こっちは苔が多い」
蒼太が顔を近づける。
「この線……」
思わず声を上げそうになった。
けれど。
黒崎が静かに言う。
「待て」
蒼太は顔を上げる。
「それが何かは」
「まだ言わん」
「まず」
「見たまま言え」
蒼太は少し考える。
「……細い線が一本ある」
「途中で曲がっとる」
「深さは浅い」
「よし」
黒崎がうなずいた。
「それでええ」
「刻みじゃ」
「人工じゃ」
「自然じゃ」
「そういう言葉は、まだ使わん」
五人は顔を見合わせた。
調査とは。
答えを探すことじゃない。
答えを急がないこと。
それが一番難しいのだと、少しだけ分かった気がした。
黒崎は静かに笑った。
「ようやく」
「調査らしくなってきたな」
五人はもう一度、円形列石を見つめた。
さっきまでとは違う。
同じ石なのに、見えるものが増えていた。
黒崎はゆっくりうなずく。
「ほんなら」
「今度は一人ずつ言うてみ」
「気づいたことだけでええ」
最初に手を挙げたのは、あかりだった。
「はい!」
「どうぞ」
「石の北側だけ、苔が多い」
「南側は少ない」
黒崎はうなずく。
「ええ」
「それは観察じゃ」
クリップボードへ書き込む。
『北側 苔多い』
「次」
陸が石の周りを見回した。
「この石だけ」
「ちょっと傾いとる」
「どっちへ?」
「えっと……」
陸はしゃがみ込み、少し離れて見直した。
「西じゃ」
黒崎は笑う。
「“たぶん”を付けとけ」
「調査で分からんことは」
「分からんでええ」
「はい」
陸は少し照れ笑いをした。
「西へ少し傾いとる……たぶん」
「それでええ」
◇
みゆはノートを見つめながら話した。
「石と石の間」
「広いところと」
「狭いところがある」
黒崎は少し驚いたようにみゆを見る。
「よう見とる」
「そこ、大事じゃ」
みゆは少しうれしそうに笑った。
◇
蒼太は石の前へ立ったまま言う。
「全部」
「形が違う」
「同じ石が一個もない」
「ええ」
黒崎がうなずく。
「それも観察じゃ」
「理由はまだ考えん」
「まずは事実」
「はい」
蒼太は素直に返事をした。
◇
最後に春人が口を開いた。
「石だけ見てた時は」
「丸く並んでるって思ってた」
少し考えて続ける。
「でも」
「周りを見たら」
「山の形に合わせて並んでるようにも見える」
一瞬、黒崎の目が細くなった。
「……面白い」
春人は少し不安になる。
「違った?」
「いや」
黒崎は首を振る。
「それは観察と考察の間じゃ」
「え?」
「『そう見える』」
「そこまではええ」
「じゃが」
「『だから昔の人はこう考えた』」
「そこまで言うたら考察になる」
春人は何度もうなずいた。
「なるほど……」
杉谷が腕を組みながら笑う。
「黒崎」
「ようそんな言葉知っとるなあ」
「仕事じゃけぇな」
黒崎も笑った。
「調査ではな」
「観察」
「記録」
「考察」
「この三つを混ぜたら、おえん」
五人は静かに聞いていた。
「観察は」
「見えたこと」
「記録は」
「残すこと」
「考察は」
「どうしてそうなったか考えること」
「順番がある」
「その順番を守るだけで」
「間違いはずいぶん減る」
風が吹き抜けた。
木漏れ日が石の上をゆっくりと移動する。
春人はその様子を見つめながら思った。
昨日まで、自分たちは探検をしていた。
でも今日からは違う。
急いで答えを探すんじゃない。
一つずつ見て。
一つずつ確かめる。
それが調査なんだ。
黒崎は腕時計へ目を落とした。
「よし」
「基本はこんなもんじゃ」
「ほんなら次は」
黒崎は一番大きな石へ視線を向けた。
「お前らが見つけた、あの刻みを調べてみようか」
五人の表情が、一斉に引き締まった。




