第8話 繋がる文字(前編)
石段を降りきった瞬間、外の世界がふっと遠ざかった気がした。
ついさっきまで耳を埋め尽くしていたセミの大合唱は石の壁に遮られ、代わりに聞こえてくるのは自分たちの足音と呼吸、それからどこかで落ちる水滴の音だけで、氷室の中には夏の午後とは思えないほど静かな時間が流れている。
ひんやりと冷えた空気が頬を撫でる。
外では汗が首筋を伝っていたのに、ここへ入るとまるで別の季節へ迷い込んだみたいだった。
「やっぱ涼しいなあ」
あかりが両腕をさすりながら言う。
「じゃろ?」
蒼太が少し得意そうに胸を張る。
「お前のじゃないだろ」
陸が呆れたように言った。
「気持ちの問題じゃ」
「意味分からん」
春人は思わず吹き出した。
でも少しだけ分かる気もする。
前に蒼太と二人で来た時も、蒼太はずっと楽しそうだった。
宝物を見せる時みたいな顔をしていた。
だからきっと、この氷室は蒼太にとって特別な場所なのだ。
春人は石壁を見上げた。
低い天井。
積み上げられた石。
長い時間をかけて削れた角。
薄暗い空間。
学校から歩いて来られる場所にあるとは思えない。
東京にいた頃なら、こんな場所は見たことがなかった。
もしあったとしても立ち入り禁止になっているだろう。
柵があって。
鍵が掛かって。
管理する人がいる。
でもここは違う。
林の奥にひっそり残っていて、まるで昔からそこにあることが当たり前みたいに静かに存在している。
それがなんだか不思議だった。
「何回見ても秘密基地じゃな」
あかりが辺りを見回した。
「分かる」
春人も頷く。
本当にそう思った。
秘密基地。
探検。
宝探し。
そんな言葉がぴったりだった。
昨日までなら、自分がそんなことを考えるとは思わなかった。
転校してきたばかりで。
友達もほとんどいなくて。
学校に慣れるだけで精一杯だったはずなのに。
今は違う。
胸の奥が妙に落ち着かない。
怖いわけではない。
むしろ逆だった。
何か面白いことが始まりそうで、心が勝手にそわそわしている。
その時だった。
蒼太が壁の前で立ち止まる。
さっきまで騒いでいたのに、急に静かになった。
腕を組みながら石壁を見上げている。
「やっぱりじゃ」
小さく呟く。
「何が?」
春人が近付いた。
蒼太は壁の一角を指差した。
「ここ」
春人も目を凝らす。
最初は分からなかった。
ただの石だった。
けれど見る角度を変える。
少し近付く。
目を細める。
すると石の表面にうっすらと線が浮かび上がってきた。
曲線。
丸。
交差する線。
文字のような。
模様のような。
不思議な刻み跡だった。
「前からあったじゃろ」
あかりが言う。
「ある」
蒼太が頷く。
「でも何か違う」
「またそれ?」
「またじゃ」
「何が違うん」
「分からん」
「分からんのかい」
あかりが即座に突っ込んだ。
陸が苦笑する。
でも蒼太は笑わなかった。
本当に考えている時の顔だった。
春人も壁を見上げる。
何が違うのかは分からない。
でも。
不思議と目が離せなかった。
ただの模様には見えない。
意味がありそうな気がする。
誰かが何かを残したような気がする。
それが何なのかは分からない。
分からないからこそ気になる。
胸の奥が少しだけざわついた。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちた。
その音が静かな氷室の中へ広がっていく。
春人は、その音を聞きながらランドセルへ目を向けた。
中にはタブレットが入っている。
昨夜撮ったスクリーンショット。
昼休みにみんなへ見せた画像。
もし。
もし本当に関係があるなら。
今から見るものは、ただの偶然ではなくなる。
「なあ」
春人はランドセルを下ろした。
三人が振り向く。
「これ」
タブレットを取り出す。
薄暗い氷室の中で、画面だけが青白く光った。
保存していた画像を開く。
昼休みに見せた時と同じ画面だった。
――この声が聞こえていますか?
その文字の下には、相変わらず意味の分からない記号のような文字が並んでいる。
蒼太が無意識に身を乗り出した。
「近いって」
春人が少し下がる。
「近付かんと見えんじゃろ」
「見えるよ」
「見えん」
真顔だった。
陸が吹き出す。
「ほっとけ」
蒼太はもう返事もしていなかった。
画面を見る。
壁を見る。
また画面を見る。
そして壁を見る。
まるで二枚の地図を重ねているみたいだった。
氷室の中から会話が消える。
ぽたり。
また水滴が落ちる。
春人は自分の心臓の音が聞こえそうな気がした。
昨日までなら信じなかったと思う。
学校のタブレットに変な文字が現れて。
放課後にみんなで氷室へ来て。
その文字と壁の文字を見比べている。
漫画みたいだ。
ゲームみたいだ。
でも今は違う。
目の前に本物の文字がある。
蒼太は真剣な顔でそれを見つめている。
いつもならすぐ喋る。
思ったことをそのまま口にする。
そんな蒼太が何も言わない。
それだけで、春人は少し緊張していた
その様子を見ているだけで胸の奥が落ち着かなくなる。
もし本当に繋がっていたら。
もし意味があるのだとしたら。
この町へ来たことにも、何か意味があるのだろうか。
そんなことまで考えてしまう。
その頃――。
◇◇◇
みゆはスクールバスを降り、家へ続く坂道を歩いていた。
夕方の風が頬を撫でる。
田んぼの向こうではカエルが鳴き始めていた。
夕日に照らされた稲が風に揺れ、そのたびに金色の波が広がっていく。
見慣れた景色だった。
毎日見ている景色だった。
でも今日は少し違って見えた。
頭の中に浮かぶのは、昼休みに見たあの文字ばかりだったからだ。
――この声が聞こえていますか?
意味は分からない。
誰が送ったのかも分からない。
それなのに。
見た瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
怖いわけではない。
嫌な感じでもない。
でも気になった。
振り返らなければいけない気がした。
呼ばれているような気がした。
だから今も忘れられない。
春人たちは今頃、氷室へ着いているだろうか。
何か見つかっただろうか。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか家が見えていた。
「ただいま」
玄関を開ける。
「おかえり」
祖母の声が返ってきた。
居間では祖父が新聞を読んでいた。
老眼鏡の向こうから顔を上げる。
「学校はどうじゃった」
「普通」
みゆは答える。
でも今日は、そのまま通り過ぎなかった。
祖父の向かいへ座る。
祖父が少し首を傾げた。
「どうした」
みゆは少しだけ迷った。
そして。
「聞きたいことがある」
そう言った。
(後編へ続く)




