第9話 繋がる文字(後編)
祖父は新聞を畳み、老眼鏡を少し上げながらみゆの顔を見た。
窓の外では夕日が田んぼを赤く染め始めていて、風が吹くたびに稲が揺れ、その光が波みたいに広がっている。
みゆは、その景色を横目に見ながら口を開いた。
「氷室の壁の文字」
その言葉を聞いた瞬間、祖父の表情がわずかに変わった。
驚いたというより、懐かしいものを思い出したような顔だった。
「あれか」
「見たことある?」
「ある」
「読める?」
「読めん」
即答だった。
みゆは少しだけ眉をひそめる。
「じゃあ何なん?」
「知らん」
祖父は苦笑した。
「わしが子どもの頃からあった」
「昔から?」
「昔からじゃ」
みゆは少し身を乗り出した。
「誰が彫ったん?」
「それも知らん」
「誰も?」
「誰もじゃ」
祖父は湯飲みを手に取り、少しだけお茶を飲んだ。
それから窓の外へ目を向ける。
夕日に照らされた田んぼの向こうでは、丸い山が静かに空を支えていた。
「ただな」
祖父がゆっくり言う。
「年寄りの中には、神様の文字じゃ言う人もおった」
「神様の文字?」
「そうじゃ」
「神様が書いたん?」
祖父は少し笑った。
「どうじゃろうな」
「またそれ」
「本当に分からんのんじゃ」
みゆは頬を膨らませる。
聞きたいのはそういう答えじゃない。
でも祖父は昔からそうだった。
知らないことを知ったふりしない。
分からないものは分からないと言う。
だからこそ、たまに話す昔話には妙な説得力があった。
「神様って何?」
みゆが聞く。
祖父は少し考えた。
すぐには答えない。
言葉を探しているようだった。
「わしが子どもの頃はな」
ゆっくり話し始める。
「神様いうたら空の上におるもんじゃと思っとった」
みゆは黙って聞く。
「お願い事を聞いてくれる人」
「見守ってくれる人」
「そういうもんじゃと思っとった」
祖父は少し笑った。
「でも年を取ると考えが変わる」
「どう変わったん?」
窓から風が入る。
風鈴が小さく鳴った。
ちりん。
その音が消えてから祖父は続ける。
「神様いうんはな」
少し間を置く。
「人が忘れんかったもんかもしれん」
みゆは首を傾げる。
「忘れんかったもの?」
「そうじゃ」
祖父は頷いた。
「願い」
「祈り」
「誰かを思う気持ち」
「大事にしとったもの」
「そういうもんが長い長い時間をかけて残ったんかもしれん」
みゆには少し難しかった。
でも、その言葉はなぜか心に残った。
昼休みに見た文字。
あの時感じた胸のざわつき。
呼ばれているような感覚。
それらが祖父の言葉とどこかで繋がっている気がした。
「じゃあ神様はおらんの?」
祖父は笑う。
「おるかもしれん」
「どっち」
「分からん」
即答だった。
みゆは呆れた顔をする。
「おじいちゃん、そればっかり」
「分からんもんは分からん」
祖父は肩をすくめる。
そして少し真面目な顔になった。
「ただな」
みゆは顔を上げる。
「昔の人は、今のわしらより世界を広く見とった気はする」
「広く?」
「山にも意味がある」
「川にも意味がある」
「風にも意味がある」
「石にも意味がある」
祖父はゆっくりと言葉を重ねる。
「全部繋がっとると思っとったんじゃろうな」
みゆは窓の外を見る。
夕日を受けた田んぼが金色に光っていた。
風が吹くたびに稲が揺れ、その向こうでは丸い山が静かに空を支えている。
毎日見ている景色だった。
当たり前にそこにある景色だった。
でも。
もし本当に昔の人が、山にも風にも石にも意味があると思っていたのなら。
この景色は、自分が思っているよりずっと大きなものなのかもしれない。
そんなことを考えたのは初めてだった。
「じゃあ文字は?」
祖父は少し考えた。
本当に考えていた。
そして静かに言う。
「昔の人が神様へ送る言葉じゃったんかもしれんな」
みゆは黙って聞いている。
祖父は少し笑った。
「あるいは」
風鈴がまた小さく鳴った。
「神様から人へ届いた言葉じゃったんかもしれん」
◇◇◇
その頃。
氷室では。
ぽたり。
どこかで落ちた水滴の音が静かな石室に響いていた。
蒼太は壁とタブレットを何度も見比べている。
壁。
タブレット。
壁。
タブレット。
そのたびに春人の心臓も一緒に上下しているような気がした。
もし違ったら。
ただの偶然だ。
でも。
もし本当に同じだったら。
昨日までの世界は昨日までの世界じゃなくなる。
春人はそんな気がしていた。
「どう?」
我慢できなくなって聞く。
蒼太はすぐには答えなかった。
もう一度壁を見る。
もう一度画面を見る。
そして小さく呟いた。
「……似とる」
昼休みにも聞いた言葉だった。
けれど今は違う。
春人にはそう感じられた。
昼休みの蒼太は、雰囲気が似ていると言った。
でも今の蒼太は違う。
何かを見つけた顔をしている。
「だから言っとるじゃろ」
あかりが言う。
蒼太は首を振った。
「違う」
「何が?」
「昼は雰囲気じゃった」
壁を指差す。
「でも今は違う」
その指が文字をなぞる。
春人たちも思わず身を乗り出した。
蒼太は壁の並びを追う。
そしてタブレットの画面を指差した。
「これ」
春人の心臓がどくりと鳴る。
「何?」
「この並び」
蒼太は壁を見る。
「こっち」
次に画面を見る。
「こっち」
そしてもう一度壁を指差した。
「同じ順番で並んどる」
一瞬。
誰も言葉を失った。
春人は画面を見る。
壁を見る。
そしてもう一度画面を見る。
読めない。
意味も分からない。
でも。
確かに似ている。
ただ似ているだけじゃない。
並び方が同じだった。
まるで。
別々の場所にあったパズルの欠片が、初めて繋がったみたいだった。
春人の胸の奥が熱くなる。
転校してきたばかりだった。
この町のことなんて何も知らなかった。
友達もいなかった。
学校も知らなかった。
なのに今、自分は氷室の中で友達と一緒に謎の文字を見つめている。
それが妙に嬉しかった。
「偶然かな」
「偶然で済ませるには似すぎとる」
蒼太は壁から目を離さなかった。
石に刻まれた文字を指でなぞる。
それからタブレットへ視線を移した。
「偶然じゃねかろう」
小さく息を吐く。
「俺はそう思う」
その声を聞いた瞬間だった。
壁に刻まれた文字。
昨日タブレットへ現れた文字。
もし本当に繋がっているのだとしたら。
これはただの故障じゃない。
ただのいたずらでもない。
もっと別の何かだ。
春人は無意識に息を飲む。
怖くないわけではない。
でも。
それ以上に胸が高鳴っていた。
もしかしたら。
自分たちは今。
本当に、とんでもない秘密の入口に立っているのかもしれなかった。




