第10話 氷室の壁
最初は、気のせいだと思った。
昼休みに見た文字が頭に残っているから、壁の傷までそれらしく見えてしまうのだろうと、春人は何度も自分に言い聞かせていた。
氷室の壁に残る跡は、どれもはっきりしたものではなかった。
石は長い時間を吸い込んだように黒ずみ、ところどころ苔に覆われ、湿った砂粒のようなものが薄くこびりついている。タブレットの光をまっすぐ当てても何も見えない場所が、少し角度を変えただけで急に細い影を浮かび上がらせたり、反対に、文字に見えたはずの線がただのひび割れに戻ってしまったりする。
読めない。
分からない。
そもそも本当に文字なのかどうかも分からない。
それなのに、春人は壁から目を離せなかった。
冷たい空気が頬を撫でていく。外ではまだ夏の午後の熱が残っているはずなのに、この石室の中だけは別の時間が流れているようだった。水を含んだ石の匂いと、湿った土の匂いが混ざり合い、時々どこかで落ちる水滴の音が、ぽたりと小さく響いては消えていく。
春人はスクリーンショットを開いたまま、もう一度壁へ光を向けた。
白い画面に並んだ記号。
氷室の壁に刻まれた曖昧な線。
その二つを見比べているうちに、気のせいだと思っていたものが少しずつ形を持ち始める。
石の表面を斜めに滑った光が、それまで見えなかった溝を浮かび上がらせた。
丸い印の隣に短い線があり、その先には小さな点が続いている。欠けているところもあるし、苔に隠れてしまっているところもある。けれど、その並びを見た瞬間、春人の胸がどくりと鳴った。
見覚えがあった。
昼休みから何度も画面を開いて見ていた、あの並びだった。
勘違いかもしれない。
ただ似ているだけかもしれない。
そう思おうとしても、目は何度も同じ場所へ戻ってしまう。壁を見て、画面を見て、もう一度壁を見る。そのたびに、胸の奥が少しずつ熱くなっていった。
「蒼太」
春人の声は、自分で思ったより少し大きく響いた。
氷室の中は静かだったから、余計にそう聞こえたのかもしれない。
離れた壁を見ていた蒼太が振り返る。
「何?」
「これ」
春人は壁を指差した。
タブレットの光を斜めから当てると、苔と湿った砂粒の間に、細い溝がうっすら浮かび上がっている。
丸い印。
その横の短い線。
さらにその先の小さな点。
欠けているし、途中は苔に隠れている。
でも春人には、昼休みに何度も見たスクリーンショットの並びと同じに見えた。
「これ、同じじゃない?」
言った瞬間、胸の奥が少し熱くなる。
間違っていたら恥ずかしい。
ただの傷だったらどうしよう。
けれど、それ以上に誰かに見てほしかった。
自分だけがそう見えているのではないと、確かめてほしかった。
蒼太はすぐにやって来た。
相変わらず近い。
春人の肩へぶつかりそうな勢いで壁を覗き込み、次にタブレットの画面へ顔を寄せ、また壁へ視線を戻す。
その数秒が、春人にはやけに長く感じられた。
氷室のどこかで水滴が落ちる。
ぽたり。
その音が消えた直後だった。
「うわああああっ!」
蒼太の声が、石室の中へ跳ね返った。
春人は思わず肩を跳ねさせる。
あかりが「何なん!」と叫び、陸が「声でか」と笑う。
けれど蒼太はまったく聞いていなかった。
「待って待って待って待って!」
蒼太は壁へさらに顔を近付ける。
「近いって!」
春人が言うと、蒼太は一瞬だけ下がったが、すぐまた近付いた。
「いやいやいや、これ、これ、これ見ろって!」
「見てるよ!」
「同じじゃろ!」
「だからそう言ってるって!」
「違うんじゃ!」
「何が!?」
「いや、同じなんじゃけど、同じなのがやばいんじゃ!」
「意味分からん!」
春人は笑ってしまった。
自分が見つけたはずなのに、蒼太の方が何倍も大騒ぎしている。
けれど、その騒ぎ方が嬉しかった。
蒼太が本気で驚いている。
本気で興奮している。
それだけで、さっきまで胸の隅にあった「ただの見間違いかもしれない」という不安が、どこかへ吹き飛んでいく気がした。
「春人!」
「何?」
「お前すごいぞ!」
「え?」
「最初に見つけたん、お前じゃろ!」
「いや、たまたまだって」
「たまたまでも見つけたじゃろ!」
蒼太は本気だった。
冗談を言っている顔ではなかった。
その真っ直ぐな声が、春人の胸へ思った以上に深く入ってくる。
氷室の中は寒いくらいなのに、顔だけが熱くなる。
転校してきてから、春人はずっと知らない側だった。
この町の道も、学校の雰囲気も、氷室のことも、蒼太たちの当たり前も、全部、自分だけが後から教えてもらうものだった。
でも今は違う。
みんなが集まっている。
蒼太が目を輝かせている。
その始まりは、自分が指差した、あの薄い記号だった。
嬉しい。
ただそれだけなのに、胸の奥がくすぐったくて、じっとしていられない気持ちになった。
「あっ!」
今度は陸が少し離れた壁を照らした。
「こっちにもある!」
「どれぇ!?」
蒼太が飛んでいく。
春人も思わず後を追った。
あかりも「待ちんさい、走るな!」と言いながら結局ついてくる。
陸が照らしていた場所には、石の継ぎ目に沿うように、さっきとよく似た形が残っていた。
苔に半分隠れている。
細い線はところどころ途切れている。
でも、見える。
一度見つけてしまうと、不思議なくらい目が慣れてくる。
さっきまでただの壁にしか見えなかったものが、急に別の顔を持ち始める。
壁の端。
低い石の下。
湿った砂粒がこびりついた場所。
そこから次々に、似た記号が姿を現していく。
「これもじゃない?」
あかりが言う。
「うわ、ほんまじゃ!」
蒼太が叫ぶ。
「撮れ撮れ!」
「撮ってる!」
「こっちは?」
「それは苔じゃろ」
「いや、文字かもしれん!」
「何でも文字にすな!」
カシャ、とタブレットのシャッター音が響く。
また別の場所で、カシャ。
薄暗い氷室の中を、四つの光が忙しく行き来する。
誰かが呼ぶ。
みんなで覗き込む。
写真を撮る。
また別の場所へ向かう。
その繰り返しは、まるで宝探しだった。
いや、宝探しより面白いかもしれない。
宝物があると分かっているわけではない。
意味も分からない。
読めもしない。
それなのに、見つけるたびに胸が跳ねる。
まるで氷室そのものが、今まで隠していたものを少しずつ見せてくれているみたいだった。
「待てよ」
蒼太が撮った写真を覗き込みながら言う。
「これ、神代文字かもしれん」
「出た」
あかりが即座に言った。
「いや待てって!」
蒼太は片手を上げる。
「まだ終わっとらん!」
「どうせ宇宙人まで行くじゃろ」
「何で分かった!?」
「やっぱり行くんじゃん!」
陸が吹き出す。
春人も笑う。
蒼太は本気で首を振った。
「可能性はあるじゃろ!」
「なんでそこだけ急に飛ぶん!」
「飛んどらん!」
「飛んどるわ!」
「神様の文字かもしれんし、超古代文明かもしれんし、宇宙人かもしれん!」
「全部盛りすぎじゃろ!」
あかりの声に、また笑いが起きた。
氷室の中は冷たいのに、四人の周りだけ温度が上がったみたいだった。
春人も笑いながら、けれどまだ胸の奥が熱いままだった。
蒼太が騒いでいる。
陸が笑っている。
あかりが突っ込んでいる。
その真ん中に、自分が見つけたものがある。
それが嬉しくて、少しだけ誇らしくて、でも誰かにそう言うのは照れくさくて、春人はただタブレットを握りしめた。
その時だった。
蒼太が壁の一点を見つめたまま、急に動かなくなった。
さっきまで笑っていた顔から、すっと表情が消える。
口が少し開いたまま止まっている。
「……蒼太?」
春人は首を傾げた。
返事はない。
蒼太は壁を見ている。
ただじっと。
まるで誰かが一時停止のボタンを押したみたいだった。
「おーい」
陸が蒼太の前で手を振る。
それでも反応しない。
「何、急に怖いんじゃけど」
あかりの声が少し小さくなる。
さっきまであんなに騒がしかった氷室の中から、音が引いていく。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちた。
さっきまで聞こえなかったその音が、妙にはっきり耳に届いた。
春人も、蒼太が見つめている壁へ視線を向ける。
そこには、さっき撮ったものとよく似た記号が並んでいた。
何がそんなに気になるのか、春人にはまだ分からない。
けれど、蒼太の様子がさっきまでと違うことだけは分かった。
暴走している時の顔ではない。
ふざけている顔でもない。
本当に何かに引っ掛かった時の顔だった。
やがて蒼太が、小さく息を吸った。
「……違う」
「何が?」
春人が聞く。
蒼太はすぐには答えなかった。
壁を指差し、それから自分のタブレットに残った写真を開く。
その指先だけが、いつもの蒼太らしくなく、少し慎重に動いていた。
「同じ形があるんじゃない」
蒼太は一度言葉を切った。
自分でも、見つけたものを確かめながら話しているようだった。
「並びが同じなんじゃ」
その瞬間、春人の胸が、さっきとは違う意味でどくりと鳴った。
最初に見つけた時の熱とは違う。
蒼太に褒められた時の嬉しさとも違う。
もっと静かで、少し冷たいものだった。
春人はもう一度、壁を見る。
丸。
線。
点。
そしてまた続く、似たような形。
読めない。
意味も分からない。
けれど確かに、同じような並びが何度もそこにあった。
さっきまで宝探しみたいに見えていたものが、その瞬間、別の何かに変わった気がした。
遊びではない。
ただの偶然でもない。
もしかしたら、自分たちは本当に何かの入口に立っているのかもしれない。
そんな考えが胸をよぎった、その時だった。
林の向こうから、かすかに音楽が聞こえてきた。
最初は風の音かと思った。
けれど違う。
町のどこかにあるスピーカーから流れてくる、防災無線のメロディーだった。
陸が腕時計を見る。
「あ」
小さく声を漏らす。
「五時じゃ」
その言葉で、春人ははっとした。
そういえば、外の世界があった。
学校も。
宿題も。
家へ帰る時間も。
さっきまで当たり前だったものが、防災無線の音と一緒に戻ってくる。
けれど胸の奥には、まだ氷室の冷たさが残っていた。
同じ並び。
何度も繰り返される記号。
蒼太が呟いた「違う」という声。
その全部が、春人の中でまだ消えずに残っていた。
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