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第11話 文字じゃない文字


 あかりと陸がそれぞれの道へ曲がっていくと、さっきまで賑やかだった帰り道が急に静かになった。


 残ったのは春人と蒼太だけだった。


 二人並んで歩く道の脇では、田んぼの稲が夕方の風に揺れている。


 昼間の強い日差しはまだ空のどこかに残っているはずなのに、吹いてくる風は驚くほど柔らかかった。


 さらさらと葉の擦れる音が続いている。


 その向こうではヒグラシが鳴き始めていた。


 東京にいた頃にもセミはいた。


 けれど、こんなふうに空の広さまで一緒に聞こえてくるような鳴き方はしていなかった気がする。


 春人はふと空を見上げた。


 まだ青い。


 五時を過ぎたとは思えないほど明るい。


 けれど昼間とは違う。


 少しだけ色が薄くなり始めていて、夏の夕方がゆっくり近づいているのが分かった。


 隣では蒼太が珍しく黙っていた。


 氷室を出るまであれだけ騒いでいたのに、今は何かを考え込んでいる。


 それでも表情を見る限り、悩んでいるというより、頭の中で何かを組み立てているようだった。


 やがて蒼太がぽつりと言う。


「やっぱり変じゃ」


 春人は思わず笑った。


「まだ考えてたのか」


「考えるじゃろ」


 蒼太は前を向いたまま答える。


「だって気になるんじゃ」


 その声は氷室で宇宙人だの神代文字だの言っていた時よりずっと小さかった。


 風の音に混じってしまいそうなくらいだった。


「何がそんなに?」


 春人が聞く。


 蒼太は少しだけ黙った。


 何か説明しようとしているらしい。


 けれど上手く言葉が見つからないようだった。


「分からん」


 結局そう言った。


 春人は吹き出す。


「またそれかよ」


「でもな」


 蒼太は歩きながら田んぼの向こうを見た。


 その視線の先には、夕方の光を受けて揺れる緑の波が広がっている。


「何かある」


 その言い方は不思議だった。


 確信しているわけではない。


 証拠もない。


 それなのに、そう思わずにはいられないような声だった。


 春人は何も言わなかった。


 言えなかった。


 自分も同じだったからだ。


 あの氷室には、まだ何かある。


 何なのかは分からない。


 けれど、あそこで終わりではない気がする。


 そんな感覚だけが胸の中へ残っていた。


◇◇◇


 やがて蒼太の家へ続く道が見えてくる。


「じゃあまた明日な」


「うん」


 蒼太は手を振った。


 歩き出してからも、まだ何か考えている顔をしていた。


 春人はその背中を見送りながら少し笑う。


 たぶん今日の夜も考えるのだろう。


 宇宙人だとか。


 古代文明だとか。


 そういう訳の分からないことを。


 けれど、その姿が何となく蒼太らしかった。


◇◇◇


 家へ帰ると、玄関の向こうから夕飯の匂いが流れてきた。


 醤油と出汁の匂い。


 どこか甘い匂いも混じっている。


「おかえりー」


 母の声が聞こえる。


「ただいま」


 ランドセルを下ろし、水筒を流しへ持っていく。


 手を洗う。


 制服を着替える。


 いつもと同じことをしているはずなのに、頭の中にはまだ氷室の石壁が残っていた。


 夕飯の間もそうだった。


 母が学校はどうだったと聞く。


 春人はちゃんと答えた。


 給食の話もした。


 担任の先生の話もした。


 それなのに、どこか上の空だった。


 頭の片隅にはずっと同じものが浮かんでいる。


 丸。


 線。


 点。


 そしてまた丸。


 同じように繰り返される並び。


 蒼太の、


 ――並びが同じなんじゃ。


 という声まで思い出せそうだった。


 夕飯が終わり、母が食器を片付け始める。


 テレビでは天気予報が流れていた。


 父はダイニングテーブルでノートパソコンを閉じたところだった。


 その様子を見ながら、春人は少し迷う。


 氷室のことは言わない。


 あれはまだ、自分たちだけの秘密みたいな気がした。


 でも。


 聞いてみたいことはあった。


「父さん」


「ん?」


 父が顔を上げる。


 春人は少しだけ考えた。


 そして言った。


「文字じゃない文字ってある?」


 父は一瞬きょとんとした顔をした。


 けれどすぐに興味深そうな表情へ変わる。


「面白い質問するな」


 そう言いながら椅子へ座り直した。


 春人は少し身を乗り出す。


 氷室の冷たい空気。


 壁に刻まれた記号。


 蒼太の真剣な横顔。


 それらが再び頭の中へ浮かんでいた。


 父がどんな答えを返すのか。


 春人は自然と耳を傾けていた。


 父は少し考えるように顎へ手を当てていたが、やがてテーブルの端に置かれていたメモ用紙を引き寄せると、ペンを手に取り、さらさらと紙へ丸を描いた。


 そのまま中心へ短い線を一本引き、出来上がった印を春人の方へ向ける。


「例えばこれ」


 春人は身を乗り出した。


 白い紙の上に描かれているのは単純な図形だった。


 けれど見覚えがある。


「道路標識?」


「正解」


 父は少し笑った。


「でも、これ文字か?」


 春人は改めて紙を見る。


 読んだわけではない。


 文字が書いてあるわけでもない。


 それでも意味は分かる。


 進んではいけない。


 注意しろ。


 そういうことが伝わってくる。


「文字じゃない」


「じゃろ?」


 父は頷くと、今度は別の印を書き始めた。


 四角。


 丸。


 簡単な記号。


 さらに地図記号のような形をいくつか並べ、その横へ小さな音符まで描き足していく。


 春人は黙って見ていた。


 父のペン先が紙の上を走る音だけが聞こえる。


 台所では母が食器を洗っていた。


 水の流れる音がする。


 窓の外ではヒグラシが鳴いている。


 どこにでもある夏の夜だった。


 それなのに、春人の頭の中には氷室の壁が浮かんでいる。


「楽譜もそうじゃな」


 父は音符を指先で示した。


「音楽を知らん人には意味が分からん。でも分かる人にはちゃんと読める」


 春人は頷いた。


 確かにそうだ。


 自分には楽譜は読めない。


 けれど先生なら読める。


 音楽をやっている人なら読める。


 同じ紙を見ているのに、見えているものが違うのだ。


「地図記号も同じじゃ」


 父はさらに続ける。


「初めて見る人にはただの印でも、意味を知っとる人には情報になる」


 そう言いながらペンを回し、少し考えるように視線を上げた。


「コンピューターなんか、もっとそうじゃな」


 春人は顔を上げる。


 父が一番詳しい話だった。


 父は紙の上へ矢印を書き、その先へ丸を描き、さらに線を伸ばして四角を描く。


 それは文章というより図に見えた。


 地図にも似ている。


 迷路にも似ている。


「コンピューターは、人間みたいに文章を読むわけじゃない」


 父のペン先が紙の上を動く。


「ここへ行け」


 矢印を引く。


「次はこれをしろ」


 また線を伸ばす。


「終わったら次へ進め」


 さらに別の印を書く。


「そういう命令を順番に並べていく」


 春人は紙を見つめた。


 矢印。


 丸。


 四角。


 どれも文字ではない。


 けれど意味がある。


 そして、その意味は並び方によって変わる。


「つまりな」


 父はペンを置いた。


「記号ひとつに意味がある場合もあるし、並び方そのものに意味がある場合もあるんよ」


 その瞬間だった。


 春人の胸がどくりと鳴った。


 頭の中へ、氷室の壁が浮かぶ。


 湿った石。


 苔の隙間。


 何度も見つかった不思議な並び。


 そして蒼太の声。


 ――同じ形があるんじゃない。


 ――並びが同じなんじゃ。


 あの言葉が、不意に別の意味を持った気がした。


 春人は無意識に息を止める。


 もし。


 もし蒼太の言う通りだったら。


 もし、あれが文字じゃなかったら。


 読ませるためのものじゃなかったら。


 あの壁に刻まれていたものは、一体何なのだろう。


 誰が作ったのだろう。


 何のために残したのだろう。


「春人?」


 父の声で我に返る。


「あ、ううん」


 慌てて首を振る。


 氷室のことは話さない。


 まだ話したくなかった。


 自分でも理由は分からない。


 けれど、あの場所だけは自分たちだけの秘密にしておきたい気がした。


 父は不思議そうに笑った。


「何か難しい宿題でも出たんか?」


「違う」


 春人も少し笑う。


 本当に違った。


 宿題なんかじゃない。


 もっと分からない何かだった。


 窓の外ではヒグラシの声が少しずつ遠くなり、代わりに夜の虫の声が聞こえ始めている。


 居間の時計が静かに時を刻む。


 いつもの夜だった。


 けれど春人の頭の中では、まだ氷室の壁が消えなかった。


 同じ並び。


 何度も繰り返される記号。


 そして蒼太の真剣な横顔。


 あれは本当に文字なのだろうか。


 それとも。


 もっと別の何かなのだろうか。


 答えはまだどこにもない。


 けれど一つだけ分かることがあった。


 明日になったら、また氷室へ行きたくなるだろうということだった。

お読みいただきありがとうございます。

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