第12話 土曜日の約束
家に帰ってからも、蒼太の頭の中にはあの文字が残っていた。
玄関へランドセルを置き、母へ「ただいま」とだけ声をかける。
「おかえりー」
台所から返事が聞こえた。
何かを炒める音と一緒に、醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。
けれど蒼太はそのまま二階へ上がった。
今はそれどころではない。
部屋のドアを開けると、昼間の熱気がまだ残っていた。窓は開いているものの、入ってくる風は生ぬるく、外ではクマゼミが休むことなく鳴いている。夕方だというのに空はまだ明るく、夏はこれからだと言わんばかりだった。
蒼太は机の前へ座る。
タブレットを取り出し、保存した写真を開いた。
そこには昼休みに撮った画像が残っていた。春人の端末に映ったものを急いで撮ったからだろう、画面は少し斜めになっている。それでも文字ははっきり読めた。
『この声が聞こえていますか?』
蒼太はしばらくその文字を見つめる。
何度読んでも妙な文章だった。
もし誰かがふざけて送るなら、
『こんにちは』
とか、
『誰かいますか』
ではないだろうか。
なのに、
『この声が聞こえていますか?』
だ。
まるで向こう側に誰かがいて、返事を待っているみたいだった。
蒼太はノートを開く。
氷室。
記号。
春人。
文字。
なぜ春人だけ?
なぜ氷室?
思いついたことを書き出し、丸で囲み、線で繋ぐ。
けれど書けば書くほど分からなくなる。
そもそも、あれは本当に文字なのだろうか。
氷室の壁に刻まれていた記号。
春人の端末に現れた文章。
関係があるようにも見えるし、まったく別のことのようにも思える。
蒼太はシャーペンの先で机を軽く叩いた。
「なんなんじゃろうな……」
その時だった。
がちゃり。
ドアが開く。
「にーちゃーん」
聞き慣れた声に、蒼太は顔をしかめた。
「何しよん」
琴葉だった。
前下がりのボブを揺らしながら、当たり前のように部屋へ入ってくる。
「別に」
「別にじゃねぇじゃろ」
「なんで入ってくるん」
「兄ちゃんの部屋じゃもん」
「意味分からん」
琴葉は気にした様子もなく机へ近づくと、ノートを覗き込んだ。
「うわ」
「見るな」
「なんこれ」
「見るなって」
「めっちゃ怖い」
「怖くない」
「いや怖い」
ノートには丸や矢印がいくつも書かれ、その周りを意味不明な言葉が取り囲んでいる。
琴葉はしばらく眺めたあと、真顔で言った。
「兄ちゃん」
「何」
「とうとう宇宙人と交信し始めたん?」
「してねぇよ」
「でもこれ宇宙人じゃろ」
「なんでそうなるん」
「テレビで見た」
「どのテレビだよ」
「知らん」
琴葉はけらけら笑う。
蒼太は深いため息をついた。
「宿題終わったんか」
「終わった」
「嘘つけ」
「半分終わった」
「終わってねぇじゃん」
琴葉は肩をすくめると、今度はタブレットへ顔を近づけた。
『この声が聞こえていますか?』
しばらく何も言わない。
珍しいな、と蒼太は思った。
琴葉はこういうものに興味を持つタイプではない。
けれど今日は違った。
「なあ」
「何」
「これさ」
琴葉は首を傾げる。
「助けてって言っとるみたいじゃな」
蒼太は思わず顔を上げた。
「え?」
「なんとなく」
それだけ言うと、琴葉は急に興味を失ったようにくるりと振り返る。
「お母さーん!」
廊下へ飛び出しながら叫んだ。
「今日のご飯なにー?」
ばたばたと足音が遠ざかっていく。
部屋には再び静けさが戻った。
外では相変わらずクマゼミが鳴いている。
蒼太はタブレットへ視線を落とした。
『この声が聞こえていますか?』
さっきまでと同じ文字。
なのに今は、少しだけ違って見える。
「助けて……か」
小さく呟く。
そんなこと、一度も考えたことがなかった。
けれど、その言葉だけがなぜか頭の中に残り続けていた。
◇◇◇
翌朝の空は朝からよく晴れていた。
集合場所へ向かう道の脇では、青々とした稲が風に揺れ、その向こうからはクマゼミの声が聞こえてくる。夏休みまではあと少し。けれど蒼太の頭の中には、昨夜から同じ言葉が残っていた。
『この声が聞こえていますか?』
答えは出ていない。
どうして春人なんだろう。
どうして氷室なんだろう。
考えても分からないのに、気が付くとまた考えている。
集合場所へ着くと、すでに何人かが集まっていた。
その中に春人の姿もある。
「おはよう」
先に声をかけてきたのは春人だった。
「おはよう」
蒼太も返す。
昨夜のことを話そうかとも思ったが、周りには登校班の子たちがいる。なんとなく話しにくくて、そのまま列に並んだ。
途中で陸が合流し、少し遅れてあかりもやって来る。
いつもと変わらない朝だった。
けれど、自分たちだけが何か秘密を抱えているような気がした。
◇◇◇
一時間目。
「今日はタブレットを使います」
先生の言葉に教室がざわついた。
「やったー!」
「猫のやつじゃろ?」
「またキャラ動かすん?」
「前の続き?」
あちこちから声が飛ぶ。
先生は苦笑しながら手を振った。
「まだ始めません」
「えーっ」
一斉に不満の声が上がる。
「その前に問題です」
電子黒板に映し出されたのは、丸や三角が並んだ不思議な記号だった。
○△○△○△
△△○○△
○○○△△△
「なにこれ」
「暗号?」
「宇宙人の文字じゃろ」
後ろの席からそんな声が聞こえて、教室に笑いが広がる。
蒼太も少しだけ口元を緩めた。
昨日、琴葉にも似たようなことを言われたばかりだった。
「じゃあ質問です」
先生は教室を見回した。
「この中で、一番コンピューターの言葉に近いものはどれでしょう?」
「えー」
「分からん」
「全部同じじゃん」
蒼太もそう思った。
丸と三角が並んでいるだけだ。
意味なんてあるようには見えない。
ところが先生は電子黒板を切り替えた。
今度は0と1が並んでいる。
「あ、それ見たことある」
「コンピューターのやつじゃろ」
「なんか難しいやつ」
先生はうなずいた。
「そう。この0と1も、実はさっきの丸や三角と同じなんです」
蒼太は思わず画面を見直した。
同じ?
どう見ても違う。
「コンピューターは、電気が流れるか流れないか、その二つだけで動いています」
「それだけ?」
誰かが驚いた声を上げる。
「それだけです」
先生は笑った。
「でも、その組み合わせをたくさん作れば文字にもなるし、写真にもなるし、動画にもなるんです」
「へぇー」
「すげぇ」
教室のあちこちから声が上がる。
蒼太も0と1の並びを見つめた。
たった二つ。
それしかない。
なのに写真になる。
動画になる。
ゲームになる。
なんだか不思議だった。
「つまり大事なのは形じゃありません」
先生は丸を指さした。
「例えば、この丸を『あ』にする」
今度は三角を指さす。
「こっちを『い』にする」
「じゃあ四角は?」
誰かが聞いた。
「うどん」
別の誰かが言うと、教室がどっと笑いに包まれる。
「なんでうどんなん」
「お腹空いたけぇ」
「まだ一時間目じゃろ」
先生まで笑っていた。
「みんながそう決めるなら、うどんでも大丈夫です」
また笑い声が広がる。
けれど、その言葉を聞いた瞬間だった。
みんなでそう決める。
意味を決める。
ただの記号に意味を与える。
蒼太の頭の中に、氷室の壁が浮かんだ。
薄暗い地下。
湿った石の匂い。
タブレットの光に照らされた壁。
そこに並んでいた不思議な記号。
意味なんてないと思っていた。
ただの模様だと思っていた。
けれど、もし。
もしあれにも意味があるとしたら。
もしあれが文字だとしたら。
ガタンッ!
気が付くと椅子が大きな音を立てていた。
教室中の視線が集まる。
「あ」
しまった。
蒼太は慌てて座り直した。
「蒼太くん?」
「す、すみません」
先生が少し不思議そうな顔をする。
後ろの方で誰かが、
「宇宙人来たんじゃね?」
と小さく言うと、また笑い声が起きた。
けれど蒼太の耳にはほとんど入ってこない。
思わず春人を見ると、春人もこちらを見ていた。
その表情を見た瞬間、蒼太は胸の奥が少しだけ熱くなる。
たぶん。‥たぶん春人も同じことを考えている。
先生は何か説明を続けている。
タブレットを開く音や友達同士で話す声も聞こえている。
けれど、その声はどこか遠くから響いてくるようだった。
蒼太の頭の中には、氷室の壁に残されていた記号しかない。
あれは模様じゃない。意味を持った何かだ。
そして、その答えはたぶん――氷室にある。
休み時間のチャイムが鳴ると、静かだった教室はたちまちいつもの賑やかさを取り戻した。
けれど蒼太の頭の中には、まださっきの授業の言葉が残っていた。
意味を決めれば、ただの記号でも言葉になる。
窓際へ目を向ける。
ちょうど春人もこちらを見ていた。
目が合う。
その瞬間、蒼太は立ち上がった。
向こうも同じだったらしい。
二人はほとんど同じタイミングで相手の方へ歩き出し、教室の真ん中あたりで顔を合わせた。
「お前も思ったじゃろ」
蒼太が言う。
春人は少しだけ迷うような顔をしたあと、小さく頷いた。
「文字、だよね」
その言葉に蒼太も頷く。
やっぱりだ。
自分だけじゃなかった。
「俺もそう思った」
「何が?」
横から声がした。
振り向くと、あかりが興味津々な顔でこちらを見ている。
その後ろから陸もやって来た。
「また二人だけで進めよる」
「ずりぃぞ」
さらに少し遅れてみゆも近づいてくる。
「何の話?」
気付けば、いつもの五人が輪になっていた。
蒼太は少し声を落とす。
「今日の授業じゃ」
「ああ」
あかりが頷く。
「丸とか三角のやつ?」
「そう」
蒼太は続けた。
「先生、言うとったじゃろ。意味を決めたら言葉になるって」
「うん」
「それ聞いた時に思ったんじゃ」
蒼太は春人を見る。
「氷室の記号」
一瞬、空気が変わる。
陸が腕を組んだ。
「あー……」
どうやら同じことを考えていたらしい。
「文字かもしれんってこと?」
「たぶん」
春人が答える。
「まだ分からんけど」
「でも確かに」
陸は頷いた。
「落書きには見えんかったな」
「じゃろ?」
蒼太は少し前のめりになる。
「なんか決まりがあるような感じじゃった」
あかりも腕を組んだ。
「でも読めんじゃん」
「読めん」
「じゃあ文字かどうかも分からん」
「それもそう」
蒼太は苦笑する。
結局のところ、まだ何も分かっていないのだ。
ただ気になる。
それだけだった。
「待って」
みゆが小さく手を上げた。
「ごめん、私ちょっと分からん」
みんなが振り向く。
「氷室ってそんなにすごいん?」
蒼太たちは顔を見合わせた。
そうだった。
みゆはまだ行っていない。
「うーん」
あかりが言う。
「説明むずい」
「変な感じなんよ」
陸も言う。
「変な感じ?」
「なんか、普通じゃねぇんよな」
ますます分からない。
みゆは困ったように笑った。
「余計気になるんじゃけど」
その言葉に、みんなが笑った。
たしかにそうだった。
「じゃあ見に行けばええじゃん」
陸が言う。
「え?」
「氷室」
みゆが目を丸くする。
「私も?」
「そりゃそうじゃろ」
あかりが即答した。
「見たことないんじゃし」
「でも今日無理じゃろ?」
春人が言う。
「バスあるし」
「あ」
みゆが頷く。
「そうなんよ」
一瞬だけみんなが黙る。
どうしようかと考えた時だった。
「じゃあ明日じゃ」
陸が言った。
「明日?」
「土曜日じゃろ」
そう言われてみればその通りだった。
陸は少し得意そうな顔をする。
「午前中に行こうや」
「それなら行ける」
みゆの顔がぱっと明るくなった。
「どこ集合?」
あかりが聞く。
「神社の鳥居」
陸が答える。
「あそこなら分かるじゃろ」
「分かる」
みゆも頷いた。
「おじいちゃんに送ってもらう」
「じゃあ決まりじゃな」
春人が笑う。
すると陸がさらに続けた。
「それでさ」
「何?」
「終わったら、うち来ん?」
みんなが顔を上げる。
「なんで?」
あかりが聞く。
陸はにやりと笑った。
「考えるんじゃ」
氷室のことを。
記号のことを。
あの文字のことを。
言葉にしなくても、それはちゃんと伝わった。
「ええな」
「私行く」
「俺も」
次々に声が上がる。
蒼太も思わず笑った。
まるで秘密基地の計画を立てているみたいだった。
夏休みはまだ始まっていない。
けれど何か面白いことが、もう始まりかけている気がした。
お読み頂きありがとうございます♪




