第13話 待っとったみたい
土曜日の朝だった。
縁側の向こうでは、朝顔が青い花を咲かせている。
葉っぱにはまだ朝露が残っていて、日が当たるたびに小さく光った。
庭の隅では祖母が畑の様子を見ている。
トマトの支柱を直したり、きゅうりの葉を持ち上げたりしながら、時々ひとりで何か喋っていた。
遠くではクマゼミが鳴いている。
夏休みまではまだ少しあるはずなのに、空だけはもうすっかり夏だった。
みゆは麦茶の入ったコップを両手で持ちながら、ぼんやり庭を眺めていた。
今日は春人たちとの約束の日だ。
氷室へ行く。
そう思うと、なんだか胸の奥が落ち着かなかった。
楽しみなのか。
少し怖いのか。
自分でもよく分からない。
「準備できたんか」
声がして振り向く。
おじいちゃんだった。
首に白いタオルを掛け、畑仕事から戻ってきたところらしい。
「うん」
みゆは頷いた。
足元には小さなリュックが置いてある。
水筒。
タオル。
おやつ。
祖母と一緒に確認しながら準備したものだ。
「帽子は」
「ある」
「ほうか」
おじいちゃんは縁側へ腰を下ろした。
古い板が小さく鳴る。
二人の前では風に揺れた朝顔が、ゆっくり影を動かしていた。
しばらく誰も喋らない。
蝉の声だけが聞こえている。
けれど気まずくはなかった。
おじいちゃんといる時は、黙っていても平気だった。
「氷室じゃったな」
やがておじいちゃんが言った。
「うん」
「久しぶりじゃなぁ」
みゆは首を傾げる。
「おじいちゃんも行ったことあるん?」
「あるとも」
おじいちゃんは少し笑った。
「子どもの頃はよう行きよった」
「探検?」
「探検じゃ」
その言い方がなんだか嬉しそうで、みゆも少し笑った。
「友達と?」
「友達と」
「何しよったん」
「別に何も」
おじいちゃんは肩をすくめる。
「入って、涼しいなぁ言うて」
「それだけ?」
「それだけ」
みゆは吹き出した。
もっと大冒険みたいな話を想像していた。
「でもな」
おじいちゃんは笑いながら続ける。
「子どもにしたら、それだけでも面白かったんじゃ」
風が吹いた。
畑の葉がさらさらと揺れる。
「じいちゃん、一回転んだことある」
みゆは顔を上げた。
「ほんまに?」
「ほんまじゃ」
「どこで?」
「奥の石の段」
「痛そう」
「痛かった」
おじいちゃんは苦笑する。
「膝すりむいてなぁ」
みゆは少しだけ想像した。
今のおじいちゃんではない。
自分と同じくらいの年頃のおじいちゃんだ。
友達と笑いながら氷室へ入って。
足を滑らせて。
膝を擦りむいて。
たぶん泣くのを我慢したのだろう。
そう思うと少しおかしかった。
「笑われたん?」
「めちゃくちゃ笑われた」
みゆは思わず声を立てて笑った。
おじいちゃんもつられて笑う。
蝉の声が響く。
夏の風が吹く。
縁側の向こうでは朝顔が揺れていた。
笑い声が落ち着いた頃、おじいちゃんは庭の向こうを眺めながらぽつりと言った。
「昔は大事な場所じゃったんよ」
みゆは顔を上げる。
「氷室?」
「そうじゃ」
おじいちゃんは頷いた。
「今みたいに冷蔵庫なんかない時代じゃけぇな」
少し間を置く。
「氷は宝物じゃった」
みゆは黙って聞いていた。
おじいちゃんは、何かを教えようとしているわけではない。
ただ思い出したことを話しているだけだ。
けれど、その言葉はなぜか心に残った。
「だからかもしれんな」
「何が?」
「今でも静かなんは」
みゆは庭を見る。
蝉は鳴いている。
風も吹いている。
けれど、おじいちゃんが言っている静かは、たぶんそういう意味じゃない気がした。
「静かな場所はな」
おじいちゃんが言った。
「よう耳を澄ましてみるんじゃ」
「耳?」
「そうじゃ」
おじいちゃんは少し笑う。
「人の話も、場所の話もな」
少しだけ間を置く。
「静かなとこじゃないと聞こえん」
みゆは首を傾げた。
やっぱりよく分からない。
けれど、その言葉だけは胸のどこかへ残った。
まるで昔話の続きみたいに。
「行ったら分かる」
おじいちゃんは笑って、それ以上は何も言わなかった。
その時だった。
家の前で軽トラックのクラクションが短く鳴った。
畑の向こうに止まっている白い軽トラックの運転席から、おばあちゃんがこちらを見ている。
「あ」
みゆは立ち上がった。
リュックを背負う。
帽子をかぶる。
水筒のひもを肩へ掛ける。
「忘れもんないか」
おじいちゃんが聞く。
「たぶん」
「たぶんは怪しいな」
みゆは少し笑った。
おじいちゃんも笑う。
二人で庭を横切る。
朝の光を受けて畑の葉がきらきら光っていた。
クマゼミの声が空から降ってくる。
軽トラックの助手席へ乗り込むと、シートが少し熱を持っていた。
「シートベルト」
おばあちゃんが言う。
「分かっとる」
「ほんまかぁ」
みゆは苦笑しながらベルトを締めた。
エンジンがかかる。
軽トラックがゆっくり動き出した。
家の前の細い道を抜ける。
窓の外には田んぼが広がっていた。
風が吹くたびに青い稲が波みたいに揺れている。
「今日は暑うなるなぁ」
おばあちゃんが前を向いたまま言った。
「うん」
「帽子脱いだらいけんで」
「脱がん」
「ほんまかぁ」
また同じ返事だった。
みゆは少しだけ笑う。
軽トラックは田んぼ道を抜け、小さな橋を渡り、神社の方へ向かう。
窓の外を流れていく景色を見ながら、みゆはさっきのおじいちゃんの話を思い出していた。
昔の人にとって大事な場所。
氷は宝物だったこと。
静かな場所は耳を澄ましてみろということ。
意味はよく分からない。
けれど、その言葉だけがなぜか心に残っていた。
やがて神社の鳥居が見えてくる。
その下には、もう何人かの姿があった。
「あ、おった」
みゆは思わず身を乗り出した。
白い帽子。
リュック。
見慣れた顔。
春人たちだった。
おばあちゃんは鳥居の近くへ軽トラックを寄せる。
エンジンが止まる。
その瞬間、外の蝉の声が一気に大きく聞こえた。
「ほれ」
おばあちゃんが言う。
「着いたで」
「うん」
みゆはシートベルトを外した。
リュックを背負い直す。
ドアへ手を掛けた時だった。
「みゆ」
「なに?」
「帰る時間になったら電話しんさいよ」
「うん」
「迎え行くけぇ」
「分かっとる」
「分かっとる言うて忘れるんじゃから」
みゆは少しだけ笑った。
「忘れんって」
「ほうか」
おばあちゃんは頷く。
それから少しだけ優しい声になった。
「みんなと仲良う遊びんさい」
みゆは頷いた。
「うん」
車を降りる。
朝の空気はもう少し暑かった。
鳥居の下では春人たちがこちらを見ている。
あかりが大きく手を振った。
みゆも振り返す。
その後ろで軽トラックがゆっくり動き出した。
おばあちゃんが窓から手をひらひら振っている。
みゆも小さく振り返した。
軽トラックが角を曲がり、見えなくなる。
それを見届けてから、みゆは春人たちの方へ駆け出した。
「おはよう!」
少し弾んだ声が、自分でも意外だった。
春人が笑う。
「おはよう」
陸も手を上げた。
「よし、これで全員じゃな」
五人が揃う。
みゆは鳥居の向こうに続く木立を見上げた。
その先に氷室がある。
おじいちゃんが子どもの頃に探検した場所。
そして今から、自分たちが向かう場所。
胸の奥が少しだけ高鳴った。
◇◇◇
神社の横を抜けると、道は少しずつ細くなっていった。
夏草は膝のあたりまで伸びていて、葉っぱの先が歩くたびに足へ触れた。
みゆはみんなの後ろを歩きながら、きょろきょろと辺りを見回していた。
木が多い。
思っていたより暗い。
昼なのに、どこか山の奥へ入っていくみたいだった。
「まだなん?」
みゆが聞く。
「もうちょい」
陸が答える。
「初めてじゃけぇ、びっくりするぞ」
「何が?」
「見たら分かる」
その言い方が少し楽しそうで、みゆは思わず笑った。
やがて前を歩いていた春人が立ち止まる。
「着いた」
みゆも足を止めた。
そこには石造りの入口があった。
木々の間に隠れるようにして、ぽっかりと口を開けている。
みゆはしばらく何も言わなかった。
思っていたのと違ったからだ。
もっと小さいと思っていた。
もっとただの穴みたいなものだと思っていた。
けれど違う。
そこだけ空気が違って見えた。
静かだった。
蝉は鳴いている。
風も吹いている。
なのに、その入口の前だけは、何か別の時間が流れているような気がした。
「行こうや」
陸が先に入っていく。
あかりが続く。
蒼太はもうノートを取り出している。
春人はタブレットを持っていた。
みゆは最後に一度だけ振り返った。
青い空が見える。
眩しい夏の光が見える。
そしてもう一度、氷室を見る。
おじいちゃんが子どもの頃に来た場所。
昔の人が大事に使っていた場所。
胸の奥が少しだけそわそわした。
一歩、中へ入る。
その瞬間だった。
ひんやりとした空気が頬を撫でた。
「わ……」
思わず声が漏れる。
外とはまるで違う。
冷たい。
でも寒くはない。
熱を持っていた体から、ふっと力が抜けていくような冷たさだった。
石の匂いがする。
湿った土の匂いがする。
足音が小さく響く。
みゆはゆっくり周りを見回した。
暗い。
静かだ。
それなのに、不思議と怖くなかった。
むしろ逆だった。
どこか懐かしい。
なぜだろう。
来たことなんかないはずなのに。
おじいちゃんの昔話を聞いている時みたいな気持ちになる。
古い絵本を開いた時みたいな気持ちになる。
胸の奥が、少しだけ温かかった。
「こっち」
蒼太が声をかける。
みんなが壁の前へ集まる。
春人がタブレットの光を向けた。
薄暗い壁に、記号が浮かび上がる。
丸。
線。
枝分かれした形。
しずくみたいな形。
みゆは黙って見つめた。
文字かどうかは分からない。
意味も分からない。
でも。
落書きには見えなかった。
誰かが残したものに見えた。
何かを伝えたくて書いたものに見えた。
その時だった。
ふいに、おじいちゃんの声が頭に浮かぶ。
――昔の人にとっちゃ、大事な場所じゃった。
みゆはもう一度壁を見る。
ただの石じゃない。
ただの傷じゃない。
そんな気がした。
「どうしたん?」
春人が聞いた。
みゆは少し考える。
うまく言葉にならない。
でも。
一つだけ分かることがあった。
「なんか……」
みんなが振り向く。
みゆは壁を見つめたまま、小さく言った。
「待っとったみたい」
その言葉が石の壁に吸い込まれる。
誰もすぐには返事をしなかった。
みゆ自身も、自分がどうしてそう思ったのか分からなかった。
見たわけじゃない。
聞こえたわけでもない。
でも。
ずっと誰かがここで待っていたような気がした。
夏の光が届かない静かな場所で。
ずっと。
ずっと。
誰かを。
みゆの言葉を聞いて、みんなが少しだけ黙り込んだ。
「待っとった?」
陸が聞く。
「うん……」
みゆは自分でもうまく説明できなかった。
「なんか、そんな感じ」
「誰が?」
「それは分からん」
あかりが吹き出した。
「分からんのかい」
「分からん」
みゆも少し笑う。
自分でも変なことを言ったと思った。
けれど、そうとしか言えなかった。
春人は壁の記号を見上げる。
蒼太はノートへ何かを書き込んでいた。
たぶん今の言葉もメモしている。
「まあ」
蒼太が言う。
「とりあえず調べてみようや」
結局、それしかない。
五人は壁に沿って記号を探し始めた。
同じ形を見つけるたびに呼び合う。
「こっちにもある!」
「あ、ほんまじゃ」
「写真撮っといて」
「待って待って、今撮る」
春人がタブレットを向ける。
蒼太はノートへ写す。
あかりと陸は別の場所を探している。
みゆも壁へ近づいた。
石はひんやりしていた。
指先で触れると、長い時間をそこに閉じ込めたみたいな冷たさだった。
「みゆー」
あかりが呼ぶ。
「これ同じじゃない?」
みゆはそちらへ向かう。
たしかによく似ていた。
少し曲がった線。
丸。
小さな枝分かれ。
意味は分からない。
けれど探しているうちに、宝探しみたいな気分になってくる。
外では蝉が鳴いているはずなのに、氷室の中ではほとんど聞こえなかった。
聞こえるのは友達の声と、自分たちの足音だけだ。
みゆも夢中になっていた。
気が付けば、ノートには同じような記号が何個も並んでいた。
春人のタブレットにも写真が増えている。
けれど意味は分からない。
「分からんな」
蒼太が言った。
「分からん」
春人も頷く。
「結局なんなんじゃろ」
あかりが壁を見上げた。
みゆも同じように顔を上げる。
最初に見た時と変わらない。
記号はただ静かに並んでいる。
何かを伝えているようにも見えるし、ただの傷のようにも見えた。
けれど。
みゆには、どうしてもそうは思えなかった。
誰かがここへ残したもの。
そんな気がしてならなかった。
誰かが小さく息を吐いた。
それで、氷室の中に張りつめていた空気が少しだけゆるむ。
「うち来る?」
陸が言った。
みんなは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「なんで?」
あかりが聞く。
「秘密基地」
陸は当たり前みたいに答えた。
「まだ言うとったん、それ」
「あるんじゃって」
陸は胸を張る。
「納屋の二階」
「納屋?」
春人が聞き返した。
「二階あるん?」
「ある」
「納屋に?」
「ある」
春人は少しだけ蒼太を見る。
蒼太も首を傾げていた。
どうやら行ったことはないらしい。
「私ない」
みゆが言う。
「俺も」
春人も続ける。
「じゃろ?」
陸はにやりと笑った。
「だから来いって」
その顔が妙に楽しそうで、みんなも少し気になってきた。
「どんななん?」
みゆが聞く。
「秘密基地」
「だからどんななん」
「行ったら分かる」
陸はそれ以上説明する気がないらしい。
あかりが呆れたように笑った。
「絶対ろくでもないわ」
「ろくでもある」
「どっち」
「めっちゃある」
よく分からない。
けれど陸がここまで自信満々なのも珍しかった。
春人は少しだけ笑う。
東京にいた頃も友達の家へ遊びに行くことはあった。
けれど納屋の二階に秘密基地がある友達は一人もいなかった。
それだけで少し面白そうだった。
「行く?」
春人が聞く。
「行く」
みゆが先に答えた。
少しだけ声が弾んでいる。
あかりも頷いた。
「まあ行くだけ行ってみる」
「蒼太は?」
陸が聞く。
蒼太は壁の記号をもう一度見上げた。
まだ分からない。
文字なのかどうかも分からない。
けれど今日のところは、これ以上見ても答えは出そうになかった。
「行く」
そう答えると、陸が満足そうに笑った。
「よし」
氷室の入口へ向かって歩き出す。
みんなも後に続いた。
外へ出た瞬間、夏の熱気が一気に押し寄せてきた。
「暑っ」
あかりが顔をしかめる。
「うわ、こんな暑かったっけ」
「氷室が涼しすぎるんじゃ」
蒼太が言った。
みゆも思わず空を見上げた。
青い。
どこまでも青かった。
さっきまでいた氷室が、なんだか別の世界みたいに思える。
振り返ると、木陰の奥に石造りの入口が見えていた。
静かに口を開けたまま、何も変わらずそこにある。
みゆは少しだけ立ち止まる。
そしてもう一度だけ、その入口を見た。
やっぱり不思議だった。
どうしてなのかは分からない。
けれど、また来たいと思った。
今度はもっとゆっくり見てみたい。
そんな気持ちが胸のどこかに残っていた。
「みゆー!」
前からあかりの声が飛んでくる。
「置いてくよー!」
「あっ」
みゆは慌てて駆け出した。
夏の強い日差しが白い帽子を照らしている。
その先には、陸の秘密基地が待っていた。
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