第14話 秘密基地
氷室を出てからもしばらくの間、春人はあまり喋らなかった。
みゆの言葉が頭のどこかに残っていたからだ。
誰が待っていたのか、何を待っていたのか。
考えても分からない。
けれど、あのみゆは冗談を言っているようには見えなかった。
「春人ー!」
前から陸の声が飛んでくる。
顔を上げると、陸が振り返っていた。
「何ぼーっとしよん」
「してない」
「しとる」
陸が笑う。
春人も少しだけ笑った。
たぶん、していた。
けれど認めるのも少し悔しい。
「まだなん?」
みゆが聞く。
「もう着く」
「さっきも聞いた」
あかりが言った。
みんなが笑う。
その笑い声を聞いているうちに、氷室の静けさが少しずつ遠ざかっていった。
「着いた」
陸が言った。
春人は顔を上げ、そして思わず足を止めた。
「でか……」
口から勝手に言葉が漏れる。
目の前には大きな門があった。
その向こうには、さらに大きな家が見える。
友達の家だと思っていた。
けれど。
なんだか家というより屋敷だった。
「じゃろ」
陸が少し得意そうに笑う。
「俺ん家」
「ほんまに?」
みゆが目を丸くする。
「ほんまじゃ」
陸は平然としていた。
その時だった。
「おかえりー!」
元気な声が飛んできた。
玄関から、おばあちゃんが出てきていた。
エプロン姿だった。
どうやら台所仕事の途中らしい。
「よう来たなぁ!」
その声は、初めて会う子どもたちを迎える声ではなかった。
昔から知っとる孫たちが帰ってきたみたいな声だった。
「こんにちは」
春人たちが頭を下げる。
おばあちゃんは嬉しそうに頷いた。
それから陸を見る。
「腹減っとるじゃろ」
「減っとる」
陸は即答した。
「朝から減っとるじゃろうが」
「それはそう」
「威張ることじゃないわ」
あかりが吹き出すと、みゆも春人もつられて笑った。
どうやらこの家では、おばあちゃんの方が強いらしい。
「ほれ、とりあえず上がり」
おばあちゃんが手を振る。
「遠慮せんでええけぇ」
結局、みんなは家へ上がることになった。
廊下はひんやりとしていた。
磨かれた床板を歩き、大きな座卓がある居間へ入る。
「ほれ、飲みんさい」
おばあちゃんが大きなポットを座卓へ置いた。
中では氷がからんと鳴っている。
コップへ注がれた麦茶には細かな水滴が浮かんでいた。
「いただきます」
春人はコップを持つ。
一口飲んだ瞬間、冷たい麦茶が喉を通っていった。
「うま……」
「じゃろ」
おばあちゃんが得意そうに頷く。
「ばあちゃんが作ったみたいな顔しとる」
陸が言った。
「作ったんじゃ」
「麦茶を?」
「麦茶を」
陸が黙る。
みんなが笑った。
おばあちゃんも一緒になって笑う。
「待っとき」
そう言うと、おばあちゃんはまた台所へ戻っていった。
「何しよん?」
あかりが聞く。
「知らん」
陸が答える。
「知らんの?」
「知らん」
その返事があまりにも当たり前で、また笑いが起きる。
しばらくして。
おばあちゃんが大きな皿を持って戻ってきた。
「ほれ」
座卓の真ん中へ置かれたのは、真っ赤なスイカだった。
「わぁ……」
みゆの声が漏れる。
切りたてらしく、甘い匂いがふわりと広がった。
「食べんさい」
言われるより早く、あかりの手が伸びる。
「甘っ!」
一口食べた瞬間、あかりが叫んだ。
「じゃろ」
おばあちゃんが満足そうに頷く。
「ばあちゃんが作ったん?」
みゆが聞く。
「作っとらん」
即答だった。
一瞬静かになる。
「違うんかい」
蒼太が吹き出した。
みんなもつられて笑う。
おばあちゃん自身が一番楽しそうだった。
春人もスイカを手に取る。
かぶりつくと、しゃりっと音がした。
冷たい果汁が口いっぱいに広がる。
東京にいた頃もスイカは食べたことがある。
けれど。
なんだか今日は、いつもよりずっと美味しく感じた。
「暑かったじゃろ」
おばあちゃんが言う。
春人は頷いた。
氷室は涼しかった。
けれど、そこへ行くまでの道はやっぱり暑かったのだ。
気付けば、みんな夢中でスイカを食べていた。
その時だった。
「昼は食べて帰りんさい」
おばあちゃんが言った。
一瞬、みんなが顔を見合わせる。
「え」
春人が言う。
「あ」
みゆも顔を上げた。
あかりも蒼太も同じ顔をしている。
「電話せぇ」
おばあちゃんが言った。
「今?」
「今」
「えー」
「えーじゃない」
おばあちゃんは部屋の隅を指さした。
そこには木の電話台が置かれていた。
その上には、少し色あせた黒電話。
春人は思わず足を止める。
実物を見るのは初めてだった。
「それはもう使わん」
陸が言う。
「じいちゃんが置いとるだけ」
黒電話の横に置かれたコードレス電話を、おばあちゃんがぽんと叩いた。
「使うんはこっちじゃ」
「黒電話じゃん」
あかりが面白そうに近づく。
「回すやつじゃろ」
蒼太も覗き込んだ。
「使えるん?」
「知らん」
陸が即答する。
「知らんのかい」
みんなが笑った。
春人はスマホを取り出した。
みゆも同じようにスマホを出す。
春人の母は、
『ちゃんとお礼言うのよ』
と言った。
みゆのおばあちゃんは、
『楽しんでおいで』
と笑った。
その横で、あかりと蒼太はコードレス電話を取り合っている。
「先じゃ!」
「私が先!」
「蒼太、さっきスイカ二個食べたじゃろ!」
「関係ない!」
陸はそんな様子を見ながら麦茶を飲んでいた。
電話を終えると、陸が待ちきれないように立ち上がった。
「よし、行くぞ」
「どこへ?」
春人が聞く。
陸はにやりと笑った。
「秘密基地」
その言葉に、みんなの顔が一斉に上がる。
そうだった。
今日の目的はまだ終わっていない。
むしろここからだ。
陸は廊下へ飛び出した。
「走るなー!」
おばあちゃんの声が後ろから飛んでくる。
「走っとらん!」
「走っとる!」
みんなが笑った。
その笑い声を背中に受けながら、五人は家の外へ出る。
眩しい日差しが降り注いでいた。
居間の涼しさに慣れていたせいか、外へ出た瞬間、夏の熱気がむわりと体を包む。
陸は迷いなく庭を横切っていく。
その先にあったのは、さっき門の外から見上げた大きな長屋門だった。
近くまで来ると、その大きさがよく分かる。
黒く艶の出た太い柱。
重たそうな梁。
何十年も、もしかしたらそれ以上の年月をここで過ごしてきたような木の色。
春人は思わず見上げた。
「でかいな……」
「じゃろ」
陸が少し得意そうに笑う。
けれど春人が驚いたのは大きさだけではなかった。
門だと思っていた場所に、戸が並んでいたのだ。
その奥には農機具や木箱が見える。
「これ、門なん?」
「門じゃ」
陸は当たり前のように答える。
「昔から物もしまいよる」
春人はもう一度見上げる。
東京で見たことのある門とは全然違った。
門であり、倉庫であり、建物でもある。
そんなものが普通に家の一部になっている。
「すご……」
思わず呟く。
陸はますます得意そうだった。
「こっちじゃ」
陸は長屋門の脇にある引き戸を開けた。
中は少し薄暗かった。
乾いた木の匂いがする。
農機具や木箱が並び、見たことのない道具まで置かれている。
その奥には急な木の階段があった。
「ここ?」
みゆが聞く。
「ここ」
陸が頷く。
「落ちるなよ」
「先に言わんで」
あかりが顔をしかめた。
みんなが笑う。
階段を上るたび、ぎしぎしと木が鳴った。
古い音だった。
けれど不思議と嫌な感じはしない。
長い間、誰かが上り下りしてきた音のようだった。
最後の一段を上がった瞬間。
「おお……」
春人の口から思わず声が漏れた。
二階は思っていたより広かった。
天井は低い。
梁がむき出しになっている。
ところどころ埃っぽい。
けれど窓が大きく開いていて、風が気持ちよく吹き抜けていた。
床には漫画や図鑑が積まれ、虫取り網やボールまで転がっている。
古い双眼鏡。
木箱。
誰が置いたのか分からないガラクタ。
まるで宝探しの箱をひっくり返したみたいだった。
「あ、見て!」
あかりが声を上げる。
部屋の奥には古いちゃぶ台が置かれていた。
足には傷がたくさんついている。
天板もところどころ色が剥げていた。
その端を見て、あかりが吹き出す。
「何?」
春人が近づく。
そこにはマジックで書かれた文字があった。
少し歪んだひらがなで。
『ひみつきち』
一瞬静かになったあと。
みゆが吹き出した。
「あはは」
あかりも笑う。
春人まで笑ってしまった。
「お前書いたん?」
蒼太が聞く。
陸はそっぽを向く。
「知らん」
「絶対お前じゃろ」
「知らん」
耳だけ少し赤い。
みんながまた笑った。
その空気がなんだか心地よかった。
みゆは窓際まで歩いていく。
風が髪を揺らした。
遠くの田んぼが見える。
その向こうには山。
蝉の声も聞こえる。
氷室の静けさとは違う。
けれど、ここも落ち着く。
初めて来た場所なのに。
「いいな、ここ」
みゆがぽつりと言った。
陸が少し照れたように笑う。
「じゃろ」
今度はその声が少し誇らしげだった。
自然とみんながちゃぶ台の周りへ集まる。
座布団は足りない。
木箱へ腰掛ける者もいれば、そのまま床へ座る者もいた。
窓から吹く風がちゃぶ台の上を通り抜ける。
しばらく誰も喋らなかった。
その沈黙は気まずくない。
むしろ心地よかった。
「で」
最初に口を開いたのはあかりだった。
「結局なんなんじゃろな」
説明しなくても分かる。
氷室の話だった。
春人はタブレットを取り出す。
今日撮った写真を開き、ちゃぶ台の真ん中へ置いた。
みんなが身を乗り出す。
画面の中には壁に刻まれた記号が並んでいた。
「文字なんかな」
みゆが言う。
「分からん」
蒼太が首を振る。
「でも同じ形は何回も出とった」
「じゃあ文字じゃないん?」
あかりが聞く。
「文字かもしれん」
「どっち」
「分からん」
「役に立たんなぁ」
あかりが言った。
みんなが笑う。
蒼太は不満そうな顔をした。
「本当に分からんのじゃし」
「それはそう」
陸が頷く。
春人はもう一度写真を見る。
丸。
線。
枝分かれした形。
見れば見るほど意味がありそうなのに、意味が分からない。
「なあ」
春人が顔を上げた。
「みゆ」
「ん?」
「待っとったみたいって言ったじゃろ」
みゆが少し黙る。
窓から吹いてきた風が前髪を揺らした。
「なんでそう思ったん?」
「分からん」
みゆは素直に答えた。
「聞こえたわけじゃないし」
少し考える。
「でも」
窓の外へ目を向ける。
「そう思ったんよ」
それしか言えなかった。
見たわけじゃない。
聞いたわけでもない。
けれど。
そう感じた。
「ふーん」
あかりは頷く。
否定はしなかった。
「私はなんも感じんかった」
「俺も」
陸が言う。
「涼しいなしか思わんかった」
「お前らしい」
蒼太が笑う。
「だって涼しかったじゃろ」
「それはそう」
そこだけは全員一致だった。
笑い声が上がる。
けれど、それが落ち着くと再び記号の写真へ視線が戻った。
誰にも分からない。
けれど、気になる。
それだけは全員同じだった。
「でも」
蒼太が言った。
「また行くじゃろ?」
一瞬だった。
「行く」
陸が答える。
「行く」
あかりも言う。
春人も頷いた。
「俺も」
みゆも小さく笑う。
「うん」
誰も迷わなかった。
記号の意味は分からない。
何があるのかも分からない。
それでも、また行きたいと思った。
「じゃあ」
陸が身を乗り出した。
「ここ、本部にしようや」
「本部?」
春人が聞き返す。
「秘密基地じゃし」
陸はちゃぶ台を軽く叩く。
「氷室行ったら帰ってきて、ここで会議するんじゃ」
あかりが吹き出した。
「会議て」
「ええじゃろ」
「何を会議するん」
「何でもじゃ」
「適当じゃなぁ」
みんなが笑う。
けれど誰も反対しなかった。
ちゃぶ台。
窓から吹き込む風。
積み上がった漫画や図鑑。
今日初めて来た場所なのに、もう少し前から自分たちの場所だったような気がする。
「ほな決まりじゃな」
蒼太が言った。
「氷室調査隊本部」
「名前長い」
あかりが即座に突っ込む。
また笑いが起きる。
その時だった。
「ごはんできたでー!」
階下から、おばあちゃんの声が響いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「カレー!」
陸が飛び上がる。
「お前、それ待っとっただけじゃろ!」
あかりの声が飛ぶ。
秘密基地に笑い声が広がった。
陸はもう階段へ向かっていた。
「早う来んと無くなるぞ!」
「絶対嘘じゃろ!」
春人が笑う。
「無くならんわ」
蒼太も呆れたように言った。
けれど誰もゆっくりしてはいなかった。
みんな立ち上がる。
ちゃぶ台。
窓から吹き込む風。
積み上がった漫画や図鑑。
ついさっきまで知らなかった場所なのに、不思議と後ろ髪を引かれる。
また来る。
たぶんすぐに。
誰も口にはしなかったけれど、そんな気がしていた。
階段を下りる。
ぎしぎしと木が鳴る。
下へ降りるにつれて、ふわりといい匂いが漂ってきた。
「あ」
みゆが思わず声を漏らす。
カレーだった。
甘い匂い。
玉ねぎの匂い。
少しだけ混じるスパイスの香り。
急にお腹が空いてくる。
「腹減った……」
春人が小さく呟く。
「今さらか」
あかりが笑った。
廊下を抜ける。
居間へ入った瞬間、春人は思わず足を止めた。
「うわ……」
広い。
そして何より。
並んでいる量が多い。
大きな鍋。
山盛りのサラダ。
皿いっぱいのきゅうりの浅漬け。
切り分けられたスイカ。
人数分のコップ。
まるでお祭りの準備みたいだった。
「立っとらんで座る!」
おばあちゃんの声が飛ぶ。
みんなが慌てて動き出す。
「春人くんこっち!」
陸が手招きする。
「みゆちゃんも座りんさい」
「はーい」
みゆが返事をする。
おばあちゃんは次々と皿を並べていた。
最初から五人分ぴったり用意していたというより、誰が何人来ても足りるくらい作っていたのだろう。
それくらい大きな鍋だった。
「ほれ」
おばあちゃんが最後の皿を置く。
湯気がふわりと立ち上る。
陸はもうスプーンを握っていた。
「まだじゃ!」
おばあちゃんが言うと、陸がしぶしぶスプーンを置く。
みんなは顔を見合わせて、クスリと笑った。
春人はふと窓の外を見る。
夏の日差し。
青い空。
蝉の声。
そして隣では友達が笑っている。
東京から来た時には想像もしなかった夏だった。
「いただきます」
声をそろえると、五人はようやくスプーンを手に取った。




