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第15話 古いノート


「いただきます!」


 声を揃えると、五人は一斉にスプーンを動かした。


「うまっ!」


 一番最初に声を上げたのは、やっぱりあかりだった。


「じゃろ」


 陸が得意そうに言う。


「お前が作ったんじゃないじゃろ」


 蒼太が呆れたように返した。


 みんなが笑う。


 カレーは少し甘めだった。


 玉ねぎはとろとろになるまで煮込まれていて、大きめのじゃがいもがごろごろ入っている。


 特別な料理ではないはずなのに、不思議なくらい美味しかった。


 春人はスプーンを動かしながら、なんとなく部屋の中を見回した。


 柱時計。


 大きな食器棚。


 壁に掛けられた古い写真。


 東京の家ではあまり見たことのないものばかりだった。


 けれど居心地は悪くない。


 初めて来た家なのに、ずっと前から知っていた場所みたいだった。


「ほれ」


 おばあちゃんが鍋の蓋を開ける。


 中にはまだたっぷりカレーが残っていた。


「まだあるけぇな」


「まだあるん?」


 あかりが目を丸くする。


「そりゃあるじゃろ」


 おばあちゃんは平然としている。


「何人前作ったん?」


 蒼太が聞いた。


「知らん」


「知らんの?」


「足りんかったら困るじゃろ」


 その理屈は分かる。


 けれど規模がおかしい。


 みんながまた笑った。


 気付けば、春人も二杯目を食べていた。


「春人くん、よう食べるなぁ」


 おばあちゃんが嬉しそうに言う。


「おいしいです」


「ほうか」


 おばあちゃんは満足そうに頷いた。


「また来んさい」


「え、いいんですか」


「ええに決まっとるじゃろ」


 その言い方があまりに自然だったので、春人は少しだけ返事に詰まった。


 東京にいた頃、友達の家でこんなふうに言われたことはなかった。


 また来てもいい。


 そう言われただけなのに、胸の奥が少し温かくなる。


 その時だった。


 座卓の下で、何かがもぞりと動いた。


「うわっ」


 春人は思わず足を引っ込めた。


 座卓の下から、茶色い柴犬が顔を出していた。


 丸い目で春人をじっと見ている。


「ポチじゃ」


 陸が言った。


「いつからおったん?」


 あかりが笑う。


「知らん」


「また知らん」


 ポチは一度だけ尻尾を振ると、春人の足元を通り過ぎ、部屋の隅で丸くなった。


 まるで、自分もこの食卓の一員だと言わんばかりだった。


「あ」


 今度はみゆが小さな声を出す。


 見ると、縁側の近くに灰色の猫が座っていた。


 こちらを見ているようで、見ていないような顔をしている。


「猫もおる」


「ミケ」


 陸が言った。


「全然ミケじゃないじゃろ」


 灰色だった。


「ばあちゃんがつけた」


「なら仕方ないな」


 蒼太が真面目に頷いた。


 みんなが笑う。


 ポチは寝ている。


 ミケは座っている。


 おばあちゃんは台所と居間を行ったり来たりしている。


 カレーの匂いがして、蝉の声がして、友達が笑っている。


 春人は、なんだか不思議だった。


 ここへ来る前は、氷室のことばかり考えていた。


 けれど今は、その冷たい石の部屋が少し遠く感じる。


 遠くなったのに、消えたわけではない。


 胸のどこかに残ったまま、こうしてカレーを食べている。


 変な感じだった。


「あ」


 陸が急に顔を上げた。


「そういや、見せたいもんがあるんじゃった」


「何?」


 みゆが聞く。


「秘密基地のやつ」


 陸はスプーンを置くと、もう立ち上がっていた。


「待っとれ」


「今?」


 あかりが言う。


「今」


「カレー中じゃろ」


「すぐ戻る」


 陸はそう言うなり、廊下へ出ていった。


「走るなー!」


 すぐにおばあちゃんの声が飛ぶ。


「走っとらん!」


「走っとる!」


 みんなが吹き出した。


 しばらくして、陸が戻ってきた。


 抱えていたのは、一冊の古い大学ノートだった。


 表紙は日に焼けて、角が少し丸くなっている。


「これ」


 陸は座卓の上へ置いた。


「何それ」


 春人が聞く。


「秘密基地ノート」


 一瞬だけ、みんなが黙った。


 それからあかりが吹き出した。


「ほんまにあるんじゃ、そんなの」


「兄ちゃんらが使っとった」


 陸は得意そうにノートを開いた。


 一ページ目には、大きな字でこう書いてあった。


『ひみつきち』


「字でかっ」


 蒼太が言う。


「ちゃぶ台のやつと同じじゃん」


 春人も笑った。


「絶対同じ人じゃろ」


 あかりが陸を見る。


「知らん」


 陸はすぐに言った。


「知っとる顔しとる」


「知らん」


 耳だけ少し赤い。


 ページをめくる。


『カブトムシ 四ひき』


『ザリガニ 七ひき』


『池で落ちた』


『じいちゃんに怒られた』


「内容うすっ」


 蒼太が言った。


 みんなが笑う。


 さらにページをめくると、今度は雑な絵が出てきた。


 山のような形。


 川のような線。


 丸。


 矢印。


『ひみつきち かいぞうけいかく』


「改造?」


 みゆが覗き込む。


「何を改造するん?」


「知らん」


 陸が答えた。


「兄ちゃんに聞かんと分からん」


「また知らん」


 あかりが呆れたように笑う。


 次のページには、もっと大きな字で書かれていた。


『たからをうめた』


 一瞬、全員が黙った。


「宝?」


 春人が言う。


「宝じゃろ」


 蒼太の目が少し光る。


「どこに?」


 みゆが聞く。


「知らん」


 陸は首を振った。


「兄ちゃんらの時じゃし」


「掘ろう」


 蒼太が真顔で言った。


「やめぇ」


 陸も真顔で返す。


 みんなが吹き出した。


 おばあちゃんが横から覗き込む。


「あんたら、カレー食べながら何しよん」


「秘密基地ノート」


 陸が答える。


「またそんなもん出して」


 おばあちゃんは呆れたように言いながらも、少し笑っていた。


「兄ちゃんら、よう遊びよったわ」


「ばあちゃん知っとるん?」


 春人が聞く。


「そりゃ知っとるよ」


 おばあちゃんは座卓の端へ腰を下ろした。


「陸の兄ちゃんも、近所の子らも、夏になったらあそこへ上がってなぁ。虫かごやらボールやら持ち込んで、よう怒られとった」


「やっぱ怒られとる」


 あかりが言う。


「怒られるようなことばっかりするんじゃから」


 おばあちゃんが即答した。


 陸が少し不満そうな顔をする。


「俺はそんな怒られん」


「怒られとる」


「怒られとらん」


「今も走るな言われたじゃろ」


 蒼太が言った。


 みんながまた笑う。


 ページはまだ続いていた。


『川の上流たんけん』


『夜の見張り』


『長屋門そうじ』


「夜の見張りって何?」


 春人が聞く。


「知らん」


 陸が答える。


「兄ちゃんに聞いてみる」


「ほんまに聞いといてよ」


 あかりが言う。


「覚えとったらな」


「忘れるやつじゃ、それ」


 みゆが笑った。


 ノートの後ろの方へ進むと、急にページが白くなった。


 何ページも。


 何ページも。


 何も書かれていない。


 さっきまで笑っていたみんなが、少しだけ静かになった。


 白いページが、まだ何かを待っているように見えた。


「使わんようになったん?」


 春人が聞く。


「兄ちゃんらが中学行ってからかな」


 陸は少しだけ考えるように言った。


「俺も最初は見よったけど、そのうち忘れとった」


 春人は白いページを見た。


 ここに書いたらいいのかもしれない。


 氷室のこと。


 記号のこと。


 みゆが感じたこと。


 けれど、それを口に出す前に、おばあちゃんの声が飛んだ。


「ほれ、カレー冷めるで」


「あ」


 春人はスプーンが止まっていたことに気付く。


「あ」


 みゆも同じ顔をする。


「お前らなぁ」


 陸が笑った。


「お前もじゃろ」


 蒼太が即座に言う。


 みんなが笑いながら、またカレーを食べ始めた。


 けれど、ノートの白いページが気になって仕方なかった。


 食べ終わった後。


 おばあちゃんが皿を片付け始めると、陸がまた立ち上がった。


「もう一回、上行く?」


「秘密基地?」


 春人が聞く。


「うん」


 陸はノートを持ち上げる。


「他にも何かあるかもしれん」


 その一言に、みんなの顔が変わった。


「行く」


 あかりが即答した。


「行く」


 蒼太も言う。


「私も」


 みゆも立ち上がる。


 春人も頷いた。


「行く」


「食べたばっかりで走るなよー」


 おばあちゃんの声が飛んでくる。


「走らん!」


 陸が返事をする。


 その足はすでに廊下へ向かっていた。


 縁側の近くで寝ていたポチが、むくりと顔を上げる。


 自分も行くつもりなのか、のそのそと立ち上がった。


「ポチは無理じゃ」


 陸が頭を撫でる。


「階段上れん」


 ポチは分かっているのかいないのか、尻尾だけを一度振った。


 長屋門の下までついてきたけれど、急な木の階段の前まで来ると、そこで座り込んだ。


 春人は思わず笑う。


「賢いな」


「落ちたら困るけぇな」


 陸が言う。


「人間も落ちたら困るじゃろ」


 あかりが突っ込む。


 みんなでまた階段を上がった。


 さっき来たばかりの秘密基地なのに、もう少し懐かしい感じがする。


 ちゃぶ台。


 窓。


 漫画。


 図鑑。


 そして部屋の隅に積まれた木箱。


「まずここじゃな」


 蒼太の目が光っていた。


「勝手に開けてええん?」


 みゆが聞く。


「ええじゃろ」


 陸が答える。


「たぶん」


「たぶんが怖い」


 春人が言う。


 それでも、誰もやめようとはしなかった。


 木箱の蓋を開けると、古い虫かごが出てきた。


 割れた水鉄砲。


 ビー玉。


 錆びた方位磁石。


 折れた虫取り網の柄。


 昔のカード。


 よく分からない木の札。


「全部ガラクタじゃん」


 あかりが言う。


「宝じゃろ」


 蒼太が真顔で返す。


「どこが」


「全部」


 その時、みゆが箱の底に手を入れた。


「あれ」


 指先に何かが引っかかったらしい。


 ゆっくり引っ張り出すと、丸められた紙が出てきた。


 輪ゴムは古くなって、ほとんど切れている。


 紙の端は茶色くなっていた。


「何これ」


 春人が言う。


「地図?」


 蒼太が身を乗り出した。


 みんなでちゃぶ台の上に広げる。


 紙は少し硬くなっていて、広げるとぱりぱりと音がした。


 描かれていたのは、道だった。


 山。


 川。


 池。


 それから、今は見たことのない名前。


「これ、どこの地図なん?」


 あかりが聞く。


 陸も首を傾げた。


「知らん」


「また知らん」


 けれど、今度は誰も笑わなかった。


 なぜか少しだけ、笑えなかった。


 春人は地図を見つめる。


 今の地図とは違う気がした。


 けれど、まったく知らない場所にも見えない。


 どこかで見た山の形。


 神社の方角。


 それに、細く描かれた古い道。


「じいちゃんに聞いたら分かるかな」


 みゆが言った。


「分かるかも」


 陸が頷く。


「あと兄ちゃんにも聞いてみる」


「忘れんでよ」


 あかりが言う。


「忘れん」


「ほんまに?」


「たぶん」


「たぶんじゃだめじゃろ」


 みんなが笑った。


 けれど春人は、もう一度地図へ目を落とした。


 しばらくの間、五人はちゃぶ台を囲んだまま地図を見つめていた。


 どこなのか分からない。


 何のための地図なのかも分からない。


 けれど、不思議と気になった。


 古い紙の上に描かれた道は、今にもどこかへ続いていきそうだった。


 秘密基地の中を風が通る。


 地図の端が、かすかに揺れた。


 兄たちが残した秘密基地ノート。


 途中から真っ白になったページ。


 誰も使わなくなったまま残されていた場所。


 春人はその最後のページを開いた。


「ん?」


 みゆが顔を上げる。


 春人は少しだけ迷ってから言った。


「これ」


 ノートを軽く叩く。


「続き、書かない?」


 一瞬だけ、秘密基地の中が静かになった。


 窓の外では相変わらず蝉が鳴いている。


 風が吹き込み、ちゃぶ台の上に広げられた古い地図の端を揺らした。


 けれど、その時だけは誰も地図を見ていなかった。


 みんな春人を見ていた。


「続き?」


 あかりが聞く。


 春人は少し照れくさくなりながら頷いた。


「陸のお兄さん達のだろ?」


 春人はそう言って、開かれたままのノートへ視線を落とした。


 途中まで誰かが使っていたページ。


 そして、その先に続く真っ白なページ。


 まるで、


 ここから先は好きに使えと言われているみたいだった。


「秘密基地ノートなんだろ」


「だったら続きがあってもいいと思う」


 みゆが小さく笑う。


「確かに」


 あかりも頷いた。


「兄ちゃんらの続きか」


 蒼太は少し嬉しそうだった。


 陸は何も言わなかったけれど、なんだか照れくさそうな顔をしていた。


「何書くん?」


 蒼太が聞く。


「今日のこと」


 春人は答える。


「氷室行ったこととか」


「記号のこととか?」


 みゆが言う。


「うん」


「ええじゃん」


 あかりが笑う。


「調査記録みたいで」


「調査隊じゃしな」


 陸が得意そうに言う。


 春人はノートへ鉛筆を置いた。


 少しだけ考える。


 それから、ゆっくりと書き始めた。



 7月12日


 氷室へ行った。


 中はすごく涼しかった。


 壁に知らない記号があった。


 何の意味かはまだ分からない。



「まだ分からない、か」


 蒼太が覗き込む。


「その通りじゃな」


 誰も反論しなかった。


 本当に分からないのだから。


 けれど。


 分からないまま終わらせるつもりもなかった。


 春人は次の行を見つめる。


 少しだけ考えてから、もう一文だけ書き足した。



 また調べに行く。



 春人が書き終える。


 鉛筆の先が紙から離れる。


 たったそれだけのことなのに、不思議とみんながその文字を見つめていた。


 誰も何も言わない。


 けれど反対する者もいなかった。


 記号の意味はまだ分からない。


 地図のことも分からない。


 みゆが感じたことだって説明できない。


 分からないことばかりだった。


 それでも。


 だからこそ。


 もう一度行こうと思った。


 自分たちで確かめようと思った。


 秘密基地の窓から風が吹き込む。


 古い地図の端が揺れる。


 開かれたノートのページも揺れる。


 兄たちが途中で終えた秘密基地ノートは、その日から静かに続きを書き始めた。


 それはたぶん、氷室調査隊の最初の記録だった。

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