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第7話 放課後の探検隊


最後のチャイムが鳴った瞬間だった。


 それまで教室の中へ張りついていた授業の空気が、ぱっと弾けるようにほどけていく。


 あちこちで椅子を引く音が重なり、ランドセルの金具が鳴り、友達の名前を呼ぶ声が飛び交う。もう廊下へ飛び出している子もいるらしく、開け放たれた教室の扉の向こうからは駆けていく足音まで聞こえてきた。


 窓の外では相変わらずセミたちが大合唱を続けている。


 夏の学校が一日の終わりを迎える時だけの、少し浮き足立った賑やかさだった。


 そんな中で。


 蒼太だけは朝からずっと落ち着かなかった。


 帰りの会が終わるなりランドセルを背負い、そのまま勢いよく立ち上がる。


「行くぞ」


 たった三文字なのに、待ちきれないという気持ちが全部詰まっている。


 春人は思わず笑った。


「早いって」


「早う行かんと」


「だから何で」


「じゃけぇ行くんじゃ」


「意味分かんないよ」


 教室の後ろで陸が肩をすくめる。


「放っとけ」


 慣れた口調だった。


「こうなった蒼太は止まらん」


「あんた朝からそれしか言ってないじゃん」


 あかりが呆れたように言う。


「ひどい言い方じゃな」


 蒼太は頬を膨らませた。


 けれど本気で怒っているわけではない。


 むしろ少し嬉しそうだった。


 昼休みにスクリーンショットを見てからというもの、蒼太はずっとこんな調子だった。


 授業中も何度も時計を見るし、休み時間になるたびに春人の席を振り返る。先生に注意されても直らない。


 まるで遠足の前の日みたいだった。


 そして春人も、人のことは言えなかった。


 算数の問題を解いている時も。


 理科で先生の話を聞いている時も。


 気が付けば頭の中へ、あの文字が浮かんでくる。


 ――この声が聞こえていますか?


 読めない文字。


 氷室の壁に似た模様。


 本当に誰かが送っているのだろうか。


 それともただの故障なのだろうか。


 考えても答えは出ない。


 出ないのに、気が付けばまた考えている。


 時計を見ている。


 窓の外を見ている。


 放課後まであと何分だろう。


 そんなことばかり考えていた。


 ランドセルを背負う。


 本当なら教科書の分だけ重くなっているはずなのに、今日は不思議なくらい軽く感じた。


 理由は分かっている。


 これから氷室へ行くからだ。


 秘密基地みたいな石の部屋へ。


 みんなで。


 あの文字を調べに行く。


 そう思うだけで胸の奥が少し騒がしくなる。


 転校してきてまだ数日しか経っていない。


 それなのに今日の放課後が待ち遠しくて仕方なかった。


◇◇◇


 昇降口を出ると、むっとするような夏の空気が頬を包んだ。


 昼間より少しだけ傾いた日差しが校庭を照らしている。


 それでも空はまだ高かった。


 白い雲がゆっくり流れている。


 夏休みまで、もう少しだ。


 そんなことを思わせる空だった。


 春人は何となく足を止めて空を見上げる。


 この町へ来てから、空を見ることが増えた気がしていた。


 朝も。


 昼も。


 帰り道も。


 気が付けば見上げている。


 同じ空のはずなのに、東京で見ていた空とはどこか違う。


 うまく説明はできない。


 でも、見上げるたびに少し近い気がするのだ。


 そんな時だった。


 スクールバス乗り場へ向かおうとしていたみゆが足を止める。


「あ」


 あかりが声を上げた。


「みゆ」


 呼ばれて振り返ったみゆの髪を、ちょうど風が揺らした。


「おじいちゃんに聞いといてよ」


 あかりが言う。


 みゆは少しだけ考えるように視線を落とし、それから静かに頷いた。


「うん」


 いつも通りの小さな返事だった。


 けれど春人には、その返事が妙に頼もしく聞こえた。


 春人も一歩前へ出る。


「何か分かったら教えて」


 みゆは春人を見る。


 それから少しだけ間を置いて言った。


「そっちも」


「え?」


「何か見つかったら」


 春人は思わず笑った。


「もちろん」


 その瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 みゆは氷室へは来られない。


 でも仲間じゃないわけじゃない。


 自分たちは氷室を調べる。


 みゆは昔話や伝承を調べる。


 別々の場所にいるのに、同じ謎を追いかけている。


 そんな感じがした。


 それが少し嬉しかった。


 すると蒼太が横から割り込んでくる。


 自分の胸をどんと叩いた。


「任せろ」


「お前が言うな」


 陸が即座に突っ込む。


「なんでじゃ」


「一番暴走しそうじゃろ」


「失礼じゃな」


「否定できるか?」


 蒼太は腕を組んだ。


 本気で考え始める。


 数秒後。


「……できんかもしれん」


 あかりが吹き出した。


 陸も笑う。


 春人も笑う。


 みゆまで少しだけ口元を緩めていた。


 風が吹く。


 校庭の向こうで木の葉が揺れる。


 夏の匂いがした。


 その笑い声も風に乗って流れていく。


 みゆはそんな四人を見ていた。


 何か言いたそうだった。


 でも少し迷っているようにも見えた。


 そして。


「気をつけて」


 そう言った。


 小さな声だった。


 けれど、その一言だけでみんな少しだけ真面目な顔になる。


 春人は頷いた。


「うん」


 その返事は、自分で思っていたよりずっと力強かった。


◇◇◇


 やがて白いスクールバスが校門の前へ滑り込んできた。


 ブレーキの空気が抜ける音が小さく響き、続いてドアが開く。


 待っていた子どもたちが何人か列を作り始めた。


 みゆもその中へ加わる。


 ランドセルが小さく揺れる。


 夏の風が吹き、前下がりの髪が頬の横でわずかに揺れた。


 その横顔は相変わらず落ち着いていて、何を考えているのかよく分からない。


 けれど春人は、なぜかその後ろ姿を目で追っていた。


 みゆはあまり喋らない。


 騒がしくもない。


 蒼太みたいにみんなを引っ張っていくタイプでもない。


 それなのに、不思議と気になる。


 何かを知っているような。


 何かを感じているような。


 そんな雰囲気があった。


 バスへ乗り込む直前、みゆがふと振り返った気がした。


 本当に振り返ったのか。


 春人の気のせいなのか。


 それはよく分からない。


 けれど次の瞬間にはドアが閉まり、白いスクールバスはゆっくりと走り出していた。


 窓ガラスが夏の光を反射する。


 やがて道路の向こうへ消えていく白い車体を見送りながら、春人は何となく息を吐いた。


 ほんの少しだけ静かになる。


 探検隊の一人が別ルートへ向かったような気分だった。


「よし!」


 その静けさを破ったのは蒼太だった。


 両手をぱんっと打ち合わせる。


「行くぞ!」


 目が輝いている。


 完全に待ちきれていない顔だった。


「だから早いって」


 春人は苦笑する。


 けれど胸の奥では、自分も同じ気持ちだった。


 早く行きたい。


 早く確かめたい。


 あの文字と氷室が本当に繋がっているのか。


 もし繋がっていたら、その先に何があるのか。


 気付けば足取りまで少し軽くなっていた。


◇◇◇


 学校の裏手へ回ると、景色が一気に開けた。


 風が吹く。


 田んぼの葉先が一斉に揺れ、さらさらと緑色の波が走っていく。


 その向こうには桃畑が見えた。


 さらに向こうには、なだらかな里山が重なるように並んでいる。


 春人は思わず足を緩めた。


 この景色が好きだった。


 東京では見たことがない景色だった。


 一面が田んぼというわけではない。


 広大な平野でもない。


 けれど、小さな田んぼや畑が家々の間に散らばり、その向こうに山が見える。


 空が広い。


 風が通る。


 見ているだけで肩の力が抜けていくような景色だった。


「結城」


 前を歩いていた蒼太が振り返る。


「なに?」


「探検っぽいじゃろ」


「またそれ?」


「またじゃ」


 蒼太は真顔だった。


 本気で探検だと思っているらしい。


 あかりが肩を震わせる。


「出た」


「蒼太語じゃ」


 陸も苦笑する。


「翻訳不能」


「失礼じゃな」


 蒼太は頬を膨らませた。


 けれど全然気にしていない。


 むしろ自分だけは真実を知っているみたいな顔をしている。


 春人は思わず笑った。


 前に蒼太と二人でこの道を歩いた時は、もっと遠かった気がする。


 暑かったし、汗もかいた。


 まだ着かないのかと思った。


 でも今日は違う。


 前では蒼太が何か喋っている。


 隣ではあかりが笑っている。


 後ろから陸が突っ込む。


 声がある。


 笑いがある。


 誰かがいる。


 たったそれだけなのに、道の長さまで違って感じられた。


「あれ?」


 春人は思わず声を漏らした。


 前方にはもう雑木林が見えている。


「もう着いたの?」


「じゃろ?」


 蒼太が得意そうに笑う。


「近かったじゃろ」


「いや、それは違う」


 春人は即座に否定した。


「前はもっと遠かった」


「同じ距離じゃ」


「絶対違う」


 みんなが笑った。


 春人も笑う。


 でも本当にそう思った。


 近くなったのは距離じゃない。


 たぶん。


 自分の方だった。


◇◇◇


 雑木林へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 さっきまで肌へまとわりついていた夏の熱気が少し遠ざかり、代わりに湿った土の匂いが近付いてくる。


 風が吹く。


 頭上で葉が揺れる。


 木漏れ日が地面の上をゆっくりと動いていく。


 同じ風のはずなのに、田んぼ道で聞いていた音とはまるで違っていた。


 葉と葉が擦れ合う音。


 どこかで鳥が鳴く声。


 枝の隙間から落ちてくる光。


 まるで林そのものが小さな音を立てながら呼吸しているみたいだった。


「うわぁ……」


 春人は思わず声を漏らした。


「なんか急に別の場所みたいだな」


「じゃろ?」


 蒼太が振り返る。


 なぜか少し得意そうだった。


「秘密基地感あるじゃろ」


「それは分かる」


 春人は素直に頷いた。


 小さい頃、秘密基地という言葉を聞くだけでわくわくした。


 けれど実際にそんな場所を持ったことはない。


 東京では空き地も少なかったし、勝手に入れる林なんてほとんどなかった。


 でも今は違う。


 枝を避けながら歩く。


 根っこを跨ぐ。


 草をかき分ける。


 たったそれだけなのに、知らない場所を探検している気分になる。


 ゲームや漫画の中でしか見たことのなかった冒険が、少しだけ本物になったみたいだった。


「結城」


 蒼太が急に振り返る。


「なに?」


「ここで宇宙人出ても驚かんじゃろ?」


「驚くわ!」


 即答だった。


 あかりが吹き出す。


 陸も笑う。


「なんで宇宙人前提なん」


「いや、雰囲気的に」


「どんな雰囲気じゃ」


「ほら」


 蒼太は両手を広げた。


「秘密基地」


「うん」


「古代文字」


「うん」


「地下施設」


「うん」


「宇宙人」


「飛びすぎじゃろ!」


 あかりのツッコミが林の中へ響く。


 その声に驚いたのか、近くの枝から小鳥が飛び立った。


 四人は思わず見上げる。


 羽音が木々の間へ消えていく。


 その様子まで何だか冒険の途中みたいで、春人は少し笑ってしまった。


 実際のところ。


 ここへ来るまでは半信半疑だった。


 秘密基地だの探検だの言われても、ただの林だろうと思っていた。


 けれど歩いてみると違う。


 学校とも違う。


 家の近所とも違う。


 田んぼ道とも違う。


 まるで地図の端っこに描かれている「この先は未開の地です」という場所へ入り込んだみたいだった。


 そして、その先にあるのが氷室だ。


 昨日も見た。


 確かに見たはずなのに。


 今日は昨日とは少し違う気持ちで向かっている。


 文字のことを知ってしまったからだ。


 タブレットのことを知ってしまったからだ。


 みゆのおじいちゃんの話もある。


 蒼太のノートもある。


 全部がどこかで繋がっているような気がしていた。


 その時だった。


「あ」


 陸が前を指差した。


 木々の隙間から灰色の石が見える。


 大きな岩だった。


 その向こう。


 岩に守られるようにして、ぽっかりと黒い入口が口を開けている。


 氷室だった。


 昨日も見たはずなのに。


 春人は思わず立ち止まる。


 冷たい空気が流れてくる。


 夏の林の中とは思えないほど涼しい風だった。


 頬を撫でる。


 腕を撫でる。


 まるで地下から誰かが静かに息を吐いているみたいだった。


 昨日はただの古い施設に見えた。


 でも今日は違う。


 あの文字がある。


 タブレットがある。


 みゆの話がある。


 蒼太の考察がある。


 全部があの暗い入口の向こうへ続いている気がした。


 だから春人には、ただの石の穴には見えなかった。


 秘密の続きを隠している扉みたいだった。


 胸の奥が小さく高鳴る。


 怖いわけじゃない。


 むしろ逆だった。


 宝箱を開ける直前みたいな気持ち。


 秘密を見つける寸前みたいな気持ち。


 昨日まで知らなかった場所。


 昨日まで知らなかった友達。


 昨日まで知らなかった謎。


 それなのに今は、その全部が自分の目の前にある。


 氷室は静かだった。


 何も語らない。


 ただそこにあるだけだった。


 けれど不思議と、四人を待っていたようにも見えた。


 春人は隣を見る。


 蒼太はもう目を輝かせている。


 あかりも笑っている。


 陸も口元を緩めていた。


 そして次の瞬間。


「行こう」


 誰が言ったのか分からなかった。


 でも四人は同時に頷き、冷たい空気の流れてくる入口へ向かって歩き出した。

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