第81話 石を伝う歌
誰一人、動けなかった。
風が止む。
山は、何事もなかったような静けさへ戻っていた。
「……もう一回」
蒼太が言った。
今度は誰も迷わなかった。
もう一度、五人は陰陽石の前へ並ぶ。
息を合わせる。
「アー イーラ ムー ナー」
歌声が森へ響く。
「アー ヨーラ モー ウー」
葉が静かに揺れる。
「ワー ナー ヨー ラー」
春人は耳を澄ませた。
「エー モー ラー ウー」
歌が終わる。
静寂。
一秒。
二秒。
三秒。
何も聞こえない。
「……返ってこん」
陸が小さく言う。
「さっきだけじゃったんかな」
あかりも首をかしげた。
蒼太は腕を組んだまま動かない。
「偶然……」
春人がつぶやく。
「いや」
蒼太は首を振った。
「偶然じゃない」
「なんで分かるん」
「聞こえたけぇ」
それだけだった。
五人はもう一度陰陽石を見上げる。
二つの岩は、静かに寄り添っている。
さっきと何も変わらない。
けれど。
確かに一度だけ歌は返ってきた。
「……氷色」
みゆが小さく言った。
春人もその名前を聞いて顔を上げる。
「氷色なら知っとるかもしれん」
陸が言う。
「行こう」
春人はうなずいた。
自由研究のことなど、もう頭から消えていた。
知りたい。
あの声は何だったのか。
それだけだった。
五人は山道を引き返す。
落ち葉を踏む音が少しだけ速くなる。
誰も無駄話をしない。
息だけが少し弾んでいた。
やがて木々の向こうに、氷室の入口が見えてきた。
夏の空気とは違う、ひんやりとした冷気が流れてくる。
春人は一歩、中へ足を踏み入れた。
「氷色!」
声が石壁へ響く。
返事はない。
「氷色!」
もう一度呼ぶ。
すると。
氷室の奥で、小さな青白い光がふわりと揺れた。
ゆっくりと近づいてくる。
氷色だった。
けれど。
春人は思わず息をのむ。
いつもと違う。
氷色は五人の顔を見るなり、小さく目を見開いた。
「……きこえた?」
その一言に。
五人は同時に立ち止まった。
氷色は小さく首を振る。
「わたしも……きいたこと、ない」
「え」
蒼太が思わず声を上げた。
「知らんの」
「うん」
氷色は少し困ったように笑った。
「でも」
その一言で、五人は息をのむ。
「うたは」
氷色は胸へ手を当てた。
「ひとりの、うたじゃない」
春人はその言葉を思い出す。
初めて歌を教えてもらった日。
氷色は確かにそう言っていた。
「じゃあ」
蒼太がゆっくり聞く。
「向こうにも歌う者がおるってことか」
氷色はすぐには答えなかった。
静かな氷室に、水滴の音だけが響く。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
「……いる」
ようやく返ってきた声は、とても小さかった。
五人は思わず息を止める。
「でも」
氷色はゆっくり首を振る。
「まだ、とおい」
「遠い?」
春人が聞き返す。
氷色は静かにうなずいた。
「だから」
そう言って、氷室の入口の向こうを見つめる。
「もういちど」
「うたって」
五人は顔を見合わせた。
「ここで?」
あかりが聞く。
氷色は静かに首を振る。
「ここ、じゃない」
「きこえたのは」
「いし」
短い言葉だった。
けれど、その意味は五人に伝わった。
「陰陽石」
春人がつぶやく。
氷色は静かにうなずく。
「うたは」
「いしを、つたう」
その瞬間だった。
「……そういうことか」
蒼太が小さく息をのんだ。
四人が一斉に振り向く。
蒼太の目が、見たこともないほど真剣だった。
「石がつながっとるんじゃ」
「え?」
あかりが聞き返す。
「陰陽石も」
「氷室も」
「この前見つけた山の石も」
蒼太は一つずつ指を折っていく。
「全部つながっとる」
「歌は、その石を伝って行き来しとるんじゃ」
春人の胸がどくんと鳴る。
氷室。
陰陽石。
山で見つけた石。
点だったものが、一つの線になった気がした。
「だから返ってきた……」
みゆが小さくつぶやく。
「うん」
蒼太はうなずく。
「でも、一音だけじゃった」
腕を組み、少し考え込む。
「向こうも全部は返せんかったんか」
「それとも」
「まだ届ききっとらんのか」
誰にも分からない。
けれど。
その考えを否定する者もいなかった。
氷色は五人を見つめ、静かにうなずいた。
「……わたしも」
「そう、おもう」
その言葉に、五人は息をのむ。
氷色にも確かな答えはない。
けれど。
少なくとも、進む方向は間違っていない。
「つづけて」
氷色は小さく微笑んだ。
「うたって」
「きっと」
「もっと、きこえる」
氷室は静まり返っていた。
水滴が落ちる音だけが、小さく響く。
ぽちゃん。
その音を聞きながら、春人は胸の奥が熱くなるのを感じた。
一音だけだった。
それでも。
誰かが向こうで歌い返してくれた。
その事実だけで、世界が昨日までとは少し違って見えた。
春人は静かに拳を握る。
――なら。
向こうにいる「誰か」も。
今、自分たちのことを探しているのだろうか。




