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第80話 返歌


 陰陽石の前には、静かな夏の風が流れていた。


 二つの岩が寄り添うように並んでいる。


 人の背丈よりは大きい。


 けれど、見上げるほどではない。


 それなのに。


 目の前へ立つと、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。


「まず自由研究じゃな」


 陸が言った。


「せっかく来たんじゃし」


「うん」


 春人はリュックからクリアファイルを取り出した。


 見学会でもらった資料を広げる。


 タブレットには、あの日撮った写真が映っていた。


「こっちから撮っとったんじゃな」


 春人は写真と実物を見比べる。


「今見ると、全然違って見える」


 タブレットを構え、何枚か写真を撮る。


 岩の正面。


 少し横から。


 二つの岩の間。


「もう少し近う寄ってみ」


 陸が言う。


「ここからの方が形が分かりやすい」


「ほんとだ」


 春人はもう一枚撮った。


 画面を拡大する。


「何か見つかった?」


 あかりがのぞき込む。


「いや」


 春人は首を振る。


「自由研究には十分かなって」


 資料と写真を見比べながら、小さくメモを書き込んでいく。


『見学会では気づかなかったが、近くで見ると二つの岩が寄り添っているように見える。』


『周りは木に囲まれていて、とても静かだった。』


「それっぽい」


 あかりが笑う。


「自由研究らしくなってきた」


 春人も笑った。


「これならまとめられそう」


 クリアファイルへ資料を戻す。


「あと写真を整理したら終わりかな」


 その時だった。


「……なあ」


 蒼太が岩を見つめたまま言う。


「せっかくじゃし」


 誰も返事をしない。


 蒼太はゆっくり振り向いた。


「歌ってみん?」


 春人は陰陽石を見上げた。


 氷色が教えてくれた歌。


 何度も氷室で歌った歌。


 でも。


 陰陽石の前で歌うのは初めてだった。


「……うん」


 春人がうなずく。


 あかりも。


 陸も。


 みゆも。


 静かにうなずいた。


 五人は自然と岩の前へ並ぶ。


 木々を渡る風が、ふっと弱くなった。


 春人は静かに息を吸う。


 そして。


 五人の声が重なった。


「アー イーラ ムー ナー」


 歌声が森へ溶けていく。


「アー ヨーラ モー ウー」


 葉がかすかに揺れた。


「ワー ナー ヨー ラー」


 誰も目を閉じない。


 陰陽石を見つめたまま歌う。


「エー モー ラー ウー」


 最後の音が静かに消えた。


 森は静まり返っていた。


 セミの声だけが遠くで聞こえる。


「……」


 五人はしばらく待った。


 何も起こらない。


「やっぱり違うんかな」


 あかりが小さくつぶやく。


 春人も息を吐いた。


 その時だった。


「……もう一回」


 蒼太がぽつりと言った。


 岩から目を離さない。


 その横顔を見て、春人ももう一度息を吸った。


五人はもう一度、陰陽石の前へ並んだ。


 今度は誰も話さない。


 ただ静かに岩を見つめる。


 春人は胸の前で一度だけ息を整えた。


 そして。


「アー イーラ ムー ナー」


 五人の声が重なる。


 さっきよりも、よく響いた気がした。


「アー ヨーラ モー ウー」


 森の奥へ歌が吸い込まれていく。


 風はない。


 葉も揺れない。


「ワー ナー ヨー ラー」


 春人は歌いながら、陰陽石を見つめ続けた。


 二つの岩は、ただ静かにそこにある。


 何も変わらない。


 そう思った。


「エー モー ラー ウー」


 最後の音が消えた。


 静寂。


 誰も動かない。


 山の中から聞こえていたセミの声まで、急に遠くなったような気がした。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


「……やっぱり」


 あかりが小さく息を吐く。


「何も――」


 その時だった。


「……アー」


 どこからともなく、かすかな声が響いた。


 五人は同時に顔を上げる。


「え」


 春人が息をのむ。


 今の声は。


 風ではない。


 鳥でもない。


 誰かが近くで歌ったようにも聞こえた。


 けれど。


 蒼太は歌っていない。


 陸も。


 あかりも。


 みゆも。


 みんな口を閉じたまま、同じ方向を見ていた。 


「……聞こえた?」


 みゆが震える声で言う。


「うん」


 春人はゆっくりとうなずく。


「聞こえた」


 陸もごくりとつばを飲み込んだ。


「わしも」


 あかりは辺りを見回す。


「誰か、おる?」


 返事はない。


 山には自分たちしかいない。


 それなのに。


 確かに歌が返ってきた。


 蒼太だけは陰陽石から目を離さなかった。


 小さく首を振る。


「……違う」


 ぽつりとつぶやく。


「返っとる」


 四人が蒼太を見る。


「返ってる?」


 春人が聞き返した。


 蒼太は少し考えるように陰陽石を見つめる。


「……たぶん」


 一度だけ息をのんでから続けた。


「あれは誰かが歌ったんじゃない」


「わしらの歌に、返事しとる」


 誰も何も言えなかった。


 ただ陰陽石だけが、静かにそこにあった。


 その時。


 ふわりと風が吹いた。


 木々が小さく揺れ、葉擦れの音が山の静けさへ溶けていく。


 五人は誰一人、その場から動けなかった。

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