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第76話 伊勢


 納屋では誰も声を出さなかった。


 扇風機だけが、ゆっくりと首を振っている。


 春人は地図の上を東へ伸びる一本の金色の線を見つめていた。


 伊勢。


 教科書で見たことはある。


 テレビでも聞いたことはある。


 けれど。


 昨日まで、自分とは何の関係もない場所だった。


 それが今は違う。


 昨日、自分たちの歌へ返事をくれた誰かが、その先にいるかもしれない。


「じゃあ!」


 あかりが勢いよく立ち上がる。


「行こう!」


 黒崎は思わず吹き出した。


「簡単に言うな」


 地図を軽くたたく。


「伊勢は岡山の隣じゃない」


「車でも何時間もかかる」


 その一言で、現実へ引き戻された。


 納屋が静かになる。


 自転車では行けない。


 電車だけでも難しい。


 まして、小学生だけでは無理だった。


 陸がぽつりと言う。


「親が許してくれん」


「うん」


 みゆもうなずく。


「旅行じゃないし」


「あーあ」


 あかりが机へ突っ伏した。


「せっかく分かったのに」


 春人も苦笑するしかなかった。


 せっかく目的地が見えてきたのに、その一歩が遠い。


 そんな空気の中で、一人だけ黙っている人物がいた。


 蒼太だった。


 腕を組んだまま、じっと黒崎を見つめている。


 黒崎が笑う。


「その顔」


「何か考えとるな」


 蒼太はゆっくり口を開いた。


「黒崎さん」


「仕事で全国回っとるじゃろ」


「まあな」


「伊勢にも行くん?」


「仕事ならな」


 蒼太は逃がさなかった。


「今年は?」


 納屋が静まり返る。


 黒崎は腕を組み、少しだけ天井を見上げた。


「……そういや」


 しばらく考えてから口を開く。


「来月」


「伊勢の近くで取材が入っとる」


 誰も動かなかった。


 一番先に声を上げたのは、あかりだった。


「えっ!?」


 陸が目を丸くする。


「ほんまに?」


 春人も思わず黒崎を見る。


 蒼太だけが、小さく笑っていた。


「やっぱり」


 黒崎は苦笑する。


「おいおい」


「まだ話は終わっとらんぞ」


「取材は取材じゃ」


「お前らを連れて行く話とは別じゃけぇな」


 その言葉に、五人は少しだけ肩を落とした。


 希望が決まったわけではない。


 けれど。


 昨日までは、東のどこか。


 それしか分からなかった。


 今は違う。


 伊勢という名前があり。


 そこへ向かう人もいる。


 昨日まで遠かった場所が、少しだけ近づいた気がした。


 黒崎は子どもたちを見回して、小さく笑った。


「まずは調べる」


「本当に伊勢なのか」


「そこをはっきりさせてからじゃ」


 春人たちは静かにうなずいた。


 その時だった。


「おーい、陸」


 納屋の外から、聞き慣れた声が響いた。


 陸が顔を上げる。


「あ」


「杉谷さんじゃ」


 春人たちは一斉に入口へ目を向けた。


 戸がゆっくり開いた。

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