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第74話 返事


 氷色は静かに目を閉じた。


 氷室には、時間まで冷えてしまったような静けさが満ちていた。


 誰も口を開かない。


 春人は息をひそめたまま、氷色を見つめる。


 何かを思い出そうとしている。


 それだけは分かった。


 長い沈黙だった。


 ほんの数秒だったのか。


 それとも、もっと長かったのか。


 誰にも分からない。


 やがて。


 氷色の唇が、小さく動いた。


「……むかし」


 その一言だけで、五人の背筋が伸びる。


 氷色は目を閉じたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「むかしは」


「うた」


「そらへ」


「ことば」


「とどけた」


 一つ。


 また一つ。


 途切れた記憶を拾い集めるように。


 確かめるように。


 氷色は遠い昔の言葉を口にしていた。


 春人は思わず聞き返した。


「届けた?」


 氷色はゆっくりとうなずく。


「いし」


「いしへ」


 蒼太が息をのんだ。


「……石から石へ?」


 氷色は春人たちを見回した。


「うん」


「うた」


「ことば」


「ひかり」


「みんな、おなじ」


 春人の胸に、昨日の光景がよみがえる。


 石柱を駆け上がった金色の光。


 空へ向かって伸びていった、あの一本の光。


 あの光は、ただ光ったんじゃない。


 歌が。


 言葉が。


 光となって、どこか遠くへ届けられていた。


「じゃあ……」


 みゆが静かに尋ねる。


「返ってきたのは?」


 氷色は春人のタブレットへ目を向けた。


 その瞳が、わずかに揺れる。


「……へんじ」


 静かな声だった。


 けれど、その一言は氷室の空気を震わせるには十分だった。


 五人は顔を見合わせる。


 やっぱり。


 あれは気のせいじゃなかった。


「返事だったんだ……」


 誰もすぐには次の言葉を口にできなかった。


 自分たちが歌ったあの歌は、本当にどこかへ届いていたのだ。


 春人が小さくつぶやく。


 氷色はうなずく。


「とどいた」


「だから」


「かえってきた」


 蒼太が一歩前へ出た。


「誰じゃ」


「返事したんは」


 氷色は口を開く。


 けれど。


 言葉は続かなかった。


 眉を寄せ、小さく首をかしげる。


「……」


 思い出そうとしている。


 そう分かった。


 春人たちは誰も急かさない。


 また静かな時間が流れる。


 やがて氷色は、少しだけ寂しそうに笑った。


「……おぼえてない」


 蒼太が苦笑した。


「またそこか」


 氷色は申し訳なさそうにうつむく。


「いっぱい」


「むかし」


「いっぱい、いた」


「でも」


「なまえ」


「おもいだせない」


 その声は、どこか悲しそうだった。


 春人は首を横へ振る。


「いいよ」


「今までだって、一つずつ思い出してきたじゃん」


 氷色は春人を見つめる。


 少しだけ安心したように笑った。


「……うん」


 その時だった。


「待て」


 蒼太が急に声を上げる。


 全員が振り向く。


 蒼太は腕を組んだまま、何かを考えていた。


「返事が返ってきたいうことは」


「向こうにも誰かおる」


 氷色はゆっくりとうなずく。


「いた」


「きのう」


「こえ、きこえた」


 短い返事だった。


 その一言に、春人の胸が高鳴る。


 本当に。


 甘岩の外にも。


 自分たちの知らない場所にも。


 誰かがいる。


「その人も……」


 春人は思わず尋ねた。


「氷色みたいなの?」


 氷色は少し考えた。


 そして、小さく首を横へ振る。


「……ちがう」


 五人が息をのむ。


「ちがう?」


「でも」


 氷色は目を閉じる。


 遠い記憶をたどるように。


「つながってる」


 その一言で、甘岩の外に広がる見えない世界が、ほんの少しだけ近づいた気がした。


 蒼太は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく口を開く。


「……もう一つ」


 全員が蒼太を見る。


「昨日、返事が返ってきたいうことは」


「また歌えば」


「また返事が返ってくるんか」


 氷色は春人たちを見つめた。


 少しだけ考える。


 そして、小さく首をかしげた。


「……いまだけ」


「え?」


 あかりが聞き返す。


「今だけ?」


 氷色はゆっくりとうなずく。


「ひらいてる」


「だから」


「きこえた」


 春人は思わずタブレットを見た。


 昨日は確かに返事が返ってきた。


 でも。


「ずっとじゃないの?」


 氷色は静かに首を横へ振る。


「むかしは」


「いつでも」


「いまは」


「ちがう」


 その言葉に、氷室の空気が少しだけ重くなった。


 昔は、いつでもつながっていた。


 でも今は違う。


 だから。


 昨日の出来事は偶然ではなく、今しかない何かだった。


「じゃあ」


 みゆが小さな声で尋ねる。


「閉じたら……」


 氷色は目を伏せた。


「きこえない」


 短い言葉だった。


 その一言が、胸へ静かに落ちてくる。


「あかんじゃん!」


 あかりが思わず声を上げた。


「急がんと!」


 陸も真面目な顔になる。


「いつ閉じるかも分からんのじゃろ」


「うん」


 氷色は小さくうなずいた。


「だから」


「まってた」


 春人は息をのむ。


 そうか。


 氷色は五人を待っていたんじゃない。


 この”つながる時間”を待っていたんだ。


 蒼太が低い声でつぶやく。


「じゃあ」


「今しか調べられんいうことか」


「うん」


 氷色は迷わず答えた。


 再び静けさが戻る。


 誰もが昨日見た金色の光を思い浮かべていた。


 その時だった。


「待て」


 蒼太が顔を上げる。


「昨日」


「地図、縮めたじゃろ」


 春人も思い出す。


 岡山県全体。


 その上を横切っていた一本の金色の線。


「県の外まで行っとった」


 陸がうなずく。


「東の方じゃった」


「かなり遠かったよね」


 みゆも静かに言う。


 蒼太は春人のタブレットを指さした。


「向こうがおるんなら」


「場所もある」


「探せる」


 春人の胸が高鳴る。


 ただ待つだけじゃない。


 自分たちにもできることがある。


「氷色」


 春人はもう一度尋ねた。


「返事をくれた人は」


「どこにいるの?」


 氷色は目を閉じた。


 長い時間、記憶を探る。


 けれど。


 ゆっくりと首を横へ振った。


「……わからない」


「でも」


 氷色は少しだけ笑った。


「ひがし」


 その一言だけだった。


 氷室が静まり返る。


 春人は思わず蒼太を見る。


 蒼太も同じように春人を見ていた。


 昨日。


 地図を縮めた時。


 金色の線は確かに東へ伸びていた。


「やっぱりじゃ」


 蒼太が静かに言う。


「地図」


「もう一回見よう」


 春人もうなずいた。


 岡山から東へ。


 あの一本の光が向かった先。


 そこに、返事をくれた誰かがいる。


 春人は昨日、空へ伸びていった光を思い出す。


 あの光は。


 届いていた。


 そして。


 誰かが、返してくれた。


 氷室の静けさの中で。


 春人はまだ見ぬ東の空を思い浮かべていた。

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