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第72話 空へ


 一本の石だった。


 近づくにつれ、その姿が少しずつ大きくなる。


 人の背丈より少し高い灰色の石は、長い年月を風雨にさらされ、角は丸く削れていた。


 表面には細い筋が幾重にも走り、ところどころに苔が静かに張りついている。


 けれど。


 その石だけが、不思議なくらい真っすぐ空へ向かって立っていた。


 春人は思わず足を止める。


 木々に囲まれた山の中なのに、その場所だけ時間の流れが違うように感じた。


「……なんなん、これ」


 あかりが小さく呟く。


 誰も答えない。


 陸がゆっくり近づき、石へ手を当てた。


「冷たい」


 春人も隣へ立ち、そっと触れてみる。


 ひんやりとしている。


 円形列石の岩とよく似た感触だった。


 けれど、その奥に眠っているものは、まるで違う。


 そう思った。


 風が吹く。


 梢が揺れ、葉擦れの音だけが静かに山を流れていった。


 みゆは石を見上げたまま、小さく息を吐く。


「……歌う?」


 その一言に、誰も返事をしなかった。


 返事なんて必要なかった。


 五人は自然と石柱を囲むように立つ。


 春人は深く息を吸い込んだ。


 湿った土の匂い。


 草の青い香り。


 夏の風。


 全部を胸いっぱいに吸い込む。


 そして。


 誰からともなく歌が始まった。


 アー イーラ ムー ナー


 声が山へ溶けていく。


 風がふっと弱くなる。


 アー ヨーラ モー ウー


 葉擦れの音が遠ざかる。


 ワー ナー ヨー ラー


 セミの声が、いつの間にか止んでいた。


 エー モー ラー ウー


 最後の音が静かに消える。


 山が息を止めた。


 誰も動かない。


 聞こえるのは、自分たちの鼓動だけだった。


 その時だった。


 石柱の足元に、小さな金色の光が灯る。


 ぽう、と。


 まるで誰かが、長い眠りから目を開いたように。


「……!」


 春人は息をのむ。


 光はゆっくり石柱を包み込むと、表面をなぞるように上へ流れ始めた。


 細い筋をたどり。


 刻まれた傷をなぞり。


 一本の金色の川となって、静かに、けれど迷うことなく頂上へ駆け上がっていく。


「すご……」


 あかりの声は震えていた。


 誰も目を離せない。


 光は石柱の先端へ届く。


 そして。


 リィィン――。


 澄んだ音が山へ響いた。


 次の瞬間。


 一本の金色の光が、真夏の青空へ向かって放たれた。


「……!」


 細い。


 けれど、どこまでもまっすぐだった。


 光は空を貫き。


 雲を越え。


 青空の、その先へ。


 まるで空へ一本の糸を縫い付けるように、どこまでも昇っていく。


 春人は見上げたまま動けなかった。


 世界は広い。


 そう思っていた。


 でも今、その広い世界のどこかへ、この光は届こうとしている。


 誰かに。


 何かに。


 ――つながるために。


 その瞬間。


 ――ブゥン。


 春人の手の中で、タブレットが小さく震えた。


 誰も動かなかった。


 五人の視線が、一斉に画面へ集まる。


 金色の線が、ゆっくり脈打ち始めていた。


 まるで。


 どこか遠くから、返事が返ってきたかのように。


 ――ブゥゥン。


「また!」


 画面を見る。


 金色の線が、ゆっくり脈打っていた。


 まるで心臓みたいに。


 光る。


 消える。


 また光る。


「何これ……」


 あかりが春人の肩越しにのぞき込む。


 陸も眉をひそめた。


「壊れたんじゃねぇじゃろな」


「違う」


 蒼太が首を振る。


 画面から目を離さない。


「何か起きとる」


 その時。


 画面の端で、小さな光が一度だけ点滅した。


 ぴっ。


「……!」


 春人が思わず息をのむ。


 みゆも息をのむ。


「今、光った」


「見た見た!」


 あかりが叫ぶ。


「絶対何か来た!」


「来たって何が?」


「知らん!」


「じゃあ言うな!」


 また五人でわちゃわちゃする。


「押してみる?」


「いや待て!」


「変なん出たらどうするん!」


「もう変なんじゃろ!」


「確かに!」


 笑う余裕なんてないのに、言葉だけは次々飛び出してくる。


 春人は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……分からん」


 その一言で、みんなが静かになる。


 誰にも分からない。


 何が起きたのか。


 何が返ってきたのか。


 蒼太が腕を組んだ。


「考えても分からん」


 少しだけ考えてから言う。


「知っとるやつがおる」


 春人が顔を上げる。


「……氷色」


 みゆが頷く。


「聞いてみよう」


 あかりも大きく頷いた。


「そうじゃ!」


「こんなん氷色しか分からん!」


 陸が石柱を振り返る。


「今日はもう遅いけぇ」


「明日また氷室じゃな」


 春人はもう一度タブレットを見る。


 画面は静かだった。


 けれど。


 さっき確かに震えた。


 あの光は夢じゃない。


 どこか遠くへ届いて。


 そして。


 何かが返ってきた。


「……帰ろう」


 誰からともなく歩き出す。


 木漏れ日の道を戻りながらも、五人とも何度もタブレットを振り返っていた。


 答えはまだ分からない。


 でも。


 空へ放たれたあの光は、確かにどこかへ届いた。


 そして。


 何かが返ってきた。


 その意味を知る者がいる。


 明日。


 また氷室へ行けば、きっと。

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