第71話 作戦実行
翌日の午後。
入道雲が空高く広がっていた。
セミの声が朝よりも大きく響いている。
陸の家の納屋は、大きな扇風機がぶんぶん回っていた。
それでも夏は暑い。
「暑い……」
あかりが机へ突っ伏す。
「まだ始まって十分じゃぞ。」
陸が笑う。
「もう帰りたい」
「早っ」
春人も思わず笑った。
机の上には夏休みの宿題が山積みになっている。
漢字ドリル。
計算ドリル。
読書感想文。
自由研究。
五人分並ぶと、それだけでなかなかの量だった。
「今日は何やる?」
春人が聞く。
蒼太は即答した。
「漢字」
「先に終わらせる」
「後が楽じゃ」
「えー」
あかりが顔をしかめる。
「読書感想文から逃げたい」
「逃げても最後に残るだけじゃ」
陸が笑う。
「それな」
みゆも小さく頷いた。
「じゃあ」
春人がノートを開く。
「分からないところは聞き合うってことで」
「賛成」
五人は一斉に机へ向かった。
納屋には鉛筆の音だけが響く。
カリカリ。
カリカリ。
しばらく誰もしゃべらない。
夏休みなのに、学校より静かだった。
十分ほど経った頃。
「あー!」
あかりが叫ぶ。
「もう分からん!」
「何」
蒼太が顔も上げずに言う。
「この算数」
「比?」
「うん」
蒼太は問題を見る。
「ああ」
鉛筆を一本取る。
「ここ」
紙へ丸を書いた。
「これ全部で一」
「そこから考える」
「あ」
あかりの顔が変わる。
「分かった!」
「ほんまじゃ!」
その隣では、
「春人」
みゆがそっと呼んだ。
「読書感想文」
「最初が書けない」
春人は少し考えた。
「一番心に残ったところから書けばいいと思う」
「最初からじゃなくても?」
「うん」
「最後に順番を並べればいいし」
みゆは少し安心したように笑った。
「やってみる」
反対側では、
陸が漢字を書いている。
「蒼太」
「この字なんじゃったっけ」
「『懐かしい』」
「画数多すぎじゃろ」
「知らん」
また笑いが起こる。
納屋には笑い声と鉛筆の音が交互に響いた。
春人はふと顔を上げる。
転校してくる前。
夏休みは、一人で宿題をしていた。
分からないところは辞書を開いて。
終わればゲームをして。
それだけだった。
けれど今は違う。
分からないところを聞けば、
誰かが答えてくれる。
笑って。
教えて。
また笑う。
それだけなのに。
宿題まで楽しく感じる。
「春人」
陸が声をかけた。
「ぼーっとしとるぞ」
「あ、ごめん」
「何考えとったん」
春人は少し照れくさそうに笑った。
「……なんでもない」
本当は違う。
“岡山へ来てよかった。”
その一言が胸に浮かんでいた。
「終わった!」
あかりが鉛筆を机へ置いた。
「今日はここまで!」
陸がノートを閉じる。
「予定どおりじゃな」
机の上には、今日やると決めていた宿題が並んでいる。
全部終わったわけじゃない。
でも。
今日の分は終わった。
約束は守った。
春人は自然と笑った。
「じゃあ」
リュックを背負う。
「行こう」
その一言だけで十分だった。
あかりはもう扉へ走っている。
「今日は歌うんじゃろ!」
「それから左!」
蒼太が頷く。
「順番じゃ」
「まず確かめる」
夏の風が納屋を吹き抜ける。
五人は一斉に自転車へまたがった。
ここからが、本当の夏休みだった。
◇◇◇
陸の家を出ると、田んぼの間を吹く風が汗ばんだ頬をなでた。
青々とした稲が一斉に揺れる。
遠くでは入道雲がゆっくり育っていた。
やがて山の入口にある広場へ着く。
五人は広場の端へ自転車を並べた。
「よし」
陸がリュックを背負う。
「行こう」
歩き慣れた山道を進む。
木漏れ日。
土の匂い。
葉擦れの音。
少し汗をかき始めた頃、円形列石が見えてきた。
あの日と同じ。
岩が静かに円を描いている。
風だけが吹いていた。
春人はタブレットを開く。
金色の線は、変わらず円の中心へ流れ込んでいた。
「歌おう」
蒼太が短く言う。
誰も異論はなかった。
五人は自然と円の中へ立つ。
あの日と同じように。
円を囲むように。
春人は一度だけ深呼吸した。
そして。
五人の声が重なる。
アー イーラ ムー ナー
夏の山へ歌が広がる。
風が葉を揺らす。
アー ヨーラ モー ウー
ワー ナー ヨー ラー
エー モー ラー ウー
歌い終えた。
静けさだけが残る。
その時。
ふわり。
金色の光が円の中心へ集まり始めた。
「来た……!」
あかりが息をのむ。
光は前と同じだった。
細い糸になり。
ゆっくりと中心へ流れ込んでいく。
けれど。
それだけだった。
それ以上は何も起こらない。
岩は開かない。
新しい光も現れない。
しばらくして。
金色の光は、風へ溶けるように静かに消えた。
「……やっぱり」
蒼太がぽつりと呟く。
「歌だけじゃ足りん」
春人も頷く。
春人は思わず小さく息を吐いた。
その時だった。
「見て」
みゆがタブレットを指差す。
春人は画面を見る。
金色の線は消えていない。
相変わらず、左へ一本だけ伸びている。
蒼太が小さく笑った。
「ほらな」
「まだ終わっとらん」
その笑みは悔しさじゃなかった。
次がある。
そんな顔だった。
「行こう」
春人が言う。
五人は円を後にした。
分かれ道へ戻る。
右ではなく。
今度は左へ。
草は深く。
木漏れ日は少ない。
風まで少しひんやりしていた。
踏み跡はある。
けれど、人の気配はほとんど感じない。
さらり。
葉が揺れる。
セミの声も、どこか遠かった。
春人はタブレットを見つめる。
金色の線は、迷うことなく前だけを指している。
その先で。
ふいに木々が途切れた。
「……あ」
春人の足が止まる。
木立の向こう。
一本だけ。
灰色の石柱のようなものが、空へ向かってまっすぐ立っていた。
自然の岩には見えない。
誰かが立てたような。
そんな一本の石だった。
蒼太はタブレットを見る。
そして、その石を見る。
静かに笑った。
「着いた」
春人はゆっくり顔を上げる。
円形列石とは違う。
そこには一本の石だけが、何百年も誰かを待ち続けているように立っていた。
金色の線は。
まっすぐ、その石へ吸い込まれていた。




