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第68話 思い出した


 「……わたしも」


 その一言が、静かな氷室へ落ちた。


 春人の胸がどくりと鳴る。


 誰も動かなかった。


 氷色は胸へ当てた手を見つめたまま、小さく息を吐く。


 まるで、自分でも忘れていた記憶に触れてしまったようだった。


「氷色……」


 春人がそっと呼ぶ。


 氷色は顔を上げた。


 淡い光をまとった瞳が、春人ではなく、その向こうを見つめている。


 今、この氷室ではない。


 ずっと遠い昔を見ているようだった。


「いた」


 ぽつりと呟く。


「みんな」


 また小さく。


「うた」


 春人の背中をぞくりと何かが走った。


 あの山。


 円を描く岩。


 金色の光。


 さっきまで見てきた景色が頭の中へ重なる。


 蒼太が一歩前へ出た。


「どこじゃ」


 静かな声だった。


「どこで見えた」


 氷色はゆっくり山の方を向く。


 指先が、小さく震えていた。


「あそこ」


 その一言だけだった。


 けれど十分だった。


 全員の頭に、同じ景色が浮かぶ。


 円になった岩。


 風の吹く広場。


 金色の糸。


 氷色は目を閉じた。


 静かな時間が流れる。


 氷室の中は、水滴の落ちる音だけが響いていた。


 ぽちゃん。


 ぽちゃん。


 その音に合わせるように、氷色の呼吸が少しずつ深くなる。


「……ひかり」


 小さく呟く。


「わらう」


「うた」


 言葉が少しずつ増えていく。


 今までみたいに、一つ一つ探すんじゃない。


 溢れるように。


 胸の奥から浮かび上がってくるように。


「たくさん」


 春人は息をのんだ。


 氷色の表情が変わっていく。


 嬉しそうだった。


 でも。


 どこか泣きそうでもあった。


 みゆは黙ったままノートを抱きしめている。


 陸も。


 あかりも。


 誰も口を開かなかった。


 その空気を壊したくなかった。


 やがて。


 氷色が、ふっと目を開いた。


「あ」


 小さな声。


 でも。


 その声だけで全員が反応した。


「どうした?」


 春人が思わず身を乗り出す。


 氷色は自分の口へ触れた。


 驚いたように。


 信じられないように。


 そして。


 嬉しそうに笑った。


「……おもいだした」


 蒼太が息を止める。


「歌か」


 氷色は頷く。


「うん」


 みゆは反射的にノートを開いた。


 鉛筆を握る。


 春人も自然と姿勢を正していた。


 氷色は静かに息を吸う。


 氷室の空気まで、一緒に息を吸い込んだようだった。


 そして。


 歌い始める。


 アー イーラ ムー ナー


 優しい声だった。


 石の壁へ染み込むように響いていく。


 アー ヨーラ モー ウー


 春人も、小さく後を追う。


 ワー ナー ヨー ラー


 今度は五人全員の声が重なった。


 何度も歌った歌だった。


 けれど今日は違う。


 その続きを。


 氷色が歌う。


 エー モー ラー ウー


 最後の音が、静かに氷室の奥へ溶けていく。


 その余韻は、今までとは違っていた。


 歌が終わったのに。


 音だけが、まだ石の中で響き続けているようだった。


 春人は息を止める。


 誰も動かない。


 その時だった。


 ふわり。


 氷色の足元から、金色の光があふれた。


「……!」


 思わず目を見開く。


 光は床を流れた。


 水のように。


 いや。


 生き物のように。


 石の継ぎ目を選ぶように、細い筋となって走っていく。


 一本。


 また一本。


 今まで見えなかった線が、次々と浮かび上がる。


挿絵(By みてみん)


「見て!」


 みゆが思わず声を上げた。


 石の壁だった。


 壁いっぱいに、細い金色の線が広がっていく。


 枝分かれし。


 重なり。


 また一つになり。


 まるで巨大な木の根が、岩の中を生きているようだった。


「すご……」


 あかりが言葉を失う。


 陸も思わず壁へ近づく。


「こんなん……最初からあったんか……」


 誰にも分からない。


 見えなかっただけなのか。


 今、生まれたのか。


 春人はタブレットを抱きしめる。


 画面が、小さく震えていた。


 ぶぅん。


 短い振動。


「え?」


 画面を見る。


 地図が。


 勝手に動いていた。


 一本だった金色の線が、ゆっくりと広がっていく。


「蒼太!」


 思わず叫ぶ。


 蒼太もすでに画面を覗き込んでいた。


「これ……」


 誰も触っていない。


 それなのに。


 線が増える。


 一本。


 また一本。


 山の中を巡るように。


 いくつもの線が伸びていく。


 そして。


 一本の輪になった。


「円じゃ……」


 蒼太が呟く。


 さらに。


 その円から、また別の線が伸びる。


 先に、新しい円。


 また先に、もう一つの円。


 春人は思わず息をのんだ。


「これ……」


「道じゃない」


 蒼太がゆっくり首を振る。


「全部……」


 画面を見つめたまま言う。


「つながっとる」


 その一言だった。


 氷室の壁でも。


 タブレットの中でも。


 同じ形が浮かび上がっていた。


 線は一本じゃない。


 円と円。


 石と石。


 場所と場所。


 全部がつながっている。


 まるで大きな網のように。


 春人は昨日まで考えていたことを思い出す。


 一本道じゃない。


 始まりも。


 終わりもない。


 全部がつながっている。


 その瞬間だった。


 氷色が、小さく声を漏らした。


「……あ」


 全員が振り向く。


 氷色は氷室の一番奥を見つめていた。


 歌はもう終わっている。


 それなのに。


 光は止まらない。


 金色の筋は、ゆっくりと奥の岩壁へ集まり始めていた。


 まるで。


 何かに呼ばれるように。


 何かを目覚めさせるように。


 静かに。


 確かに。


 奥の闇へ向かって流れていく。


 誰も動けなかった。


 息をすることさえ忘れて、その光を見つめる。


 やがて。


 金色の光は、一番奥の岩壁へ触れた。


 ふっ。


 淡く。


 ほんの一瞬だけ。


 岩肌が光る。


「……!」


 春人は目を見開いた。


 何かが見えた気がした。


 文字だったのか。


 模様だったのか。


 それとも。


 誰かの影だったのか。


 分からない。


 次の瞬間には、もう消えていた。


「今……」


 あかりが思わず声を漏らす。


「見えたよな?」


 陸も頷く。


「何か、おった」


 蒼太は返事をしなかった。


 岩壁を見つめたまま、一歩前へ出る。


 けれど。


 そこにはもう、いつもの岩しかなかった。


 光も。


 模様も。


 何もない。


 静かな氷室だけが残っていた。


 氷色が、小さく呟く。


「……まだ」


 春人が振り返る。


「まだ?」


 氷色は岩壁を見つめたまま、小さく首を振った。


「まだ、ひらかない」


 そう言って。


 そっと岩壁へ手を伸ばす。


 あと少し。


 本当にあと少しだけ届かない。


 その指先が光へ触れようとした瞬間。


 ふっ。


 金色の筋は静かに消えていった。


 氷室は、また元の静けさへ戻る。


 水滴が落ちる。


 ぽちゃん。


 誰も動けなかった。


 あと一つ。


 何かが足りない。


 そのことだけは、五人全員が分かっていた。

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