第60話 朝
目が覚めた時には、もう部屋の中が明るかった。
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、机の上を白く照らしている。
遠くでセミが鳴いていた。
春人はしばらく天井を見上げていた。
眠いわけではない。
むしろ逆だった。
昨日の夜から何度も目が覚めている。
一時。
三時。
四時半。
そのたびに時計を見ては、まだ朝じゃないと布団をかぶり直した。
遠足の前の日みたいだった。
いや。
遠足よりひどいかもしれない。
だって、氷室の壁が光って。
知らない歌が現れて。
氷色が『つながる』と言って。
その上。
【今だけです】
なんて表示されたのだ。
気にならない方がおかしい。
春人は枕元の時計を見る。
五時四十七分。
もう十分明るいし、これ以上寝ようとしても無理だろう。
「起きるか」
小さく呟いて布団を出た。
足の裏に床のひんやりした感触が伝わる。
台所へ行くと、味噌汁の匂いがした。
由香はもう朝ご飯の準備をしている。
「あら」
振り返った母が少し驚いた顔をした。
「珍しいね」
「何が?」
「春人が目覚ましより先に起きるの」
春人は苦笑した。
確かにそうだ、普段ならまだ寝ている。
起こされても二度寝する。
それなのに今日は自分から起きている。
由香は何となく察したらしく、笑いながら聞いた。
「友達と約束?」
「うん」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
けれど、味噌汁をよそいながら言う。
「楽しそうだね」
春人は返事をしなかった。
返事をしたら認めることになる気がした。
由香は少し笑う。
たぶん全部ばれている。
朝ご飯を食べ終わる頃には、セミの声もさらに増えていた。
窓の外では田んぼが朝日に照らされている。
風が吹くたび、青い稲が波みたいに揺れた。
本当に夏休みなんだな。
ふとそんなことを思う。
学校がある日の朝とは空気が違う。
急がなくてもいいけれど、今日は急ぎたい。
そんな変な気分だった。
「行ってきます」
「気を付けてね」
春人が玄関を出ると、朝の空気はまだ少しだけ涼しかった。
けれどその奥に、今日も暑くなるぞと知らせるような夏の匂いが混じっている。
自転車へ跨がり、ペダルを踏む。
田んぼの間の道を風が抜けていく。
稲の葉が朝日に光る。
遠くの山は濃い緑色だった。
昨日も見た景色だった。
けれど今日は違う。
山へ行く。
陰陽石の場所へ行く。
歌の続きを探しに行く。
氷色が言った『つながる』の意味を探しに行く。
そう思うだけで胸が落ち着かなかった。
ペダルを踏む足に自然と力が入る。
気付けばいつもより速く走っていた。
やがて神社の鳥居が見えてくる。
石段の横。
そこに見覚えのある自転車が止まっていた。
「あ」
思わず声が漏れる。
やっぱり。
鳥居の脇に立っていたのは蒼太だった。
腕を組み。
いかにも待っていましたという顔をしている。
春人を見るなり言った。
「おっせぇ」
「まだ六時四十五分だろ」
「おっせぇ」
「十分早いって」
「遅ぇ」
蒼太は真顔だった。
春人は思わず吹き出す。
どう見ても待ちきれなかった顔だった。
「何時からいるんだよ」
「六時」
「早すぎだろ」
「六時前」
「増えとるじゃん」
春人が笑う。
蒼太はまったく悪びれない。
「待てんかった」
即答だった。
春人は思わず笑う。
どうやら昨日、眠れなかったのは自分だけではなかったらしい。
蒼太も同じだった。
たぶん、みんな同じだ。
そう思った時だった。
「おはよー!」
元気な声が響く。
あかりだった。
後ろからみゆもやって来る。
「おはよう」
みゆが小さく手を振る。
さらに少しして。
「全員早ぇな」
陸も自転車で現れた。
五人が揃う。
誰も昨日の続きを忘れていなかった。
あかりはいつもよりよく喋るし、蒼太は落ち着きがない。
陸は何度も山の方を見ている。
みゆだけはいつも通りに見えた。
けれど。
そのみゆでさえ、どこか嬉しそうだった。
神社の向こうには山が見える。
朝日を浴びた緑がきらきら光っていた。
あの中に、まだ誰も知らない続きがある。
歌の続き。
増えた文字の意味。
氷色が言った『つながる』の意味。
五人は顔を見合わせる。
誰も「行こう」とは言わなかった。
言わなくても分かっていた。
次の答えは山にある。
歌の続きを。
文字の続きを。
氷色が忘れてしまった記憶の続きを。
そして。
【今だけです】
という言葉の続きを探しに。
五人は同時にペダルを踏み込んだ。
夏の朝の風が、頬を抜けていった。




