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第59話 その先


 氷室を出ると、むっとした夏の空気が全身を包んだ。


 さっきまでの冷たさが嘘みたいだった。


 夕方の光が山の斜面を赤く染めている。


 遠くでヒグラシが鳴いていた。


「暑っ」


 あかりが顔をしかめる。


「生き返ったと思ったら死ぬ」


「どっちなん」


 陸が笑った。


 春人は振り返る。


 氷室の入口はいつもと変わらない。


 石垣の間にぽっかり開いた暗い穴。


 けれど。


 その奥で起きたことは、どう考えても普通じゃなかった。


 歌の続き。


 光った刻印。


 氷色の言葉。


『つながる』


 その言葉が頭から離れなかった。


「明日じゃな」


 蒼太が言った。


「何が」


「山」


 即答だった。


「行くに決まっとる」


「決まっとるんか」


「決まっとる」


 蒼太は真顔だった。


 誰も反論できなかった。


 正直。


 春人も同じことを考えていた。


 あの山だ。


 陰陽石のあった山。


 歌の続きに出てきた文字。


 光った刻印。


 全部がそこへ繋がっている気がする。


「何時集合?」


 陸が聞く。


「五時」


 蒼太が言った。


「却下」


 全員だった。


「何でじゃ!」


「朝じゃない」


「夜じゃ」


「あほか」


 あかりが言う。


「五時に起きるだけでも無理」


「わし起きとる」


「お前は知らん」


 みゆまで頷いている。


 蒼太は納得していなかった。


「じゃあ六時」


「変わっとらん」


「七時」


「最初からそれ言え」


 陸が笑った。


 少しだけ気が楽になる。


 けれど。


 その空気を壊したのはみゆだった。


「でも」


 小さな声だった。


 全員が見る。


「今だけって書いてあった」


 静かになった。


 夕方の風が吹く。


 田んぼが揺れる。


 誰もすぐには喋らなかった。


【道が開いているのは】


【今だけです】


 あの文字が春人の頭にも浮かぶ。


 蒼太も。


 あかりも。


 陸も。


 たぶん同じだった。


「今だけって」


 陸が言う。


「いつまでなんじゃろ」


「知らん」


 蒼太が答える。


 今度は誰も突っ込まなかった。


 本当に分からなかった。


 明日かもしれない、一週間後かもしれない。


 夏休みが終わる頃かもしれない。


 それとも‥。


 もっと早いのかもしれない。


「じゃあ」


 あかりが言った。


「行くしかないじゃろ」


 その言葉に全員が頷いた。


 結局。


 答えは一つだった。


 分からないなら、確かめに行くしかない。


「七時」


 陸が言う。


「神社の下集合」


「遅い」


 蒼太が言う。


「早い」


 あかりが言う。


「普通」


 みゆが言う。


「じゃあ決まり」


 春人が言った。


 異論は出なかった。


 山へ行く。


 明日の朝。


 陰陽石のあった場所へ。


 歌の続きと、増えた文字を持って。


 そして。


 氷色の言葉を持って。


『つながる』


 その意味を知るために。


 春人は夕焼けに染まる山を見る。


 頂上近くは木々に隠れて見えなかった。


 けれど。


 その向こうに何かが待っている。


 そんな気がした。


 夏の風が吹く。


 ヒグラシの声が、少しだけ大きく聞こえた。


◇◇◇


 家へ帰った頃には、空はもう薄暗くなっていた。


 夕飯を食べて、風呂へ入って。


 明日の準備をする。


 いつもと同じはずだった。


 けれど。


 春人は何度も時計を見てしまう。


「どうしたん?」


 母が聞いた。


「別に」


 そう答える。


 本当に説明できなかった。


 氷室のこと。


 氷色のこと。


 歌のこと。


 言ったところで信じてもらえない気がした。


 春人は自分の部屋へ戻ると、机の上にタブレットを置いた。


 画面を開く。


 増えた文字がまだ残っている。


 昼間と同じだった。


 けれど。


 見れば見るほど分からない。


「……」


 春人はノートを開く。


 みゆが写した歌を書き写していた。


 知らない音。


 知らない言葉。


 なのに、どこか懐かしい。


 そんな気がする。


 ふと、氷色の言葉を思い出した。


『つながる』


 何が、どうやって。


 誰と誰が。


 春人は鉛筆を回す。


 そして。


 何となく書いてみた。


 わ。


 な。


 その二文字。


 意味はもう分かっている。


 わたし。


 あなた。


「わたしとあなた……」


 小さく呟く。


 その続き、歌の続き。


 つながる。


 結ぶ。


 広がる。


 全部がどこかで繋がっている気がする。


 けれど、あと少し届かない。


 その時だった。


 タブレットが淡く光った。


「え?」


 春人は顔を上げる。


 強い光ではない。


 一瞬だけだった。


 画面の端。


 増えた文字のすぐ下。


 そこに。


 新しい線が現れていた。


 細い一本線。


 まるで続きを書く場所みたいに。


「なんだ、これ……」


 春人は思わず身を乗り出す。


 けれど、それ以上は何も起きなかった。


 光も消える。


 文字も増えない。


 ただ、一本の線だけが残っている。


 春人はしばらく見つめていた。


 やがて小さく息を吐く。


「山か」


 明日。


 行くしかない。


 そう思った。



 窓の外では虫が鳴いていた。


 夏の夜だった。


 遠くの山は真っ暗で。


 何も見えない。


 けれど。


 その山のどこかで。


 まだ誰にも読めていない続きを待っている気がした。


 春人は目覚まし時計を七時より少し前に合わせる。


 そして布団へ入った。


 明日。


 もう一度、あの山へ行く。


 そう決めて目を閉じた。

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