第5話 眠れない夜
その日の夜、春人の部屋の窓は少しだけ開いていた。
夕飯を食べて、宿題を終わらせて、お風呂にも入り、あとは寝るだけになっているはずなのに、机の上に置いた学校のタブレットがどうしても気になって、春人はなかなか布団へ入ることができなかった。
昼間、教室で見たあの白い画面。
そこに浮かんでいた、読めない文字。
――この声が聞こえていますか?
たったそれだけの日本語と、その下に並んでいた記号のような文字が、授業中も、給食の時も、帰り道も、ずっと頭のどこかに残っていた。
意味は分からない。
誰が送ったのかも分からない。
学校のタブレットにそんなものが出る理由なんて、考えたところで分かるはずもない。
それなのに、どうしても忘れられなかった。
窓の外から夜の空気が入ってくる。
昼間はあれほど暑かったのに、夜になると田んぼの方から少し冷えた風が流れてきて、カーテンの裾をゆっくり揺らしていた。
遠くでカエルが鳴いている。
その上に、名前の分からない小さな鳴き声がいくつも重なっている。
静かな夜のはずなのに、耳を澄ませば澄ますほど音が増えていく。
東京にいた頃の夜とは違った。
車の音や電車の音が遠くで続く夜ではない。
ここでは、田んぼと林と庭のどこかで生き物が鳴いていて、誰もいないはずの暗闇の中に、たくさんの気配がある。
春人は椅子にもたれ、大きく息を吐いた。
「考えても分かんないよな……」
呟いてみても、もちろん返事はない。
ただ机の上のタブレットだけが、部屋の照明を受けて黒い画面にぼんやり光を返している。
昼間のあれは何だったのだろう。
バグだろうか。
誰かのいたずらだろうか。
それとも、蒼太が言っていた神代文字と本当に関係があるのだろうか。
そこまで考えて、春人は少し笑ってしまった。
もし今ここに蒼太がいたら、きっと目を輝かせながらこう言う。
『だから面白いんじゃろ!』
たぶん、いや、絶対に言う。
それから机へ身を乗り出し、あの文字について早口で話し始めるはずだ。
春人はその顔を想像して、少しだけ気持ちが軽くなった。
転校してきたばかりなのに、もう蒼太がどんな顔をするか想像できる。
そのことが少し不思議だった。
その時だった。
ピコン。
小さな電子音が部屋に響いた。
春人の体が止まる。
窓の外ではカエルが鳴いている。
カーテンが揺れている。
部屋の照明はいつも通り明るい。
それなのに、その音だけが妙にはっきり聞こえた。
春人はゆっくり机の上を見る。
タブレットだった。
黒かった画面が、うっすら光っている。
心臓がどくんと鳴った。
まさか。
そう思った瞬間には、もう体が動いていた。
椅子から身を乗り出し、タブレットへ手を伸ばす。
画面を開く。
そして。
春人は息を呑んだ。
白い画面だった。
昼間と同じだ。
中央には見たことのない文字が並んでいる。
丸。
線。
点。
文字のようで文字ではない。
記号のようで、けれどただの模様ではない。
意味を持っているように見えるのに、まるで読めない。
そして、その上には昼間と同じ一行が表示されていた。
⸻
この声が聞こえていますか?
⸻
「……また出た」
声が勝手にこぼれた。
昼間のあれは見間違いではなかった。
蒼太と二人で同じものを見たのだから、見間違いではないと分かっていたはずなのに、それでももう一度目の前に現れると、胸の奥がぎゅっと縮むような感じがした。
本当にある。
本当に出ている。
学校のタブレットに。
自分の部屋で。
夜に。
その瞬間、春人の頭の中に蒼太の声が響いた。
『次出たら絶対スクリーンショット撮れ』
真剣な顔だった。
昼間の休み時間、あれほど悔しそうに机へ突っ伏していた蒼太の顔が、ありありと思い浮かぶ。
そうだ。
撮らないと。
今度こそ。
春人は慌てて画面へ指を伸ばした。
消えるかもしれない。
昼間みたいに。
今この瞬間にも。
そう思った途端、指先が少し震えた。
「落ち着け……」
小さく呟く。
スクリーンショット。
どうやるんだっけ。
いや、分かる。
分かるはずだ。
間違えるな。
急げ。
消える前に。
カシャッ。
乾いた音が鳴った。
スクリーンショットが保存された。
ほぼ同時だった。
画面の文字がふっと揺らいだ。
水面に映った光が崩れるみたいに、白い画面の上で記号の線が一瞬だけ滲み、それから霧が晴れるように薄くなっていく。
「あっ」
春人は思わず声を上げた。
けれど、もう間に合わない。
次の瞬間には、いつもの学校の連絡画面へ戻っていた。
何事もなかったように。
最初からそんな文字など存在しなかったように。
部屋の中が急に静かになった気がした。
窓の外の鳴き声は続いている。
カーテンも揺れている。
けれど春人はしばらく動けなかった。
タブレットを握ったまま、さっきまで文字があった場所を見つめていた。
本当に消えた。
本当に一瞬だった。
でも。
今度は違う。
春人は慌てて写真フォルダを開いた。
指がまだ少し震えている。
もし撮れていなかったら。
もし失敗していたら。
そう思うと胸が嫌な感じに縮んだ。
けれど。
保存された画像を開いた瞬間、春人は思わず息を吐いた。
そこには確かに残っていた。
⸻
この声が聞こえていますか?
⸻
そして、その下に並ぶ不思議な文字。
「撮れた……」
小さく呟く。
嬉しいわけではない。
安心したとも少し違う。
けれど胸の奥がじんわり熱くなった。
証拠が残った。
誰かに見せられる。
昼間、蒼太と二人で見たものが、本当にあったのだと伝えられる。
春人は画像を拡大した。
文字を見る。
さらに拡大する。
少し離して見る。
意味は分からない。
何度見ても分からない。
けれど、不思議なことに目を離せなかった。
見れば見るほど、昨日の氷室の石壁が頭の中に浮かんでくる。
薄暗い石の部屋。
ひんやりとした空気。
壁に刻まれていた、読めない文字。
あれと関係があるのだろうか。
偶然なのだろうか。
それとも。
春人はそこまで考えて、息を吐いた。
答えなんて出るはずがない。
でも明日になれば、この画像を見せることができる。
蒼太なら、たぶん飛び上がる。
いや、間違いなく飛び上がる。
そして「ほら見ろ」と言うか、「やっぱりじゃ」と言うか、どちらにしても大騒ぎするだろう。
陸はまず眉をひそめるかもしれない。
故障じゃないか、と冷静に言うかもしれない。
でも、結局はちゃんと見てくれる気がした。
あかりは少し怖がるだろうか。
それとも「何それ、見せて」と一番近くまで覗き込むだろうか。
みゆは。
みゆは、またあの不思議な目で文字を見るのだろうか。
気付けば、転校してくる前には知らなかった顔ばかりが浮かんでいた。
まだ数日しか経っていない。
名前を覚えたばかりの子たちだ。
それなのに、この不思議な出来事を一番に話したい相手になっている。
春人はタブレットを閉じた。
時計を見る。
十時を少し過ぎている。
明日も学校だ。
寝なければいけない。
そう思いながら布団へ潜り込んだ。
けれど目を閉じても、あの文字はなかなか消えてくれなかった。
読めないはずなのに。
意味も分からないはずなのに。
なぜだろう。
その向こう側に、本当に誰かがいるような気がしてしまう。
そして、明日が少しだけ待ち遠しいと思っている自分に、春人は小さく驚いていた。
◇◇◇
翌朝。
春人はいつもより少し早く目が覚めた。
窓の外では、もうセミが鳴いている。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいて、部屋はまだ涼しいのに、今日も暑くなりそうな気配だけはしっかりあった。
春人は布団の中でしばらく天井を見つめていた。
昨日の夜のことを思い出す。
白い画面。
読めない文字。
消える瞬間。
そして、ちゃんと残っていたスクリーンショット。
机の上に置いたタブレットへ視線を向ける。
今は何も起きていない。
ただの学校の端末だ。
けれど、その中には確かに昨夜の画像が残っている。
そう思うだけで、胸の奥が少しそわそわした。
◇◇◇
学校へ着いてからも、春人は落ち着かなかった。
朝の会。
一時間目。
二時間目。
先生の声は聞こえている。
ノートも取っている。
でも、頭の片隅にはずっとランドセルの中のタブレットがあった。
休み時間になるたびに、蒼太が振り返る。
「出た?」
「出てない」
「スクショは?」
「ある」
「見せて」
「昼休み」
「長い……」
蒼太は本気で机へ突っ伏した。
その様子を見て、春人は思わず笑ってしまう。
昨日まで知らなかった教室なのに。
昨日まで知らなかった友達なのに。
今は、その反応が少しだけ嬉しかった。
時計を見る。
まだ二時間目が終わったばかりだった。
体感ではもう昼休みでもいいくらいなのに、時間は全然進んでくれない。
窓の外ではセミが鳴いている。
白い雲がゆっくり流れている。
校庭では体育の授業をしている下級生たちの声が聞こえる。
いつも通りの学校だ。
いつも通りの午前中だ。
それなのに春人の中だけ、時間が妙に引き伸ばされていた。
「まだ?」
「まだ」
「今は?」
「まだ」
「今は?」
「時計見ろよ」
春人が言うと、蒼太は本気で時計を見た。
そして絶望したように机へ額をつける。
「五分しか経っとらん……」
あかりが近くで吹き出した。
「蒼太、落ち着きんさい」
「無理じゃ」
「子どもか」
「子どもじゃ」
陸まで笑っていた。
春人も笑った。
でも、本当は自分も同じだった。
早く見せたい。
早く誰かに見てほしい。
あの文字を、自分だけのものではなくしたかった。
◇◇◇
ようやく昼休みのチャイムが鳴った。
キーンコーンカーンコーン。
その音が教室に響いた瞬間、蒼太が勢いよく立ち上がった。
「結城!」
蒼太の声に、近くにいた何人かが何事かとこちらを振り返った。
春人は苦笑しながらランドセルを引き寄せる。
朝から何度も確認した画像だった。
けれど誰かに見せるのは初めてだった。
本当に何かの見間違いだったらどうしよう。
そんな気持ちがほんの少しだけ胸をよぎる。
それでも指は止まらなかった。
「分かってるって」
春人は苦笑しながらランドセルを開いた。
タブレットを取り出す。
蒼太が机へ身を乗り出してくる。
「あかり! 陸! こっち!」
「何よもう」
「また始まった」
そう言いながらも、あかりも陸も近付いてきた。
そして少し離れた席にいたみゆも、何も言わずに立ち上がり、静かにこちらへ歩いてくる。
春人は深く息を吸った。
保存していた画像を開く。
白い画面。
見慣れない文字。
そして一行だけ表示された言葉。
――この声が聞こえていますか?
みんなの視線が画面へ集まる。
教室は相変わらず賑やかだった。
誰かが笑っている。
机を動かす音もする。
廊下を走る足音も聞こえる。
けれど春人たちの机の周りだけ、少しだけ空気が違っていた。
その時だった。
「……呼んどるみたい」
みゆが小さく呟いた。
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