第4話 届いた文字
みゆは結局、何も言わなかった。
スクールバスから降りてきたあと、一瞬だけ春人のランドセルへ視線を向け、それから何事もなかったように校舎へ向かって歩いていく。
朝の光が校庭を照らしていた。
白い雲がゆっくり流れている。
遠くから重なるセミの声が、青空の奥まで続いているように聞こえた。
昨日、この町へ来たばかりだと思っていたのに、今日の朝は少しだけ違って見えた。
蒼太がいて。
陸がいて。
あかりがいて。
登校班のみんながいて。
もう完全によそ者という感じではなくなっている。
もちろん、まだ知らないことの方がずっと多い。
けれど昨日よりは、この町の中へ少しだけ入れた気がしていた。
「行くぞー」
陸の声が飛ぶ。
子どもたちの列が再び動き始めた。
春人も慌てて歩き出す。
その時、ふと振り返った。
みゆはもう校舎の方を向いている。
こちらは見ていない。
それなのに。
なぜだろう。
胸の奥に小さな引っかかりだけが残っていた。
◇◇◇
昇降口で靴を履き替える。
校舎へ入ると、ひんやりした空気が少しだけ心地良かった。
高く広がる青空はどこまでも続いていそうで、見上げているだけで胸の奥が少し軽くなる気がした。
東京にも空はあった。
当たり前だ。
けれど、この町の空は少し違う。
見上げるたび、自分が小さくなったような気がする。
そして同時に。
少しだけ自由になったような気もした。
◇◇◇
転校二日目。
昨日は本当にあっという間だった。
先生に名前を呼ばれるだけで緊張したし、給食の味もよく覚えていない。
気付けば一日が終わっていた。
でも今日は違う。
教室へ入ると、
「おはよう」
と声が飛んできた。
「おはよう」
春人も返す。
昨日なら小さな声しか出なかったと思う。
でも今日は自然に返せた。
それだけのことなのに、少し嬉しかった。
窓は全開だった。
風が吹くたびに白いカーテンが膨らむ。
誰かが宿題を見せ合っている。
誰かが昨日のテレビの話をしている。
後ろでは蒼太が朝から分厚い本を開いていた。
何を読んでいるのかは分からない。
でもたぶん普通の小学生が読む本ではない。
そんな気がした。
窓際ではあかりが友達と笑っている。
陸は低学年の子に頼まれたらしく、ボールを抱えて職員室へ向かっていた。
そして。
みゆは窓際の席で静かに本を読んでいた。
周りは賑やかなのに。
みゆの周りだけ、少し時間の流れが違うように見える。
不思議な子だな、と春人は思った。
その時。
みゆがふと顔を上げた。
一瞬だけ目が合った。
ただそれだけなのに、なぜか見透かされたような気がして、春人は思わず前を向いた。
みゆは何事もなかったように本へ視線を戻している。
なぜか少しだけ気まずかった。
◇◇◇
授業は思ったより普通だった。
算数。
国語。
社会。
先生が話して。
みんながノートを取る。
分からないところは聞いて。
笑うところでは笑う。
昨日より緊張していないせいか、時間も少しゆっくり流れているように感じた。
気付けば二時間目が終わっていた。
チャイムが鳴る。
一斉に椅子が動く。
教室が賑やかになる。
誰かが廊下へ飛び出していく。
誰かが友達の机へ集まる。
窓の外では相変わらずセミが鳴いていた。
夏だった。
昨日まで知らなかった教室なのに。
少しずつ当たり前になり始めている。
そんな時だった。
ピコン。
小さな電子音が鳴った。
春人は最初、自分のものだと思わなかった。
教室の中にはもっと大きな音があったからだ。
笑い声。
机を動かす音。
誰かが走る足音。
その全部に紛れてしまうくらい小さな音だった。
けれど。
数秒後。
もう一度鳴った。
ピコン。
今度ははっきり聞こえた。
ランドセルの中だった。
春人は首を傾げる。
学校のタブレットだろうか。
先生からの連絡かもしれない。
そう思いながらランドセルを開いた。
タブレットを取り出す。
画面はすでに光っていた。
「ん?」
違和感があった。
いつもの画面ではない。
白い。
真っ白な画面だった。
春人はゆっくりタブレットを持ち上げる。
そして。
息を止めた。
◇◇◇
画面の中央に、見慣れない文字が並んでいた。
丸。
線。
点。
文字のようにも見える。
記号のようにも見える。
意味は分からない。
読めない。
けれど。
見た瞬間、胸の奥がざわりとした。
その文字の上には、一行だけ日本語が表示されていた。
⸻
この声が聞こえていますか?
⸻
春人は瞬きを忘れた。
意味が分からない。
誰が送ったのかも分からない。
けれど。
どうしても目が離せなかった。
「なんだ……これ」
思わず呟く。
その声に反応したように、隣の席から蒼太が振り向いた。
「どうした?」
春人は何も言わずタブレットを向けた。
蒼太が固まる。
「は?」
本気で固まった。
教室の中は相変わらず賑やかだった。
誰かが笑っている。
誰かが廊下を走っている。
窓の外ではセミが鳴いている。
なのに。
二人だけが別のものを見ているような気がした。
「なんじゃこれ……」
蒼太が呟く。
驚きと。
興奮と。
信じられない気持ちが全部混ざった声だった。
春人も同じだった。
意味は分からない。
でも。
どこかで見た気がする。
その瞬間。
二人の頭に同じ景色が浮かんだ。
氷室だった。
ひんやりと冷えた石の部屋。
壁に刻まれていた不思議な文字。
「似てる……」
春人が呟く。
「うん」
蒼太が頷いた。
「似とる」
同じではない。
でも似ている。
不思議なくらい似ていた。
その時だった。
画面が揺れた。
水面みたいに。
ほんの一瞬だけ。
「あ」
春人が声を上げる。
次の瞬間。
文字が消えた。
日本語も。
記号も。
真っ白な画面も。
全部。
最初から存在しなかったみたいに。
そこに残っていたのは、いつもの学校の連絡画面だけだった。
「え?」
春人は慌てて画面を触る。
戻らない。
閉じる。
開く。
やっぱり戻らない。
「消えた」
「消えたな」
二人は顔を見合わせた。
「今の見たよな?」
蒼太が聞く。
「見た」
「見たよな?」
「だから見たって」
「うわぁぁぁ……」
蒼太が机へ突っ伏した。
本気で悔しそうだった。
「なんで撮らんかったんじゃ俺ぇ……」
「あ」
春人も気付いた。
スクリーンショット。
撮ればよかった。
証拠になった。
でももう遅い。
画面は元通りだった。
「スクショじゃろ!」
「今思った」
「俺も今思った!」
二人とも本気で悔しがる。
その様子が少しおかしくて、春人は思わず笑ってしまった。
◇◇◇
ふと視線を感じた。
窓際だった。
みゆがこちらを見ている。
正確には。
春人ではない。
タブレットの方を。
みゆは何か言いたそうだった。
けれど。
結局何も言わなかった。
静かに目を伏せ、本へ視線を戻す。
その様子が少しだけ気になった。
でも。
その時は、それ以上考える余裕がなかった。
頭の中はあの文字でいっぱいだったからだ。
◇◇◇
その後の授業は、正直あまり覚えていない。
先生の声は聞こえている。
ノートも取っている。
でも。
頭の片隅にはずっと、あの文字が残っていた。
読めそうで読めない。
意味がありそうなのに意味が分からない。
そして。
氷室の文字に似ていた。
それだけで十分だった。
気にならないはずがない。
休み時間になるたび、蒼太が振り返る。
「出た?」
「出てない」
また授業。
また休み時間。
「出た?」
「出てない」
蒼太は本気だった。
そして春人も、気付けば同じくらい気になっていた。
もしもう一度出たら。
今度は絶対に見逃さない。
そう思っていた。
◇◇◇
放課後。
帰りの会が終わる。
ランドセルを背負う。
教室を出る頃になっても、空はまだ高かった。
東京ならもっと夕方らしい色になっている時間なのに、この町の夏はなかなか暗くならない。
そのことにも、春人はまだ少し驚いていた。
「結城」
蒼太が駆け寄ってくる。
「ん?」
「次出たら」
真顔だった。
「絶対スクリーンショット撮れ」
春人は笑う。
「分かったって」
「絶対じゃぞ」
「分かった」
「絶対じゃ」
「しつこいな」
陸とあかりが後ろで笑っていた。
春人も笑う。
その時はまだ。
少し変わった通知くらいにしか思っていなかった。
少し気になる。
それくらいだった。
まさか。
その日の夜。
自分の部屋で。
もう一度あの文字を見ることになるなんて。
そして、その一枚のスクリーンショットが。
氷室へ続く扉を開く最初の鍵になるなんて。
春人はまだ知らなかった。
お読みいただきありがとうございます。




