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第3話 朝の音


 ミーン、ミンミンミン、ミーン。


 窓の外から聞こえてくるセミの声で、春人はゆっくりと目を覚ました。


 まだ眠気の残る頭でしばらく天井を見上げていた。

けれど、絶え間なく聞こえてくるその声は、まるで町全体が一緒になって朝を始めているみたいで、気付けば眠ろうという気持ちはどこかへ消えていた。


 薄く開いたカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。


 時計を見るとまだ七時前だったのに、部屋の中はもう十分明るくなっていて、机の上に置かれた教科書や昨日学校から持ち帰ったランドセルの輪郭までが柔らかく照らされていた。


 春人は布団の中で小さく息を吐く。


 転校して二日目の朝だった。


 昨日までは知らなかった町で迎える朝なのに、不思議とそこまで緊張しているわけではない。


 もちろん学校のことを考えると少し落ち着かないし、教室へ入る時にはまた緊張するのだろうけれど、それでも昨日の朝とはどこか違っていた。


 昨日は何もかもが初めてだった。


 知らない学校。


 知らない教室。


 知らない人たち。


 けれど今は蒼太や、クラスメイトたちの顔が浮かぶ。


 それだけのことなのに、町全体が少しだけ近くなった気がするから不思議だった。


 そして、その顔と一緒に頭へ浮かんでくるのは氷室だった。


 雑木林の奥にあった石の部屋。


 夏だというのにひんやりと冷たい空気。


 壁いっぱいに刻まれていた読めない文字。


 思い返してみると現実だったのか夢だったのか分からなくなるくらい不思議な場所だった。

けれど、視線を横へ向けるとランドセルがあり、その中には昨日学校から持ち帰ったタブレットも入っている。全部昨日の出来事だったのだと分かる。


 なぜだろう。


 昨日から少しだけ、そのタブレットのことが気になっていた。


 学校で使うための、ごく普通の端末のはずなのに、ランドセルを見るたびに氷室の壁が頭に浮かび、そのたびに胸の奥が小さくざわつく。


 もちろん気のせいだ。


 何か関係があるわけがない。


 そう思いながらも、もう一度だけランドセルへ目を向けてしまう自分がいて、春人は少しだけ苦笑しながら布団から足を下ろした。


◇◇◇


 台所へ降りると、焼きたてのトーストの匂いがふわりと漂ってきた。


 バターの溶ける香りと、少しだけ焦げたパンの匂いが混ざり合っていて、その温かな空気を吸い込んだ瞬間、ようやく春人の頭も朝へ追いついてきた気がする。


 母はもう起きていて、流し台の前で朝食の準備をしていた。


 やかんから立ち上る湯気が朝の光の中で白く揺れていて、その向こうの窓からは田んぼの景色が見えている。


「おはよう」


「おはよう」


 短いやり取りを交わしながら席へ座ると、春人は自然と窓の外へ目を向けた。


 田んぼの上を風が渡っていく。


 まだ背の低い稲が一斉に揺れ、その向こうには桃畑があり、さらにその向こうには丸みを帯びた里山が横たわっている。


 そして、その全部を包み込むように夏の空が広がっていた。


 昨日も思った。


 空が広い。


 いや、広いというより近いのかもしれない。


 東京にも空はあった。


 それなのに、この町で見上げる空はどこまでも続いているように見える。山の向こうまで抜けていく青さを眺めていると、自分まで少し遠くへ来てしまったような気分になる。


 昨夜見た星もそうだった。


 父が子どもの頃は天の川も普通に見えていたのだと話していたが、満天の星空に感動して、どれが天の川だとか考える余裕は無かった。


 今度見上げた時は、ちゃんと探してみよう。


 そんなことを考えている自分に少し驚いた。


 東京にいた頃なら、朝ごはんを食べながら星のことなんて考えなかったからだ。


 風が吹く。


 鳥が鳴く。


 セミが鳴く。


 静かなはずなのに賑やかで、この町は朝からたくさんの音で満ちていた。


「今日も暑くなりそうね」


 母が麦茶を飲みながら言うと、春人も窓の外へ目を向けたまま小さく頷く。


 まだ朝なのに日差しはもう強くなり始めていて、水の張られた田んぼの表面では無数の光が細かく揺れていた。


 その時だった。


 玄関のチャイムが鳴った。


 母が「あら」と顔を上げる。


「迎えじゃない?」


 そう言われて昨日先生が話していた集団登校のことを思い出しながら立ち上がると、母はそのまま玄関へ向かい、開いた扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「あら、ありがとうね」


「いえ」


 昨日も聞いた声だった。



「はーるとー」


 母が顔を出す。


「迎えに来てくれたわよ」


「あ、うん」


 返事をしながら玄関へ向かうと、そこには(りく)が立っていて、落ち着いた顔でこちらを見ていた。


「おはよう」


「おはよう」


 陸は軽く手を上げ、それ以上余計なことは言わずに「行こう」とだけ言った。その自然な距離感がなぜだか心地良くて、春人も素直に頷こうとしたが、ランドセルを部屋へ置いたままだったことを思い出し、慌てて引き返した。


「春人ったら」


 背中の方で母が笑う。


「慌てすぎ」


「違うんだって」


 ランドセルを掴んでそのまま玄関へ飛び出すと、陸は少し先で待っていて、急かす様子もなくこちらを振り返っただけだった。


 その姿を見ていると不思議と肩の力が抜ける。


 転校生だからと気を遣いすぎるわけでもなく、かといって放っておくわけでもない。当たり前みたいな顔で待っていてくれるから、春人も自然にその隣へ並ぶことができた。


 朝の風が制服の裾を揺らし、田んぼの上を渡ってきた匂いがふわりと鼻をくすぐる中で、転校して二日目の朝がゆっくりと動き始めていた。


◇◇◇


 家を出ると、朝の風が制服の裾をふわりと揺らしていった。


 さっきまで窓越しに眺めていた景色が今度はすぐ目の前まで広がっていて、田んぼの上を渡る風の匂いや、遠くの林から聞こえてくるセミの声までがはっきりと感じられる。


 昨日も歩いた道だった。


 けれど今日は少しだけ違って見えた。


 同じ空で、同じ田んぼで、同じ道のはずなのに、昨日より目に入るものが増えた気がする。


 陸はそんな春人の隣を、慣れた足取りで歩いていた。


 急ぐわけでもなく、かといってゆっくり過ぎるわけでもなく、毎日歩き慣れている道を当たり前みたいな顔で進んでいく。


 その後ろ姿を見ていると、こちらまで落ち着いてくるから不思議だった。


 しばらくは二人とも何も話さなかった。


 けれど、その沈黙は気まずくはない。


 田んぼの上を風が渡る音や、どこかで鳴いている鳥の声や、朝から元気なセミたちの大合唱が会話の代わりをしてくれているみたいで、それだけで十分な気がしてしまう。


 東京にいた頃なら、初めて話す相手とこんなふうに黙ったまま歩く時間は少し落ち着かなかったかもしれない。


 何か話さなきゃいけない気がして。


 何か面白いことを言わなきゃいけない気がして。


 でも陸といると、なぜだかそうならなかった。


 そんな空気の中で、陸がふいに口を開く。


「学校どうじゃった?」


 前を向いたままの声だった。


 春人は少し考える。


 緊張したし、疲れた。


 分からないことも多かった。


 でも、一番最初に浮かんだのは別のことだった。


「あー……思ったより普通だったかな」



「そうか」


 陸は小さく頷いただけだった。


 それ以上何も言わない。


 けれど、その短い返事だけで十分だった。


 朝の光を受けた稲の葉がきらりと揺れ、春人は少しだけ肩の力を抜いた。


田んぼの上を渡ってきた風が二人の間を通り過ぎる。


 しばらくは何も言わずに歩いていたけれど、不意に陸が振り向いて、少しだけ口元を緩めた。


「蒼太に捕まったじゃろ」


 春人は思わず吹き出した。


「なんで分かったの?」


「いつものことじゃけぇ」


「神代文字とか言われた」


「やっぱり」


 妙に納得した声だった。


 春人は笑う。


 昨日の蒼太の顔が頭に浮かぶ。


 氷室の壁を見上げながら、本気で神代文字だと言っていた顔。


 普通なら笑うところなのかもしれない。


 でも不思議だった。


 今思い返しても嫌な気はしない。


 むしろ少し気になっている自分がいた。


 そんな話をしているうちに、前方に子どもたちの姿が見えてきた。


 春人は少しだけ足を緩めた。


 昨日まで知らなかった町なのに。


 昨日まで知らなかった人たちなのに。


 なぜだろう。


 あの輪の中へ向かうことが、少しだけ楽しみになっている自分がいる。


 集合場所へ近付くにつれて、子どもたちの声が少しずつ大きくなってきた。


 ランドセルを背負った子どもたちが道路脇の日陰へ集まっていて、誰かが笑えば別の誰かも笑い、その声が風に乗って田んぼの上へ広がっていく。


 学年もばらばらだった。


 小さな一年生もいれば、自分より頭ひとつ大きい六年生もいる。


 それなのに、みんな当たり前みたいな顔で同じ場所へ集まっているのが春人には少し不思議だった。


 東京にいた頃も友達と学校へ行くことはあった。


 けれど、それは仲の良い数人だけだった。


 こんなふうに学年を越えて集まることはない。


 気付けば春人は足を少し緩めながら、その様子を眺めていた。


「慣れたら普通じゃで」


 隣の陸が言う。


 春人が思わず顔を上げると、陸は少しだけ笑った。


「そんなもん?」


「そんなもん」


 そう言いながら肩をすくめる。


 その様子が妙に自然で、春人もつられて笑った。


 その時だった。


「蒼太にいちゃーん!」


 元気な声が飛んだ。


 白い帽子をかぶった小さな女の子がランドセルを揺らしながら駆け寄ってくる。


 朝日を受けて跳ねるように走る姿は、まるで子犬みたいだった。


「走るなって」


 蒼太が言う。


 言いながらも少し笑っている。


 女の子はそのまま春人の前まで来ると、ぴたりと足を止めた。


 そして、じっと見上げる。


 首を傾げる。


 さらに一歩近付く。


(近い)


 春人は思わず半歩だけ後ろへ下がった。


 女の子は気にしていない。


 大きな目で春人の顔を見上げたまま、


「東京から来たん?」


と聞いてくる。


「うん」


「芸能人見たことある?」


「ない」


「ほんまに?」


「うん」


 女の子は本気で驚いた顔をした。


 どうやら期待していた答えではなかったらしい。


「昨日言よった転校生?」


「そうじゃ」


 蒼太が答える。


琴葉(ことは)


 どうやら妹らしい。


 琴葉は改めて春人の顔を見上げ、それから妙に納得したように何度か頷いた。


「ほんまにおったんじゃなぁ」


「いや、おるだろ」


 蒼太が思わず言う。


 周囲から笑い声が上がった。


 琴葉は全く悪気が無い顔で、


「だって東京の人じゃろ?」


と言う。


 その理屈はよく分からなかった。


 でも本人は大真面目らしい。


 春人が困っていると、陸が横で吹き出した。


「結城、諦め」


「何を?」


「琴葉じゃけぇ」


「説明になってない」


 また笑いが広がる。


 昨日なら戸惑っていたかもしれない。


 でも今は少し違った。


 何を言われているのかよく分からないのに、不思議と嫌な感じがしない。


 みんなが当たり前みたいに話しかけてくるからだろうか。


 そんなことを考えていると、


「お姉ちゃーん!」


 今度は別の方向から声が飛んできた。


 小さな男の子が全力で走ってくる。


「あ」


 あかりが顔を上げる。


 そして次の瞬間には腕を伸ばしていた。


「だから走ったら危ないじゃろ!」


「だってー!」


 男の子は笑いながらあかりの脇から顔を出し、そのまま春人を見る。


 一瞬だけきょとんとした。


 次の瞬間。


 目がぱっと輝く。


「あっ!」


 いかにも見つけたという顔だった。


「転校生じゃ!」


「そうだけど」


「あっ、本物じゃ!」


「だから本物って何だよ」


 春人が突っ込む。


 今度は自分でも少し笑っていた。


 男の子も嬉しそうだった。


 どうやらこの町では、転校生というだけでちょっとした有名人になるらしい。


 春人がそう思い始めた頃には、もう周りのみんなも笑っていた。


 登校班が歩き始めると、子どもたちの列は細い田んぼ道へゆっくりと伸びていった。


 一年生が前。


 高学年が後ろ。


 誰かが話し始めれば、その声が前から後ろへ流れていき、別の誰かが笑えば今度は反対側から笑い声が返ってくる。


 朝の光を受けた稲の葉が風に揺れ、その向こうではセミたちが負けじと鳴いていた。


 昨日も歩いた道だった。


 けれど今日は少し違う。


 景色が変わったわけではない。


 同じ田んぼで。


 同じ空で。


 同じ道のはずなのに、昨日よりも周りの声の方が耳へ入ってくる。


 その時だった。


「なあ!」


 元気な声と一緒に、陽向(ひなた)が急に道端へしゃがみ込んだ。


 その様子を見た瞬間、あかりが空を見上げる。


「あー……」


 何かを察したような声だった。


「また始まった」


 陸も笑っている。


 春人だけが状況を理解できず、陽向の方を見た。


 陽向は嬉しそうな顔で草むらを探っている。


 そして何かを見つけたらしく、


「おった!」


と声を上げた。


 手の中には細長い緑色の鞘が握られている。


 見たことのない草だった。


「転校生の兄ちゃん!」


 陽向が振り返る。


「ん?」


「これ知っとる?」


 春人は首を傾げた。


 知らない。


 少なくとも覚えはない。


「知らない」


 一瞬。


 陽向の動きが止まった。


 本気で驚いた顔だった。


 その横から琴葉まで飛び出してくる。


「知らんの?」


「知らない」


「マジで?」


「何が?」


 二人とも信じられないものを見る顔をしている。


 春人の方が驚いた。


「ピーピー豆じゃが!」


「ピーピー豆?」


「知らんの!?」


「だから知らないって」


 陽向はしばらく固まっていたが、やがて信じられないという顔のまま首を振った。


「東京すげぇな」


「なんでそうなるんだよ」


「ピーピー豆知らんのじゃろ」


「知らないけど」


「すげぇ」


 全然()められている気がしなかった。


 周りから笑い声が上がる。


 春人もつられて笑った。


 すると陽向は待ってましたと言わんばかりに(さや)の先を指で潰し、


「見とけよ」


と得意げに言った。


 そのまま口元へ持っていく。


 次の瞬間。


 ぷぴぃぃぃぃぃっ!!


 高く乾いた音が田んぼ道いっぱいに響いた。


「うわっ!」


 春人は思わず肩を跳ねさせる。


 近くの電線に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。


 陽向と琴葉は大喜びだった。


「びっくりしとる!」


「びっくりするじゃろ!」


「いや、するだろ!」


 二人はお腹を抱えて笑っている。


 春人も笑った。


 何がそんなに面白いのか分からない。


 でも、その笑い声を聞いていると自分まで楽しくなってくる。


 朝の風が吹く。


 田んぼが揺れる。


 子どもたちの笑い声が緑の景色の中へ広がっていく。


 その横で。


 蒼太が腕を組んだ。


「正式にはカラスノエンドウじゃ」


「あー、始まった」


 あかりが即座に言う。


 蒼太は気にしない。


「マメ科ソラマメ属」


「聞いてない」


「若い実は食べられる」


「もっと聞いてない」


 陸が真顔で返した。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間。


 どっと笑いが起きる。


 蒼太だけが少し不満そうだった。


「大事な知識じゃ」


「どこで使うん」


「あったら便利じゃ」


「絶対使わん」


 また笑い声が広がった。


 春人も声を出して笑う。


 昨日までなら。


 友達との話題はゲームだった。


 動画だった。


 新しく出たアプリだった。


 それが今日は草だった。


 道端に生えている草だった。


 意味が分からない。


 本当に意味が分からない。


 でも。


 なぜだろう。


 その意味の分からなさが、少しだけ面白かった。


 春人は前を歩く子どもたちの背中を見た。


 蒼太。


 陸。


 あかり。


 琴葉。


 陽向。


 昨日の朝は知らなかった名前ばかりだったのに、今は誰がどんな声で笑うのか少しだけ分かる。


 蒼太は興味のある話になると急に目を輝かせるし、琴葉は思ったことをそのまま口にする。陽向は面白そうなものを見つけるとすぐに立ち止まり、あかりはそんなみんなに呆れながらも結局最後まで付き合っている。


 昨日の朝は緊張していて周りを見る余裕なんて無かったのに、今日はそんなことを考えながら歩いている自分がいた。


 まだ友達と呼ぶには早いのかもしれない。


 それでも、この町が昨日より少し近くなった気がする。


 やがて校門が見えてきた。


 朝日を受けた校舎の窓が白く光り、その向こうでは低学年の子たちが校庭を横切っている。


 春人が何となくその様子を眺めていた時だった。


 一台のスクールバスが校門の横へゆっくりと入ってくる。


 白い車体が朝の光を反射しながら静かに停まり、扉が開くと冷房のひんやりとした空気がふわりと流れ出た。


 その後ろからランドセルを背負った子どもたちが次々と降りてくる。


 眠そうな顔の子もいる。


 友達と話しながら降りてくる子もいる。


 そんな子どもたちの中に、一人だけ静かな女の子がいた。


 肩にかかるくらいの黒髪はきれいな前下がりのボブで、風が吹くたびに毛先だけが小さく揺れている。


 派手なわけではない。


 目立つことをしているわけでもない。


 それなのに、不思議と目が向いた。


「みゆ」


 陸が声を掛ける。


 女の子は小さく顔を上げると、蒼太へ、あかりへ、陸へと順番に目を向けながら小さく頷いた。


 きっと毎朝繰り返している挨拶なのだろう。


 特別なことは何もしていないのに、そのやり取りにはどこか自然な温度があった。


「おはよう」


 あかりが手を振る。


 みゆも小さく手を上げる。


 その仕草は控えめなのに冷たい感じはなくて、むしろ静かな水面みたいな印象だった。


 そして、その視線が春人へ向く。


 ほんの一瞬のことだったのに、春人はなぜだか目を逸らすことができなかった。


 転校生だから見られたのだろうかと思う。


 けれど、みゆは何も言わない。ただ静かにこちらを見ているだけなのに、自分を見られているような気もするし、自分ではない何かを見られているような気もして、春人は少しだけ首を傾げた。


 その時にはもう、みゆは何事も無かったみたいに視線を外していて、まるで最初からそんなことは無かったみたいだった。


「みゆじゃ」


 蒼太が当たり前のように言う。


 みゆは小さく会釈をした。


「……おはよう」


 朝の風に溶けるような声だった。


「おはよう」


 春人も返す。


 みゆはまた小さく頷く。


 何かを話したわけでもなく、質問をされたわけでもないのに、なぜだろう、その時の感覚だけは胸の奥へ小さく残った。


 風が吹き、校庭の向こうからはセミの声が重なって聞こえてくる。


 校庭の向こうでは別の登校班が校舎へ向かって歩いている。


 いつもの朝の景色だった。


 それなのに、みゆがこちらを見た時の感覚だけは、なぜだか胸の奥から消えてくれない。


 そして、その場にいた誰も気付いていなかった。


 蒼太も、陸も、あかりも、もちろん春人自身も。


 みゆが見ていたのは春人ではなく、ランドセルの中へしまわれたままのタブレットだったことに。

お読みいただきありがとうございます。

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