第2話 秘密の場所
職員室へ入った瞬間、春人は少しだけ後悔した。
やっぱり帰りたい。
本気でそう思った。
職員室の中には先生たちが何人もいて、あちこちで電話の音が鳴り、プリンターの動く音や誰かの話し声が絶えず聞こえていて、ただそこに立っているだけなのに胸の奥がそわそわと落ち着かない。
誰も春人のことなんて見ていない。
それなのに、自分だけがひどく目立っているような気がした。
知らない場所だった。
知らない大人たちだった。
昨日まで通っていた学校とは空気そのものが違っていて、たったそれだけのことなのに、自分だけが急に別の世界へ放り込まれたような気分になる。
「おはようございます」
母が頭を下げる。
「おはようございます」
春人も慌てて続いた。
少しだけ声が裏返った気がして、余計に恥ずかしくなる。
「結城さんだね」
声を掛けてきたのは担任の先生だった。
三十代くらいの女性で、柔らかな笑顔をしている。
その顔を見て少しだけ安心する。
少なくとも怖そうな先生ではなさそうだった。
「今日からよろしくね」
「よろしくお願いします」
「緊張してる?」
「少しだけ」
本当はかなり緊張していた。
朝から何度も持ち物を確認したし、車の中でも学校のことばかり考えていた。
けれど、かなり緊張していますなんて言うのも恥ずかしくて、春人は少しだけと答える。
先生はそんな様子を見てくすりと笑った。
「大丈夫。みんな優しいから」
そう言われても、すぐには信じられなかった。
優しい子たちかもしれない。
でも、自分はその子たちのことを何も知らない。
向こうだって自分のことを知らない。
その距離が今はとても遠く感じた。
先生に案内されながら廊下を歩く。
窓の外では校庭が朝の光に照らされていて、遠くでは低学年の子どもたちが楽しそうに走り回っていた。
その姿は昨日まで通っていた学校と何も変わらないはずなのに、今の春人には妙に遠く見える。
やがて教室の前へ着いた。
扉一枚向こうから話し声が聞こえてくる。
誰かの笑い声。
机を引く音。
友達同士で話している声。
どれもごく普通の学校の音だった。
昨日までなら、自分もその中にいたはずだった。
休み時間になれば友達と話して、くだらないことで笑って、当たり前みたいに一日を過ごしていた。
でも今は違う。
この扉の向こうにいる誰も、自分のことを知らない。
自分も誰のことも知らない。
たったそれだけのことなのに、教室の向こう側が別の世界みたいに思えた。
「じゃあ行こうか」
先生が扉へ手を掛ける。
春人は無意識に息を飲んだ。
心臓がやけにうるさい。
今ならまだ逃げられるんじゃないかと一瞬だけ思ったけれど、そんなことができるはずもなかった。
扉が開く。
教室の中が静かになった。
「みんな、おはよう」
「おはようございます!」
元気な声が返ってくる。
その勢いだけで少し圧倒される。
「今日は転校生を紹介します」
一斉に視線が集まった。
春人は思わず固まる。
三十人近い視線だった。
もし今この場で消えられるなら消えたい。
机の下でもいい。
黒板の裏でもいい。
とにかく一回隠れたい。
けれど現実はそんなに優しくない。
全員がこちらを見ている。
逃げ場はなかった。
「どうぞ」
先生に促されて前へ出る。
喉が少し渇いていた。
「結城春人です」
声がちゃんと出ているか自信がない。
「東京から来ました」
何を言えばいいのか分からない。
本当は好きなこととか趣味とか言った方がいいのかもしれない。
でも頭の中が真っ白で何も浮かばなかった。
「よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。
一瞬だけ静かになる。
春人はその沈黙がやけに長く感じた。
けれど次の瞬間、
「よろしくー!」
という声が飛び、続いて何人かが笑顔で手を振った。
その空気が思っていたよりずっと柔らかくて、春人はようやく肩の力を抜く。
怖くなかった。
少なくとも想像していたよりはずっと。
先生はそんな春人を見て笑った。
「じゃあ結城さんはあの席ね」
案内された席は教室の真ん中あたりだった。
ランドセルを下ろし、椅子へ座る。
その瞬間、ようやく息ができた気がした。
何となく窓の外を見る。
校庭の向こうには丸い山が見えていた。
昨日見た山だった。
知らないものばかりの中で、その景色だけは昨日と変わらずそこにあって、春人は少しだけ安心した。
◇◇◇
昼休みになると、さっきまで授業を受けていた教室は一気に賑やかになった。
椅子を引く音がして、誰かが立ち上がり、別の誰かが友達の席へ移動していく。給食を食べ終えた子どもたちは思い思いに話し始め、教室のあちこちで笑い声が上がっていた。
春人が水筒を手にした頃には、もう何人もの子どもたちが机の周りへ集まっている。
「東京って芸能人おるん?」
「知らない」
「見たことないん?」
「ない」
「マジで?」
「マジで」
「じゃあネズミーランド近い?」
「そんな近くない」
「えー」
なぜか残念そうな声が上がる。
春人にはその反応の方が不思議だった。
質問はその後も次から次へ飛んできた。
東京の学校はどんな感じなのかとか、電車には毎日乗るのかとか、好きなゲームは何なのかとか、休みの日は何をしていたのかとか、気付けば質問大会みたいになっていて、最初は緊張していた春人も、何度も答えているうちに少しずつ肩の力が抜けていく。
思っていたより普通だった。
もっとよそ者みたいに扱われるのかと思っていたけれど、実際は少し珍しい転校生として興味を持たれているだけらしい。
それが何だか少し可笑しかった。
ようやく人が減り始めた頃だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、教室の後ろの方にいた男子がこちらを見ていた。
話しかけてくるわけでもない。
笑うわけでもない。
ただ何かを確かめるみたいな目でじっとこちらを観察している。
少し寝癖の残った黒髪に真面目そうな顔をした男子だったが、その視線だけが妙に真剣で、春人は思わず首を傾げた。
「なに?」
そう聞くと、男子は迷う様子もなく近付いてきて、
「神代文字って知っとる?」
と真顔で言った。
春人は一瞬言葉を失う。
転校初日の昼休みである。
普通なら好きなゲームとか、どこから来たのかとか、そういう話になるものだと思っていた。
なぜそこで神代文字なのか。
本当に意味が分からない。
「何それ?」
と聞き返すと、男子はなぜか満足そうに頷いた。
「やっぱり知らんか」
「いや、知らないって言ったじゃん」
「そうじゃろうな」
「だから何なんだよ」
男子は少し考えるような顔をしたあと、
「俺、蒼太」
と言った。
「あ、結城春人」
「知っとる」
「そりゃそうだろ」
今日自己紹介したばかりなのだから当然である。
春人が思わず突っ込むと、周りで話を聞いていた何人かが吹き出した。
けれど蒼太本人は全く気にしていない。
むしろ今ようやく本題へ入れるとでも思っているような顔だった。
「で、神代文字なんじゃけど」
「まだ続くの?」
「続く」
あまりにも迷いのない即答だった。
春人は思わず笑ってしまう。
変なやつだなと思う。
でも嫌な感じはしなかった。
むしろ、自分が面白いと思ったことを全力で話そうとしているのが分かるから、少しだけ興味が湧いてしまう。
「何なん、その神代文字って」
そう聞いた瞬間、蒼太の目が少しだけ輝いた。
今までより明らかに輝いた。
たぶん好きな話題なのだろう。
それが一瞬で分かるくらい分かりやすかった。
「昔の文字じゃ」
「昔?」
「めちゃくちゃ昔」
「説明雑だな」
「日本ができる前くらい」
「もっと雑になった」
春人がそう言うと、周囲からまた笑い声が上がった。
けれど蒼太は真面目な顔のままだった。
冗談を言っている顔ではない。
本気で言っている。
だから余計に困る。
「信じてないじゃろ」
「いや、まあ……」
「じゃろうな」
蒼太はなぜか満足そうだった。
信じてもらえなくても気にしていないらしい。
それどころか、その反応まで予想していたような顔をしている。
そして少しだけ身を乗り出した。
「放課後、時間ある?」
「あるけど」
「じゃあ見せてやる」
「何を?」
蒼太はここまでずっと真面目な顔をしていたくせに、その時だけ少し得意そうに笑った。
「秘密の場所じゃ」
春人は嫌な予感しかしなかった。
秘密の場所という時点で怪しい。
神代文字という単語が出ている時点でさらに怪しい。
たぶん普通なら断るべきなのだと思う。
けれど不思議だった。
その怪しさが少しだけ気になってしまう。
東京にいた頃なら、こんな誘いに乗っただろうかと考える。
たぶん乗らなかった。
でも今は知らない町にいて、知らない学校にいて、昨日まで見たこともなかった景色の中にいる。
だからだろうか。
ほんの少しだけ、その秘密の場所とやらを見てみたいと思ってしまった。
◇◇◇
五時間目が終わって帰りの会が始まる頃には、春人もようやく教室の空気に少し慣れてきていた。
もちろん、まだ全員の名前を覚えたわけではない。
話したことのない子だってたくさんいる。
それでも朝のような居心地の悪さはもう無かった。
先生の話を聞きながらも、頭の片隅では昼休みのことを思い出してしまう。
神代文字。
秘密の場所。
日本ができる前の文字。
どれもこれも怪しい話だった。
普通なら信じない。
いや、今だって信じているわけではない。
それなのに、蒼太のあの自信満々な顔を思い出すと、少しだけ気になってしまうから不思議だった。
授業が終わり、ランドセルへ教科書をしまっていた時だった。
「結城さん、ちょっといい?」
先生が声を掛けてくる。
春人は返事をしながら立ち上がった。
何か忘れ物でもしただろうかと思ったが、先生はそのまま職員室の方へ歩いていく。
春人も慌てて後を追った。
昼間より少し静かになった職員室へ入ると、先生は一つの机の前で立ち止まる。
その上には黒いケースと、一台のタブレットが置かれていた。
「あ、そうだそうだ」
先生は思い出したように頷いた。
「まだ渡してなかったね」
どうやら自分の用事だったらしい。
春人は少しだけ肩の力を抜いた。
「学校で使う端末ね」
先生が紙を取り出す。
「これがログインIDで、こっちがパスワード」
「はい」
「最初に設定だけ済ませておこうか」
春人は言われた通りにタブレットの電源を入れた。
画面が明るく光る。
キーボードが表示される。
IDを入力する。
パスワードを入力する。
ログイン。
画面が切り替わった。
時間割。
連絡帳。
宿題の確認。
授業で使うアプリ。
表示されたのはごく普通の学校用端末だった。
東京の学校で使っていたものと大きくは変わらない。
「大丈夫そう?」
先生が覗き込む。
「はい」
「困ったことがあったら聞いてね」
「分かりました」
春人は頷きながらタブレットをケースへ戻した。
その時は本当に何も思わなかった。
ただ、新しい学校で使う道具が一つ増えた。
それくらいの感覚だった。
まさか、そのタブレットへ翌日の夜、見たこともない文字が現れることになるなんて想像もしていない。
まして、その文字が氷室の壁に刻まれていたものと深く関わっているかもしれないなどと、この時の春人は考えもしなかった。
ランドセルへタブレットをしまい、職員室を出る。
廊下の窓からはまだ勢いの残る夏の日差しが差し込んでいて、校庭の向こうに見える田んぼは白く光り、帰宅する子どもたちの声が明るい廊下まで届いていた。
もうすぐ帰れる。
そう思いながら昇降口へ向かっていると、
「おった」
という声が聞こえた。
振り返る。
そこには蒼太が立っていた。
まるで逃がす気が無いみたいな顔で。
◇◇◇
昇降口を出たところで蒼太に捕まった春人は、そのまま半ば強制的に学校を出ることになった。
「本当に行くの?」
と聞いてみたものの、
「行く」
と返ってきただけで、その返事には少しも迷いが無かった。
まるで最初から春人が来ることまで決まっていたみたいな口ぶりだった。
「いや、俺まだ行くって言ってないんだけど」
「じゃけぇ今から行くんじゃろ」
「なんで確定してるんだよ」
「来んかったら説明できんし」
蒼太は当然みたいな顔をしている。
春人は少しだけ空を見上げた。
話が通じているようで通じていない。
でも本人には悪気が無いらしいことだけは分かる。
結局そのまま歩き始めるしかなかった。
学校を離れると、住宅が並ぶ道は少しずつ細くなり、やがて田んぼの広がる農道へ変わっていく。
午後の光を受けた稲の葉は風が吹くたびに波みたいに揺れていて、その向こうには丸い山々が連なっていた。
東京では放課後といえば家や店や道路ばかりだった。
けれどここでは視界のほとんどが緑で埋まっていて、見上げれば空ばかりが広がっている。
昨日も思ったことだった。
空が近い。
やっぱり近い。
歩きながら見上げると、雲がゆっくり流れていく様子までよく見えた。
「なあ」
前を歩いていた蒼太が振り返る。
「神代文字、本当に知らん?」
「だから知らないって」
「そっか」
蒼太は少し残念そうだった。
まるで知っていて当然だと思っていたみたいな反応だった。
「逆に聞くけど、みんな知ってるものなの?」
「知らん」
「知らないのかよ」
「じゃけど俺は知っとる」
その自信はどこから来るのだろう。
春人は思わず笑ってしまった。
昼休みから思っていたことだが、蒼太は少し変わっている。
いや、少しではないかもしれない。
それでも一緒にいて退屈しないのは確かだった。
しばらく歩いていると、家の数が少しずつ減っていく。
代わりに畑や田んぼが増え、その間を縫うように細い道が続いていた。
遠くでは軽トラックが走っている。
どこかの畑では農作業をしている人の姿も見えた。
見慣れない景色ばかりなのに、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ探検をしているみたいで少し楽しかった。
「まだ?」
春人が聞く。
「もうすぐ」
蒼太が答える。
五分後。
「まだ?」
「もうすぐ」
十分後。
「まだ?」
「もうすぐ」
「そのもうすぐ、まったく信用できない」
春人が呆れたように言うと、蒼太は少しだけ考えたあと、
「あとちょっと」
と言った。
「同じじゃないか」
思わず突っ込む。
蒼太は真面目な顔だった。
本当に同じだと思っていないらしい。
そんなやり取りをしているうちに、いつの間にか二人は集落の外れまで来ていた。
道路の脇には背の高い木々が並び、その奥には小さな雑木林が広がっている。
午後の光はまだ残っているはずなのに、木々の下だけは少し薄暗く見えた。
蒼太が立ち止まる。
「ここ」
そう言って雑木林の方を指差した。
春人は思わず眉をひそめる。
「いや、森だけど」
「森じゃな」
「秘密の場所どこ?」
「この中」
蒼太はそう言うと迷いなく雑木林の中へ入っていく。
春人は一瞬だけ立ち止まった。
知らない場所だった。
少し暗い。
虫の声も近い。
普通ならやめておこうと思うような場所だった。
けれど、ここまで来てしまった以上、今さら引き返すのも何だか負けた気がする。
それに。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけだったが、胸の奥がわくわくしている自分にも気付いていた。
秘密の場所。
神代文字。
意味の分からない話ばかりだった。
それなのに、その先に何があるのかだけは少し見てみたい。
春人は小さく息を吐くと、
「待てよ」
と言いながら蒼太の後を追いかけた。
◇◇◇
雑木林の中へ入ると、外の暑さが少しだけ遠くなった。
頭の上ではまだセミが鳴いているはずなのに、木々が音を吸い込んでしまうのか、その声もどこか柔らかく聞こえる。
地面には落ち葉が積もっていて、踏むたびにかさりと小さな音がして、その音だけが妙に耳へ残った。
春人は蒼太の背中を追いかけながら辺りを見回す。
秘密の場所なんて言うから、もっと分かりやすく何かがあるのかと思っていたけれど、見えるのは木々と草ばかりで、ぱっと見た限りではどこにでもありそうな雑木林にしか見えない。それなのに蒼太は迷う様子もなく先へ進んでいくから、本当に何かあるのだろうかという気持ちと、騙されているんじゃないかという気持ちが半分ずつくらいだった。
「本当にこっちなの?」
思わず聞くと、
「こっちじゃ」
蒼太は振り返りもせずに答える。
その返事は相変わらず短かったが、不思議なくらい迷いが無かった。まるで毎日通っている道みたいな足取りで歩いていくものだから、春人も文句を言いながら結局その後を追いかけてしまう。
しばらく進むと、木々の向こうが少しだけ開けている場所へ出た。
その瞬間、春人は何となく足を止める。
最初は何が違うのか分からなかった。
ただ、景色のどこかに小さな違和感があって、それが妙に気になったのだ。
木々の隙間に、大きな石が見えていた。
いや、石というより壁だった。
地面から突き出しているその石は妙に四角く、表面も不自然なくらい平らで、山の中で見かける岩とはどこか違う。
春人は知らず知らずのうちにその石へ近付いていた。
近付けば近付くほど違和感は大きくなる。
苔に覆われているし古びてもいるのに、その形だけは妙にはっきりしていて、まるで誰かがそこへ置いたみたいだった。
「な?」
蒼太が少し得意そうに言う。
春人は返事も忘れて石を見上げる。
ただの石なのに妙に気になる。
理由は分からない。
でも、そこだけ周りの景色から切り取られているみたいで、自然と目が吸い寄せられてしまう。
さらに近付いてみると、石と石の間に不自然な隙間があることに気付いた。
最初は影だと思った。
けれど違う。
そこには奥へ続く暗い空間があった。
人が一人なら十分通れそうな幅があり、その向こうには薄暗い通路のようなものが続いている。
「え……」
思わず声が漏れる。
こんな場所があるなんて思わなかった。
学校からそれほど離れていない場所に、こんなものが隠れていたなんて想像もしなかった。
胸の奥が少しだけ高鳴る。
怖いわけではない。
むしろ逆だった。
誰にも教えられていない秘密を見つけてしまったような気分になって、春人は入口を覗き込んだ。
その奥から流れてくる空気は驚くほど冷たかった。
午後の暑さの残る外とはまるで別世界で、頬を撫でる風は冷蔵庫を開けた時みたいにひんやりとしている。
「冷たっ」
思わず言うと、
「じゃろ」
蒼太が嬉しそうに笑った。
「夏でもずっとこんななの?」
「こんなん」
「すごいな」
「天然エアコンじゃ」
その言い方が少し面白くて、春人は笑う。
そして改めて入口を見つめた。
入ってみたい。
そんな気持ちが少しずつ大きくなっていく。
知らない場所だった。
何があるのかも分からない。
それなのに、今は不安より好奇心の方がずっと大きかった。
蒼太は当たり前みたいな顔で入口をくぐっていく。
春人も慌ててその後を追った。
中へ入った瞬間、空気が変わった気がした。
外の熱気が嘘みたいに遠のき、ひんやりとした空気が全身を包み込む。少し湿った土の匂いと石の匂いが混ざり合い、さっきまでいた雑木林とはまるで別の場所へ迷い込んだみたいだった。
「うわぁ……」
自然と声が漏れる。
壁も床も天井も石でできていて、薄暗い空間は思っていたよりずっと広かった。
最初に頭へ浮かんだのは秘密基地という言葉だったが、それだけでは足りない気もする。
もっと古くて。
もっと長くて。
誰かがずっと昔に作って、そのまま時間だけが積み重なっていったような空気が、この場所には確かに残っていた。
春人はゆっくり辺りを見回した。
積み上げられた石。
冷たい壁。
薄暗い通路。
どこを見ても普段の生活では見ないものばかりだった。
こんな場所が本当にあるんだ。
そんな驚きと一緒に、胸の奥ではわくわくした気持ちがどんどん大きくなっていく。
「こっち」
蒼太が壁の方を指差した。
春人はそちらへ近付く。
最初はただの石壁にしか見えなかった。
けれど近付くにつれて違和感に気付く。
石の表面に何かが刻まれている。
傷ではない。
ひびでもない。
誰かが意図して刻んだような線だった。
曲がった線。
丸い形。
複雑に交差する模様。
文字のようにも見えるし絵のようにも見える。
けれど、そのどちらとも違う気がした。
「何これ……」
春人は思わず壁へ顔を近付けた。
意味は分からない。
読めるわけでもない。
それなのに不思議だった。
ただの落書きには見えない。
誰かが何かを伝えようとして残したもののように思えて、気付けば春人は夢中になってその模様を見つめていた。
「じゃろ」
蒼太の声が少しだけ弾む。
「俺、これが神代文字じゃと思うんよ」
昼休みに聞いた時は半分冗談みたいに思っていた。
けれど今は少し違う。
もちろん本当に神代文字なのかは分からない。
ただ、この場所と、この壁と、この不思議な模様を目の前にすると、蒼太がそう言いたくなる気持ちだけは少し分かる気がした。
氷室の中は静かだった。
外ではあれほど鳴いていたセミの声も石の壁に遮られてほとんど聞こえず、耳に届くのは自分たちの呼吸と、どこかで落ちる水滴の音だけだった。
そして、その静かな石室の中で、春人はまだ知らなかった。
ランドセルの中にしまったばかりのタブレットに、翌日の夜、この壁の文字とよく似たものが現れることも、何かがほんの少しだけ動き始めていたことも。
お読みいただきありがとうございます。




