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第1話 空が近い町

それは、あの不思議なメッセージが届く前の日のことだった。


 春人(はると)はまだ知らない。


 翌日の夜、自分のタブレットへ奇妙な文字が現れることも。


 遠い昔から届き続けていた声が、自分へ向けられることも。


 もちろん、この町に眠る秘密のことも。


 何ひとつ知らなかった。


 高速道路を降りると、窓の外の景色が少しずつ変わり始めた。


 見慣れたビルは姿を消し、その代わりに田んぼや畑が増えていく。


 さらにその向こうには、小さな山がいくつも並んでいた。


 ぽこん。


 ぽこん。


 ぽこん。


 思わずそんな音を付けたくなるくらい、その山はきれいに丸かった。


「なんか変な山だな」


 春人が呟くと、運転席のお父さんが小さく笑う。


「変か?」


「だって丸いじゃん」


「昔からこんなもんじゃ」


 その言葉に春人は少しだけ顔を上げた。


 東京にいた頃のお父さんは、あまり方言を使わなかったはずだ。


 けれど、この町へ入ってからは違う。


 言葉の端々に聞き慣れない響きが混ざっていて、まるでお父さんまで少し違う人になったみたいだった。


「へえ」


 もう一度窓の外を見る。


 やっぱり丸い。


 不思議なくらい丸い。


 けれど、気になったのは山だけではなかった。


 空も違った。


 広いというより近い。


 白い雲がゆっくり流れていて、同じ空のはずなのに昨日まで見ていた東京の空よりずっと近くにある気がする。


 手を伸ばせば届きそうなくらい近いわけではない。


 でも、どこか近い。


 うまく説明はできないけれど、そんな感覚だった。


 春人は窓へ額を寄せながら、流れていく空を見上げる。


 綺麗だと思う。


 たぶん、この町は悪くない。


 でも――。


 それとこれとは話が別だった。


 膝の上のスマホへ目を落とす。


 昨日まで通っていた学校のグループチャットが開いたままになっていた。


 最後に届いたメッセージが残っている。


――――――


 またゲームしような


 絶対だぞ


 中学行っても忘れんなよ


 卒業式、来れるなら来いよ


――――――


 何度も見た。


 返事もした。


 それでもまた開いてしまう。


 画面を閉じても、みんなの顔が浮かんでくるからだ。


 休み時間に騒いでいた教室。


 放課後のゲーム。


 くだらないことで笑った帰り道。


 昨日までは当たり前だった。


 明日も続くと思っていた。


 中学校へ行っても、きっと同じように会うのだと思っていた。


 それなのに今は、知らない景色が車の窓の向こうを流れている。


 置いてきたわけじゃないし、みんなだってそう思っていない。


 それでも、自分だけが途中で列を離れることになったような気がしていた。


「春人?」


 お母さんが振り返る。


「なに?」


「大丈夫?」


「別に」


 春人はそう答えた。


 大丈夫じゃない。


 でも、そう答えるしかなかった。


 自分でも、この気持ちをどう説明したらいいのか分からなかったからだ。


 窓の外では白い雲が流れていく。


 車は止まらない。


 前へ前へと進んでいく。


 まるで春人の気持ちだけを置いていくみたいに。


 やがて車は細い道へ入った。


 田んぼ。


 畑。


 古い家。


 神社の森。


 見たことのない景色が続いている。


 お父さんは窓の外を見ながら、


「あそこは昔よう遊んだんじゃ」


とか、


「この辺は変わっとらんなぁ」


とか、


懐かしそうに呟いていた。


 春人には全部初めて見る景色だった。


 それでも、その声を聞いていると、お父さんが本当にこの町で育ったのだということが少しだけ実感できる。


「着いたぞ」


 その声に顔を上げる。


 車はゆっくりと止まり、目の前には木造の家が建っていた。


 古い家だった。


 けれど屋根も窓も綺麗になっていて、どこか大事にされてきたことが分かる家だった。


「ここ?」


「ここじゃ」


「マジで?」


「マジじゃ」


 お父さんは笑う。


「俺が育った家じゃけぇな」


 春人はもう一度家を見上げた。


 お父さんにも子どもの頃があった。


 当たり前のことなのに、なぜだか少し不思議な気分になる。


 そして、その時にはまだ知らなかった。


 この家で過ごす最初の夜に、自分の人生を少しだけ変えることになる出来事が待っていることを。


荷物を運び込んでいるうちに、気付けば夕方になっていた。


 段ボールの山はまだ半分以上残っている。


 台所も。


 居間も。


 春人の部屋も。


 どこを見ても片付いたとは言い難かったけれど、それでも朝よりはずっと家らしくなっていた。


「ちょっと休憩してくる」


 春人が言うと、


「遠う行くなよー」


と、お父さんの声が返ってくる。


 その声を背中で聞きながら縁側へ出ると、木の床はほんの少しひんやりとしていて、昼間の暑さが嘘みたいだった。


 庭の向こうには畑が見える。


 その先には田んぼが広がり、さらにその向こうには丸い山が並んでいた。


 昼間に見た時と同じ景色のはずなのに、夕方の光の中で見ると少し違って見える。


 西へ傾き始めた陽の光が山の輪郭を柔らかく照らしていて、田んぼの水面には空の色が映り込んでいた。


「……静かだな」


 思わず呟く。


 けれど、そう言った瞬間に少し違う気もした。


 本当に静かなのだろうか。


 耳を澄ませてみる。


 すると風が葉を揺らす音が聞こえた。


 どこかで鳥が鳴いている。


 遠くでは犬の声も聞こえる。


 さらに耳を澄ませると、田んぼの方からカエルの声まで聞こえてきた。


 何も無いわけじゃない。


 むしろ東京にいた頃より、聞こえる音は多いのかもしれない。


 ただ、その一つ一つが小さいだけだ。


 だから気付かなかったのだろう。


 そんなことを考えていた時だった。


 カナカナカナカナ――。


 ひぐらしの声が聞こえてきた。


 春人は顔を上げる。


 東京でも聞いたことはある。


 けれど、こんなにはっきり聞いたことはなかった。


 山の方から響いてくるその声は、まるで夕暮れそのものが鳴いているみたいで、気付けば春人はしばらく黙ったまま聞き入っていた。


 その時だった。


 ピンポーン。


 玄関のチャイムが鳴る。


 春人は振り返った。


「はーい」


 家の中からお母さんの声が聞こえる。


 しばらくして、


「あらあら、ありがとうございます」


という声が続いた。


 誰だろう。


 少し気になった春人は立ち上がり、そのまま玄関の方へ向かう。


 そこには見知らぬ女性が立っていた。


 しかも両手いっぱいに野菜を抱えている。


「この子かぁ」


 女性は春人を見るなり嬉しそうに笑った。


「え?」


 春人が戸惑っていると、


隆晴(たかはる)くんの息子さんじゃろ?」


と言う。


 隆晴というのは父の名前だった。


「はい」


 そう答えると、女性は何度も頷いた。


「大きゅうなったなぁ」


 春人は困った。


 絶対に初対面だった。


 どう考えても初対面だった。


 それなのに大きくなったと言われている。


「いや、初めましてなんですけど……」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間。


 女性は声を上げて笑った。


「そりゃそうじゃろうなぁ!」


 その笑い声に合わせるように、奥から父が顔を出した。


「田中さん!」


「隆晴くんか! 久しぶりじゃなぁ!」


 二人はすぐに話し始める。


 どうやら昔からの知り合いらしかった。


「元気にしとったん?」


「まあ、なんとか」


「戻って来るいう話は聞いとったんじゃけどなぁ」


「やっとじゃ」


 お父さんは少し照れくさそうに頭をかいた。


 その間にも田中さんは次々と袋を差し出してくる。


「これ、うちで採れたキュウリじゃ」


「ありがとうございます」


「桃も持ってきたけぇ」


「えっ、こんなに?」


「遠慮せんでええんよ」


 袋が一つ増える。


 さらにもう一つ増える。


 春人はただ見ていることしかできなかった。


 まだこちらは挨拶にも行っていない。


 名前だってほとんど知らない。


 それなのに向こうからやって来て、野菜や果物を置いていく。


 しかも、それが特別なことではないみたいな顔をしている。


「何か困ったことがあったら言うてな」


「はい」


「近所じゃけぇ」


 田中さんは当たり前みたいにそう言った。


 春人は思わず父の顔を見る。


 本当に普通なのだろうか。


 東京では見たことがない光景だった。


 少し不思議で。


 少し戸惑って。


 でも、なぜだろう。


 悪い気はしなかった。


田中さんが帰ったあとも、玄関にはキュウリと桃が並んでいた。


「歓迎されとるな」


 父が笑う。


「普通なの?」


「この辺じゃ普通じゃな」


「普通なんだ……」


 春人は改めて桃を見た。


 まだこちらは挨拶にも行っていないし、名前だってほとんど知らない。それなのに向こうからやって来て野菜や果物を置いていき、困ったことがあったら声を掛けてくれと言うのだから不思議だった。


 都会ではあまり見たことのない距離感だった。


 少し不思議で、少し面倒そうで、それでもほんの少しだけ嬉しい気持ちになる。


 夕食の後、お母さんが冷蔵庫から昼間にもらった桃を取り出した。


「せっかくだから食べてみましょうか」


 そう言いながら包丁を入れると、果汁がじわりとにじみ、その瞬間に甘い香りが食卓へふわりと広がる。


 春人は思わず顔を上げた。


 桃ってこんな匂いだっただろうか。


 まだ食べてもいないのに、部屋の空気まで少し甘くなったような気がする。


 皿へ並べられた桃はつやつやと光っていて、スーパーで見慣れていた桃よりもずっと瑞々しく見えた。


 一切れ口へ運ぶ。


 その瞬間、思わず動きが止まった。


 甘かった。


 ただ甘いというより、果汁と一緒に桃の香りまで口いっぱいへ広がってきて、噛むたびにその甘さが増していく。


「なにこれ」


 思わずそんな言葉が漏れる。


「桃じゃ」


 父は当然みたいな顔で答えた。


「いや、桃だけど」


 春人はもう一切れ食べる。


 やっぱり甘い。


 もう一切れ食べる。


 やっぱり甘い。


「缶詰みたい」


 そう言うと、父と母が顔を見合わせて笑った。


「それ褒めとるんか?」


「だって本当に甘いし」


 東京で食べていた桃も嫌いではなかった。


 けれど、こんな味だっただろうかと思う。


 気付けば皿の桃はずいぶん減っていて、春人自身もそれだけ夢中で食べていたことにようやく気付いた。


 父はそんな様子を見ながら楽しそうに笑っている。


「気に入ったみたいじゃな」


「まあ、うん」


 少し照れくさくなりながら答えると、父はますます嬉しそうだった。


 その夜。


 ようやく自分の部屋らしくなった部屋で、春人はベッドへ寝転がった。


 段ボールはまだ残っているし、机の上も完全には片付いていない。それでも今日からここが自分の部屋なのだと思うと、少しだけ不思議な気分になる。


 窓の外からは虫の声が聞こえていた。


 カエルも鳴いている。


 東京ではあまり聞かなかった音ばかりだった。


「田舎だなぁ……」


 思わず呟く。


 でも嫌ではなかった。


 むしろ耳を澄ませていると、その音に包まれているような気さえする。


 春人はスマホを開いた。


 まず確認するのはWi-Fiだ。


 接続中の表示を見た瞬間、思わず小さくガッツポーズが出る。


「よし」


 動画も見られる。


 ゲームもできる。


 友達とも連絡が取れる。


 引っ越しても世界との繋がりは切れていないのだと思うと、それだけで少し安心できた。


 その時だった。


 スマホが震える。


 前の学校の友達からだった。


――――――


 どうよ岡山


――――――


 春人は少し考えた。


 今日見た景色を思い出す。


 丸い山。


 広い空。


 流れる雲。


 縁側で聞いたひぐらし。


 玄関に並んだキュウリと桃。


 その全部を一言で説明するのは難しかったけれど、なぜだか頭に残っている言葉が一つだけあった。


――――――


 空が近い


――――――


 送信。


 数秒後。


――――――


 意味わからん


――――――


「だよな」


 春人は思わず吹き出した。


 自分でも上手く説明できない。


 でも本当にそう思ったのだ。


 空が近い。


 変な感想だと思う。


 それなのに今日一日を振り返ると、その言葉が一番しっくりくる。


 そして気付く。


 今日初めて、心から笑った気がした。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 この町が嫌いじゃないと思い始めていた。


◇◇◇


 翌朝、目が覚めた瞬間に春人の胃が少し痛くなった。


「……今日か」


 転校初日。


 その事実を思い出しただけで緊張する。


 顔を洗い、朝ご飯を食べ、持ち物を確認し、もう一回確認して、さらに確認したところで母に呆れたような顔をされた。


「春人」


「なに」


「それ三回目」


「いや、でも」


「大丈夫よ」


 そう言われても不安は消えない。


 知らない学校で、知らない先生がいて、知らないクラスメイトがいて、自分だけがその中へ飛び込んでいくのだから緊張しない方がおかしいと思う。


 昨日まで当たり前だったものが全部無くなっている気がして、それが少し怖かった。


「そろそろ行くわよ」


 母の声に頷きながらランドセルを背負う。


 玄関を出ると朝の空気は少しひんやりしていて、見上げた空には白い雲がゆっくり流れていた。


 空は今日も近い。


 昨日と同じはずなのに、なぜだか少しだけ心強く見えた。


 車へ乗り込み、シートベルトを締める。


 学校まではそれほど遠くない。


 それなのに春人には妙に長く感じられた。


 窓の外の景色を見ても頭の中は学校のことでいっぱいで、どんな先生だろうとか、どんなクラスだろうとか、ちゃんと話せるだろうかとか、友達はできるだろうかとか、そんなことばかり考えてしまう。


「そんなに緊張してるの?」


 運転しながら母が笑う。


「してない」


「してる顔してるわよ」


 図星だった。


 春人は返事をしない。


 やがて車が速度を落とし、校門が見え、校庭が見え、その向こうに校舎が見えた。


「着いたわよ」


「……うん」


 返事をしたつもりだった。


 けれど自分でも分かるくらい声が小さい。


 母と一緒に職員室へ向かう。


 廊下には知らない先生たちがいて、知らない子どもたちがいて、みんな普通に歩いているだけなのに自分だけが場違いな気がした。


 職員室の前で立ち止まる。


 胸がどくどくと鳴っている。


「大丈夫」


 母が小さく肩を叩いた。


 春人は深呼吸をする。


 そして顔を上げた。


(よし)


(行くしかない)


 その言葉は誰に聞かせるでもなく、自分自身への応援だった。


 母が職員室の扉を開く。


「失礼します」


 その瞬間、春人の新しい学校生活が始まった。


お読みいただきありがとうございます。

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