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第56話 つながなきゃ


 氷室の中は静かだった。


 石の壁から流れてくる冷たい空気が、火照った頬に心地いい。


 さっきまで山道を走っていたせいで、春人の背中にはまだ汗が残っていた。


 外ではセミが鳴いているはずなのに。


 ここへ入ると、その声はずっと遠くなる。


 聞こえるのは自分たちの呼吸と、どこかで落ちる水滴の音だけだった。


「氷色!」


 蒼太が真っ先に叫ぶ。


 声が石壁に反響した。


 少し遅れて、


「蒼太、うるさい」


 あかりが言う。


「急いどるんじゃ」


「だからって大声出さんでもええじゃろ」


「出るもんは出る」


「何その理屈」


 いつものやり取りだった。


 けれど。


 春人は周囲を見回す。


 氷色の姿が見えなかった。


「あれ」


 みゆも気付いたらしい。


「おらん」


 少しだけ不安になる。


 今までなら、春人たちが来ると氷色はすぐ現れた。


 気付いたらそこにいる。


 そんな感じだった。


「氷色?」


 春人が呼ぶ。


 静かな氷室に声だけが広がった。


 返事はない。


 その時だった。


 奥の方から、小さな足音が聞こえた。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 五人が同時に振り向く。


 石柱の向こうから、白い姿が現れた。


 氷色だった。


 けれど。


 どこか様子が違った。


 春人は思わず眉をひそめる。


 氷色はいつもよりずっと静かだった。


 こちらへ歩いて来る。


 けれど目が合わない。


 何かを考え込んでいるみたいだった。


「氷色?」


 みゆが呼ぶ。


 氷色はそこでようやく顔を上げた。


「きた」


 小さく言う。


 けれど。


 その声にも、いつものふわふわした感じがなかった。


 蒼太が一歩前へ出る。


「見てほしいもんがある」


 そう言って春人を見る。


 春人は頷いた。


 タブレットを取り出す。


 画面はまだ消えていなかった。


 山で現れた文字が、そのまま残っている。


「これ」


 春人は氷色へ向けた。


 氷色の視線が画面へ落ちる。


 その瞬間だった。


 氷色が動きを止めた。


 まるで時間が止まったみたいだった。


 誰も喋らない。


 氷室の空気まで静かになった気がした。


 氷色は画面を見つめている。


【私たちの声は】


【もう遠く】


【なっています】


【道が開いているのは】


【今だけです】


 長い沈黙だった。


 春人は思わず息を止める。


 知っているのだろうか。


 思い出したのだろうか。


 それとも。


 氷色の唇が、かすかに動いた。


「みち」


 五人が顔を上げる。


 蒼太が反射的に叫んだ。


「知っとるん!?」


 氷色は返事をしない。


 画面を見たままだった。


 その表情は苦しそうにも見える。


 けれど。


 悲しいのとも違った。


 何かを必死に掴もうとしているみたいだった。


「ひいろ?」


 みゆがそっと呼ぶ。


 氷色は額へ手を当てる。


「しってる」


 小さな声だった。


「でも」


 言葉が途切れる。


 そして。


「おもいだせない」


 そう言った。


 蒼太が悔しそうな顔をする。


 あかりも息を吐いた。


 けれど春人は目を離せなかった。


 氷色はまだ画面を見ている。


 何かがおかしい。


 そう思った。


 氷色の視線は文字ではなく。


 もっと遠くを見ているような気がした。


 その時だった。


 氷色がぽつりと呟いた。


「つながなきゃ」


 誰も動かなかった。


「え?」


 陸が聞き返す。


 氷色は答えない。


 ただ同じ言葉を繰り返した。


「つながなきゃ」


 春人の胸がどくりと鳴る。


 氷色が自分から何かを言うことは珍しかった。


「何を?」


 蒼太が聞く。


「何をつなぐん?」


 返事はなかった。


 氷色はゆっくり首を振る。


「わからない」


 そして。


 ふっと目を閉じた。


 次の瞬間。


 静かな氷室の中へ、小さな歌声が流れた。


「アー……」


 全員が固まった。


 氷色が歌っていた。


 いつもの歌だった。


 けれど。


 どこか違う。


 春人はそう感じた。


 氷色の声は、まるで遠い場所を思い出そうとしているみたいだった。


「アー イーラ ムー ナー」


 聞き慣れた歌。


 春人たちも何度も聞いた。


 みゆのノートにも書かれている。


「アー ヨーラ モー ウー」


 そこまで歌った時だった。


「あ」


 みゆが声を上げた。


 春人も気付く。


 タブレットだった。


 画面に並んだ文字が、淡く光っている。


 強い光ではない。


 夕暮れの蛍みたいな。


 柔らかな金色だった。


「光っとる」


 陸が呟く。


 誰も返事をしなかった。


 目を離せなかった。


 氷色は歌い続ける。


 けれど。


 今度は終わらなかった。


「え」


 あかりが声を漏らす。


 みゆの鉛筆が止まる。


 今までならここで終わる。


 ずっとそうだった。


 なのに。


 氷色の歌は続いていた。


「書いて!」


 蒼太が叫ぶ。


「書いとる!」


 みゆは顔も上げない。


 鉛筆が走る。


 紙の上を擦る音だけが響く。


 氷色は目を閉じたまま歌っていた。


 まるで誰かの声を聞いているみたいに。


 まるで遠い記憶を辿っているみたいに。


 春人は息を呑む。


 知らない歌だった。


 聞いたことがない。


 けれど。


 なぜだか懐かしい気がした。


 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 歌は続く。


 そして。


 タブレットの画面にも変化が起きていた。


 今までなかった場所。


 文字の下。


 空白だった場所へ。


 新しい記号が一つ。


 また一つ。


 ゆっくりと浮かび上がっていく。


「増えとる」


 陸が言った。


 春人も頷く。


 確かに増えていた。


 歌と同じだった。


 今まで知らなかった続きが。


 そこに現れていた。


 やがて。


 氷色の歌が途切れる。


 静寂が戻る。


 誰もすぐには喋らなかった。


 氷色自身も呆然としている。


「ひいろ」


 みゆが顔を上げた。


 ノートを握っている。


「今の」


 声が少し震えていた。


「続きがあった」


 氷色はゆっくり瞬きをした。


 そして。


 困ったように首を傾げる。


「わからない」


 いつもの答えだった。


 けれど。


 今度だけは違った。


 みゆのノートには。


 今までなかった歌の続きが残っていた。


 そして。


 タブレットの画面にも。


 今まで見たことのない文字が並んでいた。

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