表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
52/86

第51話 文章


「文章なんじゃね?」


 蒼太の声が、納屋の中に残った。


 誰もすぐには返事をしなかった。


 外ではセミが鳴いている。


 開け放した入口から、田んぼの匂いが流れ込んでくる。


 さっきまで昼ごはんの笑い声があったのに、今はノートの上に並ぶ文字だけが、やけに大きく見えた。


 わ。


 な。


 む。


 ら。


 お。


 よ。


 も。


 う。


 春人はそれを見つめる。


 最初は意味の分からない記号だった。


 けれど今は違う。


 わたし。


 あなた。


 満ちる。


 たった三つだけでも、そこに何かの気配があった。


「文章ってことは」


 あかりが言う。


「読む順番があるってこと?」


「たぶん」


 蒼太が頷く。


「歌の順番じゃ」


 みゆが鉛筆を持った。


 アー イーラ ムー ナー


 その下へ、一つずつ文字を書く。


 あ


 い


 ら


 む


 な


 春人は息を止めた。


 続けて、みゆは二行目を書く。


 アー ヨーラ モー ウー


 その下へ。


 あ


 よ


 ら


 も


 う


 鉛筆の音が止まった。


 納屋の中が静かになる。


「こうじゃな」


 みゆが言った。


 蒼太がぐっと身を乗り出す。


「やっぱり文章じゃ!」


「まだ分からんって」


 あかりが言う。


「でも、並んどる」


 陸がノートを覗き込んだ。


「歌の通りに」


 春人も頷いた。


 ただの文字を並べたものじゃない。


 歌の音と同じ順番で、文字が並んでいる。


 それだけで、胸の奥が少しざわついた。


「意味が分かっとるんは」


 みゆが別のページを開く。


「今のところ、これだけ」


 わ = わたし


 な = あなた


 む = 満ちる


 その下に、まだ空白の文字が並ぶ。


 あ


 い


 ら


 よ


 も


 う


「わが入っとらん」


 陸が言った。


「歌にはな」


 蒼太が答える。


「でも文字には出とる」


「じゃあ歌だけじゃないん?」


「かもしれん」


 蒼太は腕を組んだ。


「歌は一部なんかもしれん」


 その言葉に、春人は少しだけぞくっとした。


 一部。


 つまり。


 まだ他にもある。


 歌の外に。


 文字の奥に。


 氷色が思い出していない何かが。


「氷色に聞く?」


 あかりが言った。


 蒼太は即座に立ち上がりかけた。


「行こう」


「待って」


 みゆが言った。


 蒼太が止まる。


「何」


「このまま聞いても、氷色も困る」


 みゆはノートを見つめたまま言う。


「ちゃんと聞きたい」


「ちゃんと?」


「どの文字を見たら何を思い出すか」


 春人は、みゆのノートを見た。


 線が引かれている。


 丸が付いている。


 消しゴムで消した跡もある。


 みゆはもう、ただ書き留めているだけじゃなかった。


 氷色が思い出せるように、道を作ろうとしている。


 そんな感じがした。


「じゃあ」


 春人が言った。


「一個ずつ聞く?」


 みゆが頷く。


「うん」


 蒼太の目がまた輝いた。


「まず、ら!」


「何で」


 あかりが言う。


「気になるから」


「理由が自分」


「大事じゃろ」


 陸が笑った。


 みゆは少し考えたあと、ノートの「ら」に丸を付けた。


「ら」


 その隣に、空白を作る。


 次に「お」。


 その隣にも空白。


 よ。


 も。


 う。


 全部の隣に、空白を作っていく。


 空いた場所が増えるほど、まだ分からないものがはっきり見えた。


 あと少し。


 でも。


 まだ遠い。


「これ持って行く」


 みゆがノートを閉じた。


 蒼太はもう立っていた。


「行こう」


「早い」


 あかりが言う。


「昼休み終わる」


「夏休みじゃ」


「そうじゃった」


 陸が立ち上がる。


 春人もタブレットを持った。


 画面はもう静かになっている。


 けれど、さっきまで浮かんでいた線が頭から離れなかった。


 新しく増えた線。


 思い出せそうだと言った氷色。


 たくさんの声。


 ひとりの歌じゃない歌。


 春人はリュックの中へタブレットをしまいながら思った。


 もうこれは、ただの不思議な出来事じゃない。


 氷色が思い出そうとしているものを。


 自分たちも一緒に探している。


 そんな気がした。


 外に出ると、夏の光が強かった。


 田んぼの向こうで、白い雲がゆっくり流れている。


 風が吹く。


 稲の葉がさわさわと揺れた。


「午後の部じゃな」


 陸が言う。


「探検隊っぽい」


 あかりが笑った。


「ぽいんじゃない」


 蒼太が振り返る。


「探検隊じゃ」


 春人は少し笑った。


 五人は自転車へ向かう。


 氷室へ。


 また、あの冷たい場所へ。


 氷色が待っている場所へ。


 そして。


 歌の続きを探す場所へ。


◇◇◇


 自転車のタイヤが砂利を踏む音が続く。


 夏の日差しは強かった。


 けれど風も吹いている。


 田んぼの上を渡ってきた風が、汗ばんだ首筋を撫でていった。


 蒼太は先頭を走っていた。


 いつも通りだった。


 たぶん本人は普通の顔をしているつもりなのだろう。


 けれど。


 春人から見ると全然普通じゃなかった。


 明らかに速い。


「待てって!」


 陸が後ろから叫ぶ。


「待っとる!」


「待ってない!」


 あかりが即座に突っ込んだ。


 蒼太は振り返りもしない。


 完全に氷室しか見えていなかった。


 春人は少し笑う。


 それでも足は止めない。


 胸の奥に、自分も同じ気持ちがあった。


 早く聞きたい。


 早く確かめたい。


 歌と文字が本当に繋がっているのか。


 氷色は何を思い出そうとしているのか。


 そして。


 あの歌は何だったのか。


 石段を下りる。


 ひんやりした空気が迎えてくれた。


 外の熱気が嘘みたいだった。


 奥を見る。


 氷色はいた。


 五人を見るなり立ち上がる。


「来た」


 少し嬉しそうだった。


「来た」


 陸が答える。


「約束じゃけぇ」


 氷色が笑う。


 その顔を見て、春人は少し安心した。


 本当に待っていたらしい。


 蒼太は待てなかった。


 もうノートを開いている。


「氷色」


「何?」


「今日はこれじゃ」


 指差したのは。


 ら。


 一文字だった。


 氷色は首を傾げる。


「ら」


 静かな声で繰り返す。


「ら」


 そして。


 動きが止まった。


 春人は息を呑む。


 みゆも鉛筆を握る。


 氷室が静かになる。


 ぽちゃん。


 どこかで水滴が落ちた。


 氷色は文字を見つめている。


 ずっと。


 ずっと。


 見つめている。


 やがて。


 小さく口が動いた。


「ひろがる」


 誰も動かなかった。


「え?」


 蒼太だけが反応する。


 氷色は目を閉じた。


「ら」


 もう一度。


「ひろがる」


 その声は自然だった。


 考えて出した答えじゃない。


 思い出した声だった。


 みゆの鉛筆が走る。


 ら = ひろがる


 さらさらと音が響く。


 蒼太はもう立ち上がっていた。


「来た!」


「座れ」


 陸が言う。


 蒼太は座った。


 一秒で立ったけれど。


 氷色はまだ文字を見ている。


 透き通った瞳が揺れていた。


「光が」


 ぽつり。


「光がひろがる」


 春人は胸の奥が少しだけ熱くなる。


 わたし。


 あなた。


 満ちる。


 ひろがる。


 まだ意味は分からない。


 けれど。


 少しずつ繋がっている気がした。


 まるで。


 真っ暗な部屋で、ひとつずつ灯りが点いていくみたいに。


 氷色はその先を見ようとしている。


 自分たちはその隣にいる。


 そんな気がした。


 けれど氷色は、まだ目を閉じたままだった。


 透き通った瞳の奥で、何かを探しているみたいだった。い


「ひろがる」


 もう一度。


 小さな声で言う。


「光がひろがる」


 みゆの鉛筆が止まる。


 蒼太も黙った。


 誰も急かさない。


 氷色は今、何かを見ようとしていた。


 そんな気がした。


 しばらくして。


 氷色の口が少し動いた。


「うた」


 春人は顔を上げる。


「歌?」


 氷色が頷く。


「うたった」


「誰が?」


 あかりが聞く。


 氷色は困ったような顔をした。


「わからない」


 少し考える。


 それから。


「たくさん」


 と言った。


 みゆの鉛筆が動く。


 たくさん。


 その言葉がノートへ書き加えられる。


「ひとりじゃないん?」


 陸が聞く。


 氷色は首を振った。


「ひとりじゃない」


 ぽちゃん。


 どこかで水滴が落ちた。


 氷室の空気が少しだけ揺れた気がした。


「みんなで」


 氷色が言う。


「みんなで歌った」


 春人は蒼太を見る。


 蒼太も春人を見ていた。


 同じことを考えている顔だった。


 みゆがノートへ目を落とす。


 歌。


 たくさん。


 みんな。


 ひろがる。


 書き並べられた言葉が、どこかで繋がりそうだった。


 その時だった。


「石」


 氷色が呟いた。


 全員の顔が上がる。


「石?」


 蒼太が身を乗り出した。


 氷色は眉を寄せる。


 思い出そうとしている。


 けれど掴めない。


 そんな顔だった。


「石」


 もう一度。


「歌」


「どこの石?」


 春人が聞く。


 氷色はゆっくり首を振った。


「わからない」


 悔しそうだった。


「でも」


 そこで言葉が止まる。


 しばらく黙って。


 小さく続けた。


「大きかった」


 納屋で見た地図が、春人の頭に浮かんだ。


 蒼太も同じだったらしい。


 勢いよくみゆのノートを引き寄せる。


「待って」


 ページをめくる。


 刻印の写し。


 線。


 丸。


 地図。


 その横に描かれた印。


「石」


 蒼太が言った。


「歌」


 みゆが続ける。


「みんな」


 あかりが言う。


 静かになる。


 みゆがノートを見たまま言う。


「歌を歌った場所……?」


 蒼太が地図を見る。


「みんなで集まれる石……」


 陸がぽつりと呟いた。


「陰陽石じゃね?」


 静かになった。


 誰もすぐには喋らなかった。


 外ではセミが鳴いている。


 氷室の中は相変わらず涼しい。


 けれど。


 春人の胸だけが妙に熱かった。


「行ってみる?」


 あかりが言う。


 蒼太は即答した。


「行く」


「聞いてない」


「行く」


 二回目だった。


 陸が吹き出す。


「決定じゃな」


 みゆはノートを抱えた。


 その目は真剣だった。


「確かめたい」


 春人も頷く。


 もし本当に繋がっているなら。


 歌も。


 文字も。


 石も。


 全部。


 どこかで一つになるはずだった。


 氷色は五人を見ていた。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 懐かしそうな顔で。


「いってらっしゃい」


 その言葉に、なぜだか春人は胸がざわついた。


 まるで。


 氷色が、その場所を知っているみたいに。


 氷室の出口から差し込む夏の光が、白く石の床を照らしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ