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第50話 たくさんの声


 誰も喋らなかった。


 タブレットの光だけが、薄暗い氷室の中に浮かんでいる。


 新しく増えた線。


 その下に並ぶ文字。


 そして。


 氷色の言葉。


 ――近い。


 春人は画面を見つめた。


 本当に近付いている気がした。


 何にかは分からない。


 けれど、最初にあの文字を見つけた時よりずっと、何かが見えてきている。


「みゆ」


 蒼太が言った。


「書いて」


「何を」


「今分かっとるやつ全部」


 みゆは少し考えてから頷いた。


 ノートを膝の上へ置く。


 鉛筆を走らせる。


 さらさらと音が響いた。


 ページの真ん中へ文字が並ぶ。


 わ


 な


 む


 その下へ意味も書き加える。


 わ = わたし


 な = あなた


 む = 満ちる


 蒼太が覗き込んだ。


「絶対歌に入っとる」


「入っとるな」


 陸が頷く。


 春人も同じことを思っていた。


 偶然とは思えない。


 歌と文字はどこかで繋がっている。


 氷色はノートをじっと見つめていた。


 透き通った瞳が文字を追う。


 わ。


 な。


 む。


 そして小さく呟く。


「たくさん」


 みゆが顔を上げた。


「え?」


 氷色は少し考えた。


 言葉を探しているみたいだった。


「歌」


「歌?」


「ひとりじゃない」


 氷室が静かになる。


 氷色は遠くを見るような目をしていた。


「たくさんの声」


 春人の胸が少しだけざわつく。


 前にも聞いた。


 氷色は確かにそう言っていた。


 ひとりの歌じゃない、と。


「みんなで歌っとったん?」


 陸が聞く。


 氷色は首を傾げた。


「分からない」


 そう言いながらも、その顔は少しだけ嬉しそうだった。


 まるで遠い記憶の向こうに誰かの姿を見つけたみたいに。


 その時だった。


「おーい!」


 突然、石段の上から声が響いた。


 全員が飛び上がる。


「うわっ!」


 蒼太が一番驚いた。


 陸が顔を上げる。


「あ」


 聞き覚えのある声だった。


「陸ー!」


 もう一度、入口から声が響く。


「ばあちゃんが呼びょーるぞー!」


 陸は天井を見上げた。


「あー……」


 嫌そうな声だった。


「何じゃその反応」


 あかりが言う。


「まだ帰りたくない」


「小学生か」


「小学生じゃ」


 それはそうだった。


 蒼太が吹き出す。


 石段を下りてくる足音が近付いてくる。


 かつん。


 かつん。


 やがて姿が見えた。


 陸の兄だった。


 陸によく似ている。


 けれど背はもっと高く、肩にはタオルを掛けていた。


「おったおった」


 五人を見渡して言う。


「やっぱりここじゃったか」


「何で分かったん」


「家中探した」


 即答だった。


 陸が目を逸らす。


「ばあちゃん怒っとる?」


「怒っとらん」


 一拍置く。


「まだ」


「まだかぁ」


 陸が頭を抱えた。


 春人は思わず笑う。


「昼飯じゃ」


 兄が言う。


「もうできとる」


「まだ早いじゃろ」


「十二時前」


 全員が固まった。


「え」


 蒼太が腕時計を見る。


「ほんまじゃ」


「嘘じゃろ」


 あかりも驚いていた。


 春人も少しびっくりした。


 ついさっき来た気がしていたのに、いつの間にか午前中が終わろうとしている。


「時間飛びすぎじゃろ」


 陸が呟く。


「お前らが集中しすぎなんじゃ」


 兄が笑った。


 そしてふと氷室の奥を見る。


 春人は少しだけ息を止めた。


 けれど兄の視線は石壁を見ただけだった。


「何しょーたん?」


「秘密」


 陸が即答する。


「絶対ろくなことしとらん」


「しとらん」


「その返事が怪しい」


 蒼太が吹き出した。


 氷色は少し離れた場所からその様子を見ていた。


 兄には見えていない。


 けれど楽しそうに笑っている。


 春人は少し安心した。


 やっぱり見えないらしい。


「ほら」


 兄が手を振る。


「帰るぞ」


「あと五分」


「だめ」


「三分」


「だめ」


「一分」


「だめ」


 陸は完全に負けていた。


 兄は強かった。


 その時だった。


「また来る?」


 静かな声だった。


 兄には聞こえていない。


 けれど五人には聞こえた。


 全員が振り向く。


 氷色は少しだけ不安そうな顔をしていた。


 春人はその顔を見て思う。


 昔の氷色なら、きっとこんなことは聞かなかった。


 聞く相手もいなかったから。


「来る」


 春人は言った。


「昼食べたら」


 陸が続ける。


「絶対来る」


 蒼太が言う。


「まだ聞きたいこといっぱいあるし」


「あんたはそれじゃろ」


 あかりが笑った。


 みゆも小さく頷く。


「来る」


 短い言葉だった。


 けれどそれで十分だった。


 氷色は瞬きをする。


 そして少しだけ笑った。


「よかった」


 その笑顔はさっきよりも少しだけ人らしく見えた。


 五人は石段へ向かう。


 一段。


 また一段。


 上へ。


 外の光が近付いてくる。


 振り返ると、氷色はまだそこにいた。


 薄暗い氷室の中で。


 けれどもう、ひとりには見えなかった。


◇◇◇


 陸の家へ戻る頃には、太陽は真上近くまで上がっていた。


 田んぼの上で陽炎が揺れている。


 セミの声は朝よりもずっと大きかった。


「腹減った……」


 蒼太が呟く。


「さっきまで忘れとったくせに」


 あかりが言う。


「今思い出した」


「便利じゃな」


 陸が笑った。


 家へ近付くにつれて、醤油やだしの匂いが流れてくる。


 春人の腹も急に鳴りそうになった。


「おったおった」


 縁側から陸の祖母が顔を出す。


「早う手ぇ洗うて来られぇ」


「はーい」


 五人の返事が重なった。


◇◇◇


 昼ごはんはそうめんだった。


 大きな皿に山盛り。


 氷の浮いたつゆ。


 畑で採れたきゅうりとトマト。


 揚げたての天ぷら。


 陸の兄は三杯目を食べていた。


「食いすぎじゃろ」


「お前も二杯目じゃ」


「まだ二杯目じゃ」


「その理屈ならわしもまだ三杯目じゃ」


「何が違うん」


「一杯違う」


「誤差じゃ」


 春人は少し笑った。


 そうめんをすする。


 陸の家で昼ごはんを食べるのも、もう何度目か分からない。


「春人も食べられぇ」


 陸の祖母の声に、


「はい」


 と自然に返事をしている自分に気付く。


 少し前なら考えられなかった。


 いつの間にか、それが当たり前になっていた。


 みゆは食べながらノートを開いている。


「行儀悪い」


 あかりが言う。


「見とるだけ」


「同じじゃ」


 みゆは黙った。


 けれどノートは閉じない。


 そこには朝の続きが書いてある。


 わ = わたし


 な = あなた


 む = 満ちる


 その下。


 まだ空白のままの文字。


 ら


 お


 よ


 も


 う


 春人もそれを見る。


 あと少し。


 そんな気がしていた。


◇◇◇


 昼ごはんを食べ終えたあと、五人は再び納屋へ集まった。


 外は暑い。


 けれど開け放した納屋の中には風が通り、田んぼの匂いが流れ込んでくる。


 みゆがノートを広げた。


「歌」


 その一言で全員が顔を上げる。


「歌?」


 陸が聞く。


 みゆは頷いた。


「文字と同じかもしれない」


 鉛筆が走る。


 アー イーラ ムー ナー


 アー ヨーラ モー ウー


 その下へ。


 わ


 な


 む


 ら


 お


 よ


 も


 う


 誰も喋らなかった。


 ただ並んだ文字を見つめる。


 納屋の外ではセミが鳴いていた。


「似とるな」


 春人が呟く。


「じゃろ」


 蒼太が身を乗り出す。


「絶対関係ある」


「まだ分からん」


 みゆはそう言った。


 けれど否定はしない。


 分からない。


 けれど近い。


 そんな顔だった。


 春人はノートを見る。


 わたし。


 あなた。


 満ちる。


 意味が分かっているのはまだそれだけだ。


 なのに、ただの記号だった頃とはもう違う。


 氷色は言っていた。


 ひとりの歌じゃない、と。


 たくさんの声だ、と。


 もし本当にそうなら、これは誰かが残した言葉なのかもしれない。


 ずっと昔の、誰かから誰かへ向けた言葉なのかもしれない。


「待て」


 突然、蒼太が立ち上がった。


 全員が振り向く。


 目がぎらぎらしている。


 嫌な予感しかしなかった。


「どうしたん」


 あかりが聞く。


「分かったかもしれん」


「ほんまか」


「たぶん」


「たぶんか」


 陸が即座に返した。


 蒼太は気にしない。


 ノートへ顔を近付ける。


「もしじゃけど」


 一度息を吸う。


 全員が黙る。


 こういう時の蒼太は、たまに当たる。


 たまにとんでもない方向へ飛ぶ。


 そのどちらかだった。


「これ」


 指先が文字をなぞる。


 わ。


 な。


 む。


「文章なんじゃね?」


 納屋の中が静かになった。


 遠くでセミが鳴いている。


 春人は文字を見る。


 そして歌を見る。


 もしかしたら本当に、ただの文字じゃないのかもしれない。


 歌には続きがある。


 言葉にも続きがある。


 そして氷色が思い出そうとしているものにも、まだ続きがある。


 春人にはそんな気がしていた。

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