第49話 わたし
氷室の中は静かだった。
春人たちはタブレットと氷色を交互に見ている。
画面には増えた線。
そして。
氷色は胸に手を当てたまま動かなかった。
「わたし……」
小さな声だった。
まるで初めて触るものみたいに。
何度も確かめるように呟く。
「わたし」
春人は不思議な気持ちになった。
自分はずっと前から知っている言葉だ。
朝起きて。
学校へ行って。
友達と話して。
当たり前みたいに使っている。
けれど。
氷色にとっては違う。
今。
この瞬間に初めて見つけた言葉だった。
「自分のことじゃろ」
陸が言った。
氷色が顔を上げる。
「自分?」
「うん」
陸は少し考える。
「わしはわし」
胸を指差した。
「春人は春人」
春人を見る。
「みゆはみゆ」
「蒼太は蒼太」
「うるさい」
「何で」
「分からんけど」
少しだけ笑いが起きた。
氷色はみんなを見ていた。
一人ずつ。
順番に。
何かを比べるみたいに。
「違う」
ぽつりと呟く。
「何が?」
あかりが聞く。
氷色は首を傾げた。
「みんな違う」
その言葉に。
春人は少しだけ驚いた。
確かにそうだった。
顔も。
声も。
考えることも。
好きなものも。
みんな違う。
「でも友達じゃろ」
陸が言う。
氷色は少し考えた。
「違うけど」
そして。
小さく頷く。
「一緒」
ぽちゃん。
氷室の奥で水滴が落ちた。
静かな音だった。
みゆの鉛筆がさらさらと動く。
氷色はその音を聞きながら呟く。
「わたしも?」
春人が顔を上げた。
「え?」
「わたしも、一緒?」
その声は小さかった。
けれど。
なぜか胸の奥へ残る声だった。
蒼太が何か言いかける。
けれど。
先に口を開いたのは春人だった。
「一緒じゃろ」
氷色が瞬きをする。
「だって話しとるし」
少し笑う。
「友達じゃし」
氷色は黙った。
透き通った瞳が揺れる。
長い間。
ずっと。
ひとりだった存在が。
その言葉を受け取っているみたいだった。
「ともだち」
小さく呟く。
「うん」
春人が頷く。
氷色は胸の前で手を握る。
「わたし」
ぽつり。
「ともだち」
そして。
ほんの少しだけ笑った。
春人は初めて見る気がした。
今までの笑顔とは違う。
もっと柔らかくて。
もっと温かい笑顔だった。
その時だった。
ピッ。
小さな電子音が鳴る。
「!」
全員が振り向く。
タブレットだった。
画面が淡く光っている。
「また!」
蒼太が飛びつく。
春人も慌てて覗き込んだ。
文字の下。
昨日までなかった線が増えている。
「増えた……」
みゆが息を呑む。
氷色も近付いてきた。
光る画面を見つめる。
そして。
不意に動きを止めた。
「あ」
小さな声だった。
「どうしたん?」
蒼太が聞く。
氷色は画面を見たまま答える。
「知ってる」
静かな声だった。
春人の心臓が跳ねる。
「え?」
氷色は目を細めた。
懐かしいものを見るみたいに。
「聞いたことがある」
誰も喋らなかった。
氷色だけが遠くを見ていた。
思い出そうとしている。
何かを。
とても大切な何かを。
「どこで?」
春人が聞く。
氷色は首を振った。
「分からない」
少し考える。
そして。
「でも」
光る文字へ手を伸ばした。
「近い」
指先が小さく震えていた。
「もう少しで」
氷色は呟く。
「思い出せる気がする」
氷室は静かだった。
誰も急かさなかった。
誰も何も言わなかった。
その言葉を壊したくなかった。
ぽちゃん。
また水滴が落ちる。
しばらくして。
みゆがノートを開いた。
「じゃあ」
静かな声だった。
「続き」
蒼太が即座に顔を上げる。
「待っとった!」
「待ってない顔しとったけど」
あかりが言う。
「待っとった」
蒼太は真顔だった。
陸が吹き出した。
少しだけ張りつめていた空気がほどける。
みゆはページをめくった。
調べたこと。
考えたこと。
全部が詰まったページ。
そこに五つの文字が並んでいる。
わ
な
む
ら
お
「わ」
みゆが丸を付ける。
「自分」
次の文字へ移る。
「な」
「あなた」
氷色がじっと見ている。
そして。
一つの文字のところで止まった。
む。
だった。
「それ」
静かな声だった。
全員が振り向く。
「知ってる」
蒼太が飛び上がる。
「何!?」
「近い」
みゆが即座に言う。
「ごめん」
蒼太は下がった。
でも目だけは輝いている。
氷色は文字を見つめていた。
透き通った瞳の奥で。
何かが揺れていた。
「どんな意味?」
春人が聞く。
氷色は少し考えた。
言葉を探しているみたいだった。
「いっぱい」
ぽつり。
「いっぱい?」
あかりが聞く。
氷色は頷いた。
「いっぱいある」
「何が?」
氷色は目を閉じた。
遠くを見るみたいに。
「光」
小さな声だった。
「光?」
「いっぱい」
そして。
ゆっくり言う。
「満ちる」
誰も声を出せなかった。
その言葉は自然だった。
思いついた答えじゃない。
思い出した答えだった。
「む」
氷色が呟く。
「満ちる」
みゆの鉛筆が止まる。
蒼太の目が見開かれる。
「何で分かったん?」
蒼太が聞く。
氷色は首を振った。
「分からない」
少し困ったように笑う。
「でも」
胸へ手を当てる。
「知ってる」
その時だった。
氷色の唇が動く。
まるで無意識みたいに。
「アー」
全員が顔を上げる。
氷色は目を閉じていた。
「イーラ」
懐かしそうな声だった。
遠い遠い場所を見ているみたいに。
「ムー」
春人の心臓が鳴る。
昨日より長い。
昨日より自然だった。
「ナー」
歌が終わる。
静寂。
誰も動けなかった。
氷色が目を開く。
自分でも驚いている顔だった。
「続きが……」
小さく呟く。
「ある」
春人は息を呑む。
「分かるん?」
氷色は首を振った。
「分からない」
悔しそうだった。
本当に少しだけ。
「でも」
その時。
ピッ。
また電子音が鳴った。
全員が振り向く。
タブレットだった。
青白い光の下。
文字の列のさらに下へ。
新しい線が一本。
静かに浮かび上がっていた。
「増えた……」
みゆが呟く。
蒼太はもう声も出ない。
ただ見ている。
春人も画面を見る。
そして。
隣に立つ氷色を見る。
氷色はその線を見つめていた。
懐かしいものを見るみたいに。
少しだけ。
本当に少しだけ。
泣きそうな顔で。
「近い」
静かな声だった。
春人は画面を見る。
氷色を見る。
まだ何も分からない。
何の文字なのか。
何の歌なのか。
氷色が誰なのか。
それでも。
今日だけは確かだった。
氷色はひとりじゃなかった。
春人たちがいる。
みゆがいて。
蒼太がいて。
あかりがいて。
陸がいる。
だから。
思い出せる気がした。
いつかきっと。
少しずつ。
少しずつ。
氷室の冷たい空気の中で。
新しく増えた線だけが。
淡く光り続けていた。




