表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/86

第47話 それぞれ


 家へ帰った頃には昼を少し回っていた。


 自転車を止める。


 玄関を開ける。


「ただいま」


「おかえり」


 母の声が返ってきた。


 台所からだった。


 醤油の匂いがする。


 何か煮ているらしい。


「遅かったね」


「うん」


 春人は靴を脱いだ。


 リュックを置く。


 そのまま自分の部屋へ向かう。


 机の上へタブレットを置いた。


 画面を開く。


 線。


 点。


 増えた印。


 そして。


 薄く浮かぶ文字。


 わ。


 な。


 それだけだった。


「……」


 春人は椅子へ座る。


 意味は分からない。


 罠ではない気がする。


 でも何かも分からない。


 氷色も分からなかった。


 みゆも首を傾げていた。


 蒼太は相変わらずだった。


 歌えば分かると言っていた。


 何でそうなるんだろう。


 思い出して少し笑う。


 その時だった。


「春人ー」


 母の声がした。


「ご飯までまだあるよ」


「うん」


「宿題しときなさい」


「うん」


 返事をしながら。


 春人はタブレットを見ていた。


 わ。


 な。


 短い。


 たった二文字。


 それなのに。


 妙に気になる。


 気付けば紙を引っ張り出していた。


 鉛筆を持つ。


 わ。


 な。


 書く。


 眺める。


 消す。


 もう一度書く。


「……」


 わな。


 わな。


 わな。


 違う。


 そんな気がする。


 ふと。


 氷色の声を思い出した。


 ――ひとりじゃなかった。


 ――たくさんいた。


 ――たくさんで歌った。


 春人は窓の外を見る。


 夏の空だった。


 白い雲がゆっくり流れている。


 その向こうに。


 磐山の緑が見えた。


 そのどこかに。


 今日見つけた岩がある。


 あの刻印がある。


 そして。


 氷室には氷色がいる。


「何なんだろうな」


 小さく呟く。


 答える人はいなかった。


 けれど。


 不思議と嫌な気持ちはしなかった。


 分からない。


 だから面白い。


 そんな気持ちの方が強かった。


 机の上の紙には。


 いつの間にか。


 わ。


 な。


 が何度も並んでいた。


◇◇◇


 家へ帰るなり、蒼太は自転車を止めて玄関を駆け上がった。


「ただいま!」


 返事も聞かず、そのまま廊下を走る。


「蒼太!」


 母の声が飛んだ。


「昼ご飯!」


「後!」


「先食べぇ!」


「後!」


 勢いよく部屋の扉が閉まった。


 机へノートを広げる。


 そこには今日の記録が並んでいた。


 歌。


 刻印。


 氷色の言葉。


 そして。


 大きく書かれた二文字。


 わ


 な


「絶対何かあるじゃろ……」


 椅子へ腰を下ろし、鉛筆をくるくる回す。


 考える。


 けれど分からない。


 考えても分からない。


 だから立ち上がった。


 本棚へ向かう。


 郷土史、神話、伝承、古代文字。


 気になった本を片っ端から引っ張り出し、机の上へ積み上げる。


 開く。


 読む。


 めくる。


 閉じる。


「違う」


 次。


「これも違う」


 また次。


 ページをめくる音だけが部屋に響く。


 けれど。


 どこにも出てこなかった。


 氷色は確かに言った。


 続きがある、と。


 なら。


 わ。


 な。


 にも意味があるはずだった。


「蒼太ー!」


 下から母の声が聞こえる。


「昼ご飯冷めるよー!」


「後!」


「後じゃない!」


「後!」


 その時だった。


 ガラッと扉が開く。


 琴葉だった。


 本の山を見る。


 机を見る。


 ノートを見る。


 そして蒼太を見る。


「何しとん」


「調べとる」


「何を」


「わな」


「罠?」


「違う」


「じゃあ何」


「それが分からんのじゃ」


 琴葉は机へ近付き、ノートを覗き込んだ。


 しばらく黙る。


 蒼太はまた本を開く。


 読む。


 探す。


 やっぱり見つからない。


「分からん……」


 思わず呟いた。


 その時だった。


「和じゃないん」


 琴葉がぽつりと言った。


 蒼太の手が止まる。


「は?」


「わ」


 琴葉は肩をすくめた。


「平和の和とか、仲良しの和とか」


「知らんけど」


 それだけ言うと、興味を失ったように扉へ向かう。


 けれど。


 蒼太は動かなかった。


 和。


 頭の中で転がす。


 和。


 和。


 和。


 罠よりは。


 ずっとしっくりくる気がした。


 気付けばノートの隅へ、一文字だけ書いていた。


 和


 その瞬間だった。


「蒼太ぁぁぁ!」


 母の声が家中に響く。


「今すぐ降りてきなさい!」


 蒼太と琴葉が顔を見合わせる。


「怒っとるな」


 琴葉が言う。


「怒っとるな」


 蒼太も頷いた。


 そして二人は慌てて部屋を飛び出した。


◇◇◇


 家へ帰ると、台所から出汁の匂いがした。


「ただいま」


「おかえり」


 祖母が振り返る。


「手ぇ洗っておいで」


「うん」


 みゆは頷いた。


 けれど頭の中は別のことでいっぱいだった。


 わ。


 な。


 氷色が思い出した言葉。


 昼ご飯を食べながらも、何度もその二文字が頭に浮かぶ。


 向かいでは祖父がそうめんをすすっていた。


「考え事か」


 不意に言われる。


 みゆは箸を止めた。


「分かる?」


「顔見りゃ分かる」


 祖父が笑う。


「まだ分からんの」


「ほう」


「分からんけど気になる」


 祖父は頷いた。


「そりゃええことじゃ」


「ええこと?」


「分からんことを考えるんは悪いことじゃない」


 そう言って麦茶を飲む。


「すぐ答えが出るもんばっかりじゃつまらん」


 みゆは少しだけ笑った。


 確かにそうかもしれない。


 昼ご飯の後。


 みゆは自分の部屋でノートを広げた。


 今までの記録が並んでいる。


 歌。


 刻印。


 氷色の言葉。


 そして。


 今日増えた二文字。


 わ。


 な。


「分からん……」


 小さく呟く。


 その時だった。


「何悩んどるん?」


 部屋の入口から声がした。


 しおりだった。


 帰省中の姉である。


 みゆはノートを少し隠した。


「別に」


「別にの顔じゃないじゃろ」


 しおりは笑いながら部屋へ入ってくる。


 机を覗く。


「何それ」


「分からん言葉」


「ふーん」


 しおりはノートを見る。


 わ。


 な。


 たった二文字だった。


「辞書引けば?」


 みゆが顔を上げる。


「辞書?」


「分からん言葉調べる時に何使うん」


「あ」


 数分後。


 国語辞典が机の上に置かれていた。


 みゆはページをめくる。


 わ。


 指で追う。


「あった」


 しおりも横から覗き込む。


 みゆは読む。


「自分を表す言葉……」


 そこで止まる。


「東北地方などで使われる方言」


 さらに読む。


「私」


 みゆはノートへ書いた。



 わ = 自分



「へえ」


 しおりが言う。


 その時だった。


「昔の言葉にもあるぞ」


 後ろから祖父の声がした。


 いつの間にか部屋の前に立っている。


「昔の歌や話にはよう出てくる」


「そうなん?」


じゃな」


 みゆはその言葉も書き留めた。



 次は。


 な。



 ページをめくる。


 探す。


 指で追う。


 そして。


「あ」


 声が漏れた。


「何?」


 しおりが聞く。


 みゆは辞書を見つめたまま答える。


「あなた」


「え?」


「君」


「汝」


「あなた」


 祖父も少しだけ眉を上げた。


 みゆはノートへ書く。



 な = あなた



 部屋が少し静かになる。


 みゆはその文字を見つめた。


 自分。


 あなた。


 何か意味がありそうだった。


 けれど。


 まだ分からない。



 ふと。


 歌のページを開く。



 あー いーら むー なー


 あー よーら もー うー



 みゆは辞書へ目を落とした。


「じゃあ……」


 ページをめくる。


 あ。


 調べる。


 普通だった。


 次。


 いら。


 調べる。


 無い。


 む。


 探す。


 あるけど、違う気がする。


「ない」


 しおりが笑う。


「そりゃそうじゃろ」


 みゆはもう一度探した。


 やっぱりない。


 な。


 ある。


 けれど違う。


 結局。


 分かったのは二文字だけだった。



 わ = 自分


 な = あなた


 あー = ?


 いら = ?


 むー = ?


 なー = ?(あなた?)



 みゆはノートへ書き足す。


 そして。


 少しだけ考えた。


 氷色の言葉を思い出す。



 ひとりじゃなかった


 たくさんいた


 たくさんで歌った



 その下へ。


 小さく書く。



 自分


 あなた



 鉛筆が止まる。


 みゆはしばらくノートを見つめていた。


「関係あるんかな……」


 その呟きに。


 答えられる人はまだ誰もいなかった。


◇◇◇


 家へ帰った頃には、日差しが少し傾き始めていた。


 自転車を止める。


 その横をポチが駆け抜けた。


「おい」


 呼んでも止まらない。


 庭を横切り。


 畑の方へ走っていく。


「待てって」


 陸は苦笑した。


 どうせ聞いていない。


 いつものことだった。


「陸ー!」


 遠くから父の声が飛んでくる。


「おう!」


「ちょっと手伝え!」


「今行く!」


 リュックだけ縁側へ置いて。


 陸はそのまま畑へ向かった。


 土はまだ熱を持っていた。


 ホースの先から飛び出した水が地面を叩く。


 乾いた土が黒く変わる。


 じわりと匂いが立ち上った。


 夏の匂いだった。


 陸はゆっくり水を撒いていく。


 葉が揺れる。


 水滴が光る。


 蝉が鳴いている。


 遠くではポチが何かを追いかけていた。


 たぶん猫だ。


 たぶん逃げられている。


「今日も山か」


 父が言った。


「うん」


「飽きんなあ」


「まだ飽きとらん」


 父が笑う。


 陸も少し笑った。


 実際、飽きるどころではなかった。


 むしろ。


 気になることばかり増えている。


 わ。


 な。


 ホースを持ちながら。


 ふと頭に浮かぶ。


 あの二文字だった。


 意味は分からない。


 けれど。


 何となく引っ掛かる。


 小さな魚の骨みたいに。


 ずっと残っていた。


「何考えとるんじゃ」


 父が聞く。


「別に」


「別にの顔じゃないな」


 陸は少し笑う。


 今日は二人目だった。


 どうやら本当に顔へ出るらしい。


 作業が終わる頃には。


 服の背中が汗で張り付いていた。


 井戸水で手を洗う。


 冷たい。


 思わず顔も洗う。


 火照っていた頬が少しだけ楽になった。


 縁側へ座る。


 風が吹く。


 さっきまでの暑さが少し遠くなった気がした。


 ポチが戻ってくる。


 何も捕まえられなかったらしい。


 当然だった。


 陸はポチの頭を撫でる。


 ポチは満足そうに寝転がった。


 庭の向こうでは祖父が草を取っていた。


 祖母が洗濯物を取り込んでいる。


 いつもの夕方だった。


 何も変わらない。


 けれど。


 陸の頭の中には。


 やっぱり。



 わ。


 な。



 が残っていた。


 意味は分からない。


 考えても分からない。


 だから。


 そのままにしておく。


 無理に答えを探すのは蒼太の役目だ。


 こういうのを調べるのはみゆの役目だ。


 春人もきっと何か考えている。


 そう思うと。


 少しだけ安心した。


「まあ」


 陸はポチの頭をぽんと叩いた。


「明日じゃな」


 ポチは尻尾を一度だけ振った。


 それで十分だった。


◇◇◇


 家へ帰ると、玄関の戸が開く前から声が飛んできた。


「姉ちゃーん!」


「うわっ!」


 飛びついてきたのは陽向だった。


 危うくよろけそうになる。


「重い!」


「重くない!」


「重い!」


「重くない!」


 陽向はけらけら笑う。


 全然反省していない。


 あかりはため息をついた。


「ただいま」


「おかえり」


 母が台所から顔を出した。


「手ぇ洗ってきなさい」


「はーい」


 陽向も一緒に返事をする。


「お前じゃない」


「えー」


 昼ご飯を食べ終わったあとも。


 陽向はずっと後ろをついてきた。


「姉ちゃん」


「何」


「暇」


「知らん」


「遊ぼ」


「嫌じゃ」


「何で」


「疲れとる」


「何で」


「山登っとったから」


「何で」


「何でが多い!」


 陽向はまた笑った。


 あかりは頭を抱えた。


 自分の部屋へ逃げ込む。


 机の前へ座る。


 ようやく静かになった。


 そう思った。


 五秒後。


 扉が開いた。


「姉ちゃん」


「何でおるん」


「来た」


「見りゃ分かる」


 陽向は勝手に部屋へ入ってくる。


 勝手に床へ座る。


 勝手だった。


 あかりはノートを開く。


 わ。


 な。


 書かれた文字を見る。


 意味は分からない。


 春人なら考える。


 蒼太なら調べる。


 みゆならノートへまとめる。


 けれど。


 あかりは違った。


「分からん」


 言って終わった。


「何が?」


 陽向が聞く。


「秘密」


「何で」


「秘密じゃから」


「教えて」


「嫌」


「何で」


「何で何でうるさい!」


 陽向はまた笑う。


 本当に楽しそうだった。


 あかりもつられて少し笑った。


 何だか馬鹿らしくなってくる。


 わ。


 な。


 確かに気になる。


 けれど。


 今考えても分からない。


 ノートを閉じる。


「姉ちゃん!」


「何」


「外行こう!」


「暑い」


「行こう!」


「嫌じゃ」


「行こう!」


 結局。


 十分後には庭へ出ていた。


 夕方の風が少しだけ吹いている。


 陽向は虫取り網を振り回していた。


 もちろん何も捕まらない。


「そっちおる!」


「おらん!」


「おる!」


「おらん!」


 騒がしい。


 本当に騒がしい。


 けれど。


 悪くなかった。


 あかりは空を見上げる。


 青い空の向こう。


 その先には。


 磐山がある。


 氷室がある。


 氷色がいる。



 わ。


 な。



 やっぱり分からない。


 けれど。


 明日になれば。


 またみんなで考えられる。


「姉ちゃーん!」


 陽向の声が飛んでくる。


「今行く!」


 あかりは立ち上がった。


 分からないことは。


 明日考えればいい。


 今はそれで十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ