第46話 つづき
氷色の瞳が少しだけ揺れた。
懐かしいものを見るみたいに。
嬉しいものを見るみたいに。
そして。
少しだけ怖そうにも見えた。
「……やるん?」
陸が聞いた。
「やる」
蒼太が即答する。
「まだ何も分かっとらんのに」
あかりが言う。
「じゃけぇやるんじゃろ」
蒼太は真面目な顔だった。
その返事に。
誰も反論できなかった。
確かにそうだった。
分からないから。
ここまで来たのだから。
やってみるしかない。
みゆがノートを開く。
歌のページだった。
何度も開いたせいで少し端が折れている。
そこに並ぶ二行の言葉。
あー いーら むー なー
あー よーら もー うー
意味は分からない。
今も分からない。
けれど。
氷色は確かに懐かしそうな顔をした。
それだけは本当だった。
春人はノートを見た。
それから。
氷色を見る。
氷色もこちらを見ていた。
少しだけ不安そうに。
けれど。
どこか期待しているみたいに。
「じゃあ」
春人は言った。
「一回だけな」
蒼太が大きく頷く。
あかりはため息をつく。
陸は苦笑している。
みゆは鉛筆を置いた。
氷室の中へ静かな空気が広がる。
五人は顔を見合わせた。
何だか少し恥ずかしい。
意味も分からない歌を。
みんなで歌うなんて。
けれど。
誰もやめようとは言わなかった。
「せーの」
春人が小さく言う。
そして。
声が重なった。
あー いーら むー なー
最初は揃わなかった。
蒼太だけ声が大きい。
あかりが途中で吹き出す。
陸までつられて笑う。
「お前でかい!」
「普通じゃ!」
「普通じゃない!」
氷室の中へ笑い声が響いた。
氷色がきょとんとしている。
「やり直しじゃ」
蒼太が言った。
「何で仕切るん」
「今のは違う」
「何が」
「何かじゃ」
意味は分からなかった。
けれど。
二回目は誰も笑わなかった。
少しだけ真面目だった。
少しだけ。
さっきよりも。
ちゃんと歌ってみようと思った。
あー いーら むー なー
あー よーら もー うー
声が石の壁へ触れる。
静かな氷室へ広がる。
重なる。
溶ける。
返ってくる。
春人は不思議な気持ちになった。
意味は分からない。
それなのに。
どこか懐かしい気がした。
気のせいかもしれない。
けれど。
自分だけではない気もした。
歌が終わる。
静寂が戻る。
誰も喋らなかった。
蒼太が待っている。
あかりも。
陸も。
みゆも。
春人も。
氷色を見る。
何も起きない。
本当に。
何も。
「……」
「……」
「……」
蒼太が口を開く。
「やっぱり」
その時だった。
「あ……」
小さな声だった。
氷色だった。
全員が振り向く。
氷色は動いていなかった。
目を閉じている。
何かを聞いているみたいだった。
遠くから届く声を。
追い掛けているみたいだった。
「あ……」
もう一度。
小さく呟く。
「氷色?」
春人が呼ぶ。
氷色はゆっくり目を開いた。
透き通った瞳が揺れている。
「続き」
そう言った。
蒼太が飛び上がる。
「続き!?」
氷色は頷いた。
苦しそうだった。
思い出したいのに。
届かないみたいに。
「続きがある」
みゆの鉛筆が動き始める。
カリッ。
小さな音が響く。
氷色は眉を寄せた。
何かを探している。
そして。
ようやく。
小さく口を開いた。
「わ……」
全員が息を呑む。
氷色の瞳が揺れる。
もう一度。
ゆっくり。
「な……」
そこで止まった。
氷室の中が静まり返る。
誰も動かない。
誰も喋らない。
みゆだけが急いでノートへ書き込んでいた。
わ。
な。
忘れないように。
消えないように。
「わな?」
蒼太が言った。
「罠?」
あかりが言う。
「違うじゃろ」
陸が首を振った。
「何で」
「知らんけど」
全然根拠はなかった。
けれど。
何となく違う気がした。
春人もそう思った。
罠という言葉より。
もっと別の何か。
そんな気がした。
「氷色」
春人は聞く。
「分かる?」
氷色は困った顔をした。
何度も首を傾げる。
「わからない」
やっぱりそうだった。
けれど。
今までのわからないとは少し違う。
そこにある。
届きそう。
でも届かない。
そんな顔だった。
「続きは?」
蒼太が身を乗り出す。
氷色は目を閉じる。
しばらく考える。
けれど。
やがて首を横に振った。
「ない」
「ない?」
「出てこない」
悔しそうだった。
蒼太も珍しく黙った。
その時だった。
「待って」
みゆが言った。
全員が振り向く。
みゆはタブレットを見ていた。
「何?」
春人が近付く。
画面を覗き込む。
線。
点。
増えた印。
そして。
薄い文字。
前より少しだけ濃くなっていた。
「増えとる」
みゆが言う。
「ほんまじゃ」
陸も顔を近付けた。
「前こんなんあった?」
「ない」
みゆは即答した。
「絶対?」
蒼太が聞く。
「絶対」
これも即答だった。
ノートを開く。
昨日写した画面。
今日の画面。
並べる。
確かに違っていた。
ほんの少しだけ。
けれど。
増えていた。
「歌ったから?」
陸が言う。
「かもしれん」
春人は答える。
けれど本当は分からない。
氷色が思い出したからかもしれない。
歌ったからかもしれない。
どちらもかもしれない。
蒼太が腕を組む。
「もう一回歌うか」
「やめろ」
「やめぇ」
「やめとけ」
三人同時だった。
蒼太が不満そうな顔をする。
あかりが呆れたようにため息をついた。
「もう昼じゃろ」
その言葉で。
全員がはっとした。
確かに。
いつの間にか氷室の入口から差し込む光が変わっていた。
朝の色ではない。
昼の色だった。
「腹減った」
陸が言う。
「わしも」
春人も思わず頷いた。
そう言われた途端。
急にお腹が空いた気がした。
蒼太だけはまだ納得していない顔をしている。
「でも気になるじゃろ」
「気になる」
春人も認めた。
「じゃけど」
あかりが言う。
「今日はここまで」
みゆも頷く。
「ノートまとめる」
蒼太がみんなを見る。
反対する人を探すみたいに。
けれど。
誰も反対しなかった。
氷色も小さく笑っている。
「また明日」
春人が言った。
氷色は少し考えて。
それから。
嬉しそうに頷いた。
「うん」
その返事は。
どこか昔より明るく聞こえた。




