第44話 なつかしい
「氷色!」
蒼太の声が氷室に響いた。
石段を駆け下りる足音が続く。
その後ろから春人たちも飛び込んできた。
磐山からここまで。
ほとんど休まず戻ってきた。
自転車を飛ばして。
汗だくになって。
それでも蒼太は足りないみたいだった。
「見つけた!」
氷色が顔を上げる。
少し驚いた顔をした。
「何を?」
「これじゃ!」
「待てって」
春人が慌てて前へ出る。
タブレットを取り出した。
今日見つけた岩の刻印。
苔の下から現れた線。
複雑に重なった形。
「これ」
春人は画面を見せた。
「山で見つけた」
氷色は覗き込む。
そして。
動きが止まった。
蒼太が口を開く。
けれど。
何も言えなかった。
氷色の顔が。
今まで見たことのない顔だったからだ。
驚いているようにも見えた。
懐かしそうにも見えた。
悲しそうにも見えた。
全部が混ざっていた。
氷室の中は静かだった。
遠くで水滴が落ちる。
ぽたり。
氷色は写真を見ていた。
瞬きも忘れたみたいに。
じっと。
ずっと。
写真の向こう側を見ているみたいだった。
「氷色?」
春人が呼ぶ。
返事はなかった。
蒼太が少しだけ身を乗り出す。
「知っとるん?」
氷色の瞳が揺れた。
小さく。
本当に小さく。
息を吸う。
「……いた」
声はかすれていた。
全員が顔を見合わせる。
「いた?」
あかりが聞き返す。
氷色は頷いた。
「いた」
もう一度言う。
それから。
困ったように眉を寄せた。
言葉が続かない。
思い出したいのに。
届かない。
そんな顔だった。
「誰が?」
陸が聞く。
氷色は首を横に振る。
「わからない」
いつもの答えだった。
けれど。
春人は少し違うと思った。
知らないんじゃない。
忘れているんだ。
そんな気がした。
氷色はもう一度写真を見る。
透き通った指先が。
そっと画面へ触れた。
刻印をなぞる。
優しく。
壊れ物に触るみたいに。
「……いた」
三度目だった。
今度は少し長い沈黙のあとだった。
「たくさん」
みゆの鉛筆が止まる。
蒼太も固まる。
「たくさん?」
氷色は小さく頷いた。
「たくさんいた」
声が震えていた。
氷色自身も。
どうして震えているのか分からないみたいだった。
けれど。
胸の奥から溢れてくるものがある。
そんな顔だった。
春人は何も言わなかった。
言えなかった。
今の氷色は。
何かを思い出しかけていた。
ずっと遠く。
ずっと昔。
名前も知らない誰かのことを。
ぽたり。
また水滴が落ちる。
氷色は小さく目を閉じた。
そして。
「うた」
そう呟いた。
「うた?」
蒼太が聞き返した。
氷色は目を閉じたままだった。
何かを聞いているみたいだった。
遠くから届く声を。
思い出そうとしているみたいだった。
「うた」
もう一度言う。
今度は少しだけはっきりと。
「みんな」
そこで止まる。
眉が寄る。
悔しそうだった。
言葉が足りない。
伝えたいのに伝わらない。
そんな顔だった。
「みんな歌っとったん?」
あかりが聞く。
氷色はゆっくり頷いた。
「うん」
小さな声だった。
「たくさん」
ぽたり。
水滴が落ちる。
氷室の中へ静けさが広がる。
みゆは鉛筆を握ったまま動かなかった。
蒼太も珍しく黙っている。
春人は氷色を見ていた。
氷色は写真を見ている。
けれど。
見ているのは写真じゃない気がした。
もっと遠く。
もっと昔。
そこにいた誰かたちを見ているみたいだった。
「どんな歌?」
春人は静かに聞いた。
氷色は答えなかった。
答えられなかった。
少しして。
首を横に振る。
「わからない」
やっぱりそうだった。
けれど。
今までの「わからない」とは違った。
知らないんじゃない。
思い出せない。
そんな響きだった。
氷色はもう一度刻印へ触れる。
写真の中の線をなぞる。
「ことば」
ぽつりと言った。
全員が顔を上げる。
「ことば?」
陸が聞く。
氷色は頷いた。
「ことばだった」
蒼太の目が見開かれる。
春人も息を呑んだ。
氷色は続ける。
少しずつ。
確かめるように。
「うたで」
「ことばで」
「みんなで」
そして。
そこで止まった。
透き通った瞳が揺れる。
まるで。
あと一歩で届きそうなのに届かないみたいに。
春人は何も言わなかった。
急かしたら消えてしまいそうだった。
だから待った。
みんなも待った。
氷室の中は静かだった。
ぽたり。
また水滴が落ちる。
その時だった。
氷色がふいに顔を上げた。
春人を見る。
蒼太を見る。
みゆを見る。
あかりを見る。
陸を見る。
そして。
「ひとりじゃなかった」
そう言った。
春人の胸がどくりと鳴る。
氷色は少しだけ笑った。
嬉しそうだった。
寂しそうだった。
泣きそうでもあった。
「たくさんいた」
「たくさんで歌った」
小さな声だった。
けれど。
今まで聞いたどの言葉よりも確かだった。
その瞬間だった。
春人の持つタブレットが。
かすかに光った。
「……え?」
春人が画面を見る。
蒼太も飛び付いた。
「何じゃ!?」
画面はすぐ元へ戻っていた。
けれど。
確かに光った。
全員が画面を覗き込む。
線。
点。
増えた印。
見慣れた画面。
変わったようには見えない。
「何も増えとらんぞ」
陸が言う。
「でも光った」
春人は首を振った。
見間違いじゃない。
絶対に。
その時だった。
みゆが小さく息を呑んだ。
「待って」
鉛筆を置く。
画面を指差す。
「ここ」
全員が顔を近付ける。
線の下だった。
今まで空白だった場所。
そこに。
ごく薄く。
何かが浮かんでいる。
「文字?」
あかりが呟く。
まだ読めない。
霧の向こうみたいだった。
出ているのに。
見えない。
春人は思わず氷色を見た。
氷色も画面を見ていた。
驚いていた。
いや。
違う。
懐かしそうだった。
「これ」
氷色が小さく呟く。
透き通った瞳が揺れる。
「これ……」
言葉が続かない。
思い出せない。
けれど。
あと少しだった。
何か大切なものへ手が届きそうだった。
ぽたり。
水滴が落ちる。
氷室の静けさの中で。
氷色は画面から目を離せなかった。
「聞こえる」
誰にともなく呟く。
春人の胸がどくりと鳴った。
「何が?」
蒼太が聞く。
氷色はゆっくり目を閉じた。
そして。
「みんなの声」
そう言った。
春人は息を呑む。
蒼太も。
みゆも。
誰も何も言えなかった。
氷色は目を閉じていた。
聞いているみたいだった。
遠くから届く何かを。
思い出しかけている何かを。
けれど。
次の言葉は出てこなかった。
遠くで水音が響く。
氷室の中へ静寂が広がる。
その静寂の中で。
氷色は小さく呟いた。
「……なつかしい」
誰に向けた言葉だったのか。
それは氷色にも分からなかった。




