第41話 いる
氷室の中は静かだった。
誰もすぐには動かなかった。
氷色は刻印を見つめたままだった。
透き通った瞳が揺れている。
まるで。
何かを聞いているみたいに。
「歌ってる」
その言葉だけが、まだ氷室の中へ残っていた。
「何が?」
蒼太が真っ先に聞いた。
「何が歌っとるん?」
氷色は刻印を見る。
けれど。
首を横に振った。
「わからない」
小さな声だった。
「でも」
視線は刻印から離れない。
「歌ってる」
「だから何が」
「わからない」
蒼太が頭を抱えた。
「そればっかりじゃ」
あかりが吹き出す。
氷色は少しだけ困った顔をした。
けれど本当に分からないらしい。
「なあ」
その時だった。
黒崎がぽつりと口を開いた。
全員が振り返る。
黒崎は刻印の前へしゃがんだままだった。
「前から気になっとったんじゃけど」
嫌な予感がした。
蒼太が目を逸らす。
みゆの鉛筆が止まる。
「お前ら」
黒崎は氷色のいる辺りを見る。
もちろん。
何も見えていない。
「誰と話しとるん?」
氷室の中が静まり返った。
春人は思わず氷色を見る。
氷色もこちらを見ていた。
少し不安そうだった。
「えっと……」
春人が口を開く。
けれど続かない。
いる。
確かにいる。
でも。
どう説明したらいいのか分からなかった。
「氷色」
みゆが小さく言った。
「名前?」
黒崎が首を傾げる。
「俺らが付けた」
蒼太が答えた。
「ほう」
黒崎は笑わなかった。
馬鹿にもしていない。
ただ聞いている。
「男?」
「わからん」
「女?」
「それもわからん」
「人間?」
全員が氷色を見る。
氷色は少し考えた。
それから首を傾げる。
「わからない」
「わからんらしい」
春人が伝えた。
「本人が?」
「本人が」
黒崎が吹き出した。
「自分のことなのにか」
「そうなんよ」
あかりが言う。
「名前も知らんし」
「いつからおるかも知らんし」
陸が続ける。
「何者かも知らん」
蒼太が言った。
「全部知らん」
「それで会話成立しとるんがすごいな」
黒崎は笑った。
氷色は何がおかしいのか分からないらしく、きょとんとしている。
◇◇◇
少しして。
黒崎は笑うのをやめた。
刻印を見る。
子供たちを見る。
そして。
「見えん」
そう言った。
全員が黙る。
「正直、何も見えん」
黒崎は肩をすくめた。
「けど」
そこで言葉を切る。
「お前らが嘘ついとるようには見えんな」
春人は少し驚いた。
否定されると思っていた。
笑われるかもしれないと思っていた。
けれど違った。
黒崎は見えていない。
それでも。
信じると言った。
いや。
信じるというより。
認めた。
そんな感じだった。
「なあ」
陸が刻印を指差した。
「これ何に見える?」
全員が岩肌を覗き込む。
細い線。
曲線。
何かを描いているようにも見える。
「鳥?」
あかりが言う。
「人じゃろ」
蒼太が反論する。
「踊っとるみたいじゃ」
陸が言った。
「うーん」
みゆはノートへ写している。
春人も見る。
けれど。
やっぱり分からなかった。
◇◇◇
帰る前だった。
春人は何となくタブレットを開いた。
今日だけで何度も見ている画面。
四つの文字。
その下の線。
増えた印。
増えた点。
春人はぼんやり眺める。
そして。
「……あ」
息を呑んだ。
「どうしたん?」
陸が聞く。
春人は答えなかった。
タブレットを見る。
それから。
氷室の外に見える磐山を見る。
もう一度タブレットを見る。
胸がどくんと鳴った。
「これ」
全員が振り返る。
春人は画面を指差した。
「山の形に似てない?」
誰も答えなかった。




