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第40話 探していた


誰もすぐには声を出せなかった。


 氷色は壁を見つめたままだった。


 透き通った指先が、ゆっくりと刻印の上へ伸びる。


 触れる直前で止まる。


 まるで。


 触れてはいけないものを見るみたいに。


「知っとるん?」


 蒼太が思わず聞いた。


 氷色は答えなかった。


 壁を見ている。


 いや。


 壁の向こうを見ているようだった。


「……わからない」


 小さな声だった。


「でも」


 そこで言葉が止まる。


 春人は氷色を見つめた。


 いつもの氷色じゃない。


 何かを思い出しかけている。


 そんな顔だった。


「見たことあるん?」


 今度はみゆが聞く。


 氷色は少しだけ首を傾げた。


「見たこと……」


 困ったように眉を寄せる。


「ちがう」


 首を振る。


「知ってる」


 その言葉に全員が顔を上げた。


 氷色自身も驚いたようだった。


 口にしたあとで、自分の言葉を確かめるみたいに瞬きをする。


「知ってる?」


 蒼太が一歩前へ出る。


「何なんこれ」


 氷色は壁を見た。


 刻印を見た。


 そして。


 ゆっくりと首を横に振った。


「わからない」


 また同じ答えだった。


 けれど。


 今度は少し違った。


「でも」


 氷色の視線が刻印から離れない。


「これだけじゃない」


 氷室の中が静かになる。


 遠くで水滴が落ちた。


 ぽつん、と小さな音が響く。


 春人は思わず壁を見る。


「これだけじゃない?」


 氷色は頷いた。


 そして。


 まるで独り言みたいに呟いた。


「もっとあった」


 その瞬間だった。


 ピッ。


 春人の手の中で、タブレットが小さく鳴った。


「また!」


 蒼太が飛び付く。


 今度は誰も止めなかった。


 全員が画面を見たかった。


 春人は急いでタブレットを持ち上げる。


 画面は光っていた。


 線。


 点。


 そして。


 その先に。


 もう一つ。


 小さな線が増えていた。


「増えた」


 みゆが呟く。


 ノートへ鉛筆を走らせる。


「また増えた」


「じゃろ!」


 蒼太が叫ぶ。


「やっぱり関係あるんじゃ!」


 黒崎は画面を覗き込まない。


 壁を見ていた。


 刻印を見ていた。


「なあ」


 黒崎がぽつりと言う。


「これと同じもんなんか?」


 春人は壁を見る。


 タブレットを見る。


 壁を見る。


 正直分からなかった。


 似ている気もする。


 違う気もする。


「どうなん」


 あかりが氷色を見る。


 氷色は黙っていた。


 壁を見つめている。


 指先が少し震えていた。


「……歌」


 小さな声だった。


 春人は顔を上げる。


「え?」


「歌」


 氷色はもう一度言った。


「歌の……」


 そこまでだった。


 言葉が続かない。


 思い出せないらしい。


 悔しそうな顔をする。


「歌の何?」


 蒼太が身を乗り出す。


 氷色は首を振った。


「わからない」


 その時だった。


 黒崎が壁へ手を当てた。


 ごつごつした花崗岩。


 冷たい石肌。


「これ、後から彫った感じがせんな」


 独り言みたいに呟く。


「どういうこと?」


 春人が聞く。


「古い」


 黒崎は短く答えた。


「めちゃくちゃ古い」


 氷室の中が静かになる。


 水滴の落ちる音だけが聞こえる。


 ぽつ。


 ぽつ。


 ぽつ。


「どれくらい?」


 陸が聞いた。


「知らん」


 黒崎は笑った。


「専門家じゃないけえな」


 けれど。


 その表情は少し真面目だった。


「でも最近のもんじゃない」


 そう言って壁を見る。


「この氷室より前かもしれん」


 誰も喋らなくなった。


 春人は刻印を見る。


 氷色を見る。


 タブレットを見る。


 頭の中で全部が繋がりそうで。


 まだ繋がらない。


 その時だった。


「……あ」


 氷色が小さく声を漏らした。


 全員が振り返る。


 氷色は壁ではなく。


 もっと奥。


 氷室の一番暗い場所を見ていた。


 誰も見ていない場所。


 石壁の影。


 そこを指差している。


「まだある」


 氷色が言った。


 今度ははっきりと。


「向こうにも」


 全員が氷色の指差す方を見た。


 氷室の奥。


 一番暗い場所だった。


 壁と壁が重なる影。


 昼間なのに光が届かない。


「どこ?」


 あかりが目を細める。


「見えん」


 陸も首を伸ばした。


 蒼太はもう懐中電灯を取り出している。


「貸して」


 春人が受け取る。


 カチッ。


 白い光が奥を照らした。


 石壁。


 苔。


 染み。


 岩肌。


 それだけだった。


「ないじゃん」


 あかりが言う。


「いや待て」


 蒼太は納得していない。


 光を左右へ動かす。


 上。


 下。


 隅。


 隙間。


 何度も照らす。


 けれど。


 何もなかった。


「氷色」


 みゆが静かに聞く。


「どこ?」


 氷色は奥を指差したまま答える。


「そこ」


「どこ」


「そこ」


「だからどこ」


 蒼太が頭を抱えた。


 氷色も困った顔になる。


 説明できないらしい。


 しばらく沈黙が落ちた。


 その時だった。


「ん?」


 黒崎がしゃがみ込んだ。


 全員が振り返る。


 黒崎は壁ではなく床を見ている。


 岩と岩の境目だった。


 ほんのわずかな隙間。


 指先で苔を払う。


 さらさらと緑が落ちた。


「どうしたん」


 陸が聞く。


 黒崎は答えない。


 さらに苔を払う。


 そして。


「これか?」


 ぽつりと呟いた。


 春人は息を呑んだ。


 隙間の奥。


 今まで見えなかった岩肌の一部。


 そこに。


 細い線が覗いていた。


 刻印だった。


 けれど。


 今までのものとは違う。


 線ではない。


 文字でもない。


 まるで。


 何かの絵みたいだった。


 その瞬間。


 氷色が小さく息を呑んだ。


「……あ」


 春人は振り返る。


 氷色はその刻印を見ていた。


 いや。


 刻印の向こうを見ているようだった。


 透き通った瞳が揺れている。


「思い出した?」


 春人が聞く。


 氷色は答えなかった。


 ただ。


 今までで一番小さな声で呟いた。


「歌ってる」


 春人は氷色を見た。


 刻印ではない。


 氷色を。


 氷色は絵を見ていた。


 いや。


 違う。


 聞いていた。


 誰も聞こえないはずの何かを。


 懐かしそうに。


 少しだけ。


 泣きそうな顔で。


 その瞬間。


 春人は初めて思った。


 もしかしたら。


 氷色は。


 ずっと何かを思い出そうとしていたのかもしれない。

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