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第37話 もうひとつの石


 翌日だった。


 空は朝から青かった。


 雲はほとんどない。


 強い陽射しが山の木々を照らしている。


 神社の石段を上りながら、春人は肩のリュックを少し持ち上げた。


 中にはタブレットが入っている。


 それから、昨日みゆが描いた石のスケッチ。


 何度も見返した紙だった。


 けれど。


 見れば見るほど分からなくなる。


 あの石は何なのか。


 なぜ今まで気付かなかったのか。


 考えても答えは出なかった。


◇◇◇


 石段の上では蒼太が先頭を歩いていた。


 いつもよりさらに落ち着きがない。


「早う行こうや」


「行っとるじゃろ」


 陸が呆れたように言う。


「もっと早く」


「無理」


「蒼太だけ走れば」


 あかりが言った。


「一人で行く意味ないじゃろ」


 その時だった。


 木の根に足を引っ掛ける。


「おわっ」


 蒼太がよろけた。


 あかりが吹き出した。


「転びかけた」


「かけただけじゃ」


「同じじゃろ」


 みゆが言う。


 春人も思わず笑ってしまった。


◇◇◇


 森の奥へ入るにつれて空気が変わっていく。


 蝉の声が少し遠くなる。


 足元の土は柔らかい。


 木漏れ日が地面へまだら模様を作っていた。


 何度も通った道だった。


 けれど今日は少し違う。


 全員の頭の中にあるものが同じだった。


 あの石。


 半分土に埋まっていた石。


 そして。


 そこに刻まれていた古い印。


◇◇◇


 やがて。


 石積みの小さな建物が見えてきた。


 氷室だった。


 入口の周りだけ空気がひんやりしている。


「おるかな」


 陸が言う。


「おるじゃろ」


 蒼太は即答した。


 根拠はなかった。


 でも誰も否定しない。


◇◇◇


 氷室の中は静かだった。


 外の暑さが嘘みたいに涼しい。


 石壁には薄く水滴が浮いている。


 ぽたり。


 どこかで水が落ちた。


 そして。


「来た」


 声がした。


 氷色だった。


 いつもの場所に立っている。


 白い髪。


 透き通った瞳。


 五人を見ると少しだけ嬉しそうに笑った。


「おはよう」


「おはよう」


 みゆが答える。


 氷色は順番にみんなを見る。


 春人。


 蒼太。


 みゆ。


 陸。


 あかり。


 まるで本当に待っていたみたいだった。


◇◇◇


 少しだけ近況報告みたいな会話をする。


 暑いこと。


 蝉がうるさいこと。


 蒼太がまた転びそうになったこと。


「転んでない」


 蒼太が言う。


「かけた」


 あかりが言う。


「同じ」


 みゆが言う。


 氷色はくすりと笑った。


 最近、よく笑うようになった気がすると春人は思った。


◇◇◇


 けれど。


 蒼太は我慢できなかった。


「氷色」


「うん」


「見せたいもんがある」


 その瞬間だった。


 氷色の表情が少しだけ変わる。


 真面目な顔になる。


「なに?」


 みゆがノートを取り出した。


 昨日描いたスケッチ。


 陰陽石の近くで見つけた石。


 そこに刻まれていた印。


 ページを開く。


 そして。


 氷色へ差し出した。


◇◇◇


 氷色は絵を見る。


 その瞬間だった。


「……」


 動きが止まった。


 春人は息を止める。


 誰も喋らない。


 ぽたり。


 水滴の音だけが響いた。


 氷色はスケッチから目を離さない。


 じっと見ている。


 本当にじっと。


 まるで遠い昔の記憶を覗き込むみたいに。


◇◇◇


「氷色?」


 春人が呼ぶ。


 返事はなかった。


 さらに数秒。


 長い沈黙。


 やがて。


 氷色の唇が小さく動いた。


「これ……」


 声はとても小さかった。


「知っとるん?」


 蒼太が身を乗り出す。


 氷色はすぐには答えなかった。


 ただ。


 絵を見つめている。


 そして。


 ゆっくりと頷いた。


「うん」


◇◇◇


 一瞬だった。


「やっぱり!」


 蒼太が叫ぶ。


「知っとるんじゃ!」


「静かに」


 みゆが言う。


「でも知っとるんじゃろ!」


 蒼太はもう止まらない。


 氷色は少し困ったような顔をした。


 けれど。


 否定はしなかった。


◇◇◇


「これ」


 氷色が言う。


「ことばじゃない」


 全員が顔を見合わせた。


「え?」


 春人が聞き返す。


「ことばじゃない?」


 氷色は頷く。


「うん」


 少し考える。


 探すように。


 思い出すように。


「うた」


 静かな声だった。


◇◇◇


「歌?」


 陸が聞き返す。


 氷色は頷く。


「うん」


「歌のしるし」


 ぽたり。


 水滴が落ちた。


 春人は思わずスケッチを見る。


 歌の印。


 そんなものがあるのだろうか。


 けれど。


 氷色は嘘をついているようには見えなかった。


◇◇◇


 その時だった。


 氷色がふっと目を閉じる。


 誰も声を掛けない。


 静かな時間が流れる。


 そして。


 氷色の唇が小さく動く。


「アー……」


 聞き慣れた歌だった。


「イーラ……ムー……ナー……」


 春人は息を止める。


 誰も喋らない。


 ぽたり。


 水滴の音だけが響く。


「アー……ヨーラ……モー……ウー……」


 そこまでは知っていた。


 昨日も聞いた。


 何度も聞いた。


 けれど。


 今日は違った。


 氷色の声は止まらない。


「ワー……」


 一瞬だった。


 蒼太の鉛筆が止まる。


 みゆが顔を上げる。


 春人も息を呑んだ。


 聞いたことのない音だった。


 初めてだった。


 歌に続きがあった。


 そのはずだった。


 けれど。


 次の音は出なかった。


「……」


 氷色が目を開く。


 歌が途切れる。


 まるで目の前まで来ていたものが、急に霧の向こうへ隠れてしまったみたいだった。


「だめ」


 氷色が小さく言う。


「逃げた」


「逃げた!?」


 蒼太が叫ぶ。


「何が!?」


「わからない」


「そこを!」


「わからないから」


 陸が吹き出した。


 あかりも笑う。


 でも蒼太だけは本気だった。


「続きがあるんじゃ!」


 ノートを抱えたまま立ち上がる。


「ある」


 氷色は頷いた。


「まだある」


 その言葉だけは確信しているようだった。


「どこまで!?」


「わからない」


「何文字!?」


「わからない」


「なんでじゃ!」


「忘れたから」


 また同じだった。


 みゆは静かにノートへ書き込む。


 歌の続き。


 ワー。


 そこで止まる。


 鉛筆の音だけが小さく響いた。


◇◇◇


 春人はふと昨日の石を思い出した。


 歌の印。


 氷色はそう言った。


 そして今。


 歌には続きがあることが分かった。


 なら。


「陰陽石」


 春人が言った。


 全員が顔を上げる。


「もう一回行ってみる?」


 蒼太が即座に頷く。


「行く」


「即答じゃな」


 陸が言う。


「当たり前じゃろ」


「まだ昼前じゃしな」


 あかりも言う。


 みゆも小さく頷いた。


 反対する人はいなかった。


 氷色は少し不思議そうに五人を見る。


「行くの?」


「うん」


 春人が答える。


「続きが分かるかもしれん」


 氷色はしばらく考えた。


 そして。


「わかったら」


 小さく言う。


「教えて」



 氷室の外へ出ると。


 夏の熱気が一気に押し寄せてきた。


「暑っ!」


 陸が言う。


 あかりも顔をしかめる。


 さっきまでの冷気が嘘みたいだった。


 蝉の声が森の上から降ってくる。


 春人はリュックを背負い直した。


 タブレット。


 みゆのノート。


 石のスケッチ。


 そして。


 歌の続き。


 ワー。


 たった一音。


 それだけなのに。


 昨日よりずっと先へ進んだ気がした。


◇◇◇


 陰陽石へ着いた時だった。


「おう」


 聞き覚えのある声がした。


 木陰だった。


 黒崎がしゃがみ込んでいる。


 首にはカメラ。


 手には小枝。


 地面をつついていた。


 五人は思わず足を止める。


「なんじゃ」


 黒崎が顔を上げる。


 そして少し笑った。


「また来たんか」


「黒崎さんこそ」


 あかりが言う。


「またおるじゃん」


「仕事じゃ」


「絶対半分嘘じゃろ」


 陸が言った。


 黒崎は否定しなかった。


「何しとるん?」


 蒼太が聞く。


 黒崎は小枝で地面を指す。


「探しもん」


「何の」


「分からん」


「黒崎さんもじゃん!」


 蒼太が叫ぶ。


 黒崎は笑った。


「お前に言われとうない」


「昨日の石は?」


 みゆが聞く。


「ああ」


 黒崎は頷く。


「朝もう一回見に来た」


 蒼太の目が光る。


「何かわかった!?」


「分からん」


「またか!」


 今度は全員が笑った。


「でもな」


 黒崎が立ち上がる。


 ズボンについた土を払う。


「一つだけ分かった」


 その言葉で空気が変わる。


 みゆの鉛筆が止まる。


 春人も顔を上げる。


「何?」


 黒崎は少しだけ陰陽石を見る。


 そして。


「誰かが置いた石じゃ」


 静かに言った。


「置いた?」


 春人が聞き返す。


「自然に転がってきた感じじゃない」


 黒崎は言う。


「並びがおかしい」


「並び?」


「昨日見つけた石だけじゃない気がする」


 黒崎は森の奥を見る。


 木々の向こう。


 苔むした地面。


 誰も入らないような場所だった。


「この辺り、まだ何かあるかもしれんな」


◇◇◇


 一瞬だった。


 蒼太の目が光る。


「探すぞ」


「早い」


 あかりが言う。


「まだあるって言っとるじゃろ」


「あるかもしれん、じゃ」


 みゆが訂正する。


「同じじゃ」


「違う」


春人は陰陽石を見る。


 歌。


 石。


 氷色。


 そして。


 ワー。


 たった一音。


 それだけなのに。


 ずっと耳の奥に残っている。


 歌の続き。


 歌の印。


 陰陽石。


 バラバラだったものが、少しずつ同じ場所へ向かっている。


 そんな気がした。

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