第35話 忘れられた石
石は木の根元に寄り添うように埋まっていた。
大人が両手で抱えられるくらいの大きさ。
表面は苔で覆われている。
前にもここへ来ている。
けれど。
春人はこの石を見た記憶がなかった。
「こんなんあったっけ……」
あかりが呟く。
「知らん」
陸が首を振る。
「わしも覚えとらん」
黒崎も腕を組んだ。
春人は石の前にしゃがみ込む。
どこにでもありそうな石だった。
なのに。
妙に気になる。
胸の奥がざわざわする。
「待って」
みゆが言った。
ノートではなく石を見ている。
「ここ」
指先が石の表面を指した。
苔の隙間だった。
細い線のようなものが見える。
「なんか彫っとる?」
陸もしゃがみ込む。
春人は手でそっと苔を払った。
ぽろぽろと乾いた苔が落ちる。
少しだけ石肌が現れる。
その瞬間だった。
「……!」
蒼太が息を呑んだ。
そこには傷があった。
ただの傷ではない。
まるで誰かが刻んだような線。
曲線と直線が組み合わさった不思議な形。
どこかで見た気がした。
春人は無意識にタブレットを見る。
そして。
「あ」
声が漏れた。
「どうした」
黒崎が聞く。
春人は答えなかった。
答えられなかった。
タブレットの下。
伸びた細い線の先。
そこに薄く。
本当に薄く。
何かの輪郭が浮かんでいたからだ。
◇◇◇
「見える?」
みゆが小声で聞く。
春人は頷く。
蒼太も頷いた。
あかりも。
陸も。
五人全員に見えていた。
薄い光のような線。
まだ完成していない文字。
けれど。
さっき石に刻まれていた形と少し似ている。
「これじゃ」
蒼太の声が震えていた。
「最後の一文字」
「分かるん?」
あかりが聞く。
「いや」
蒼太は首を振った。
「まだじゃ」
その時。
ピッ。
再び電子音が鳴った。
全員がタブレットを見る。
今度は一回ではなかった。
ピッ。
ピッ。
短い音が二度続く。
そして。
画面の下の線が。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
もう少しだけ伸びた。
◇◇◇
「うおっ」
陸が思わず声を上げる。
「今動いた!」
「動いた!」
あかりも叫ぶ。
「見た!」
みゆは慌ててノートへ書き込む。
春人の心臓が速くなる。
確実だった。
歌。
石。
タブレット。
全部繋がっている。
偶然じゃない。
「なあ」
黒崎が言った。
五人は顔を上げる。
「今の音の後、お前ら全員同じ顔したぞ」
「え?」
「何か見えとる顔じゃった」
春人たちは黙った。
黒崎は少しだけ笑う。
「見えとるんじゃろ?」
誰も答えない。
けれど。
否定もしなかった。
◇◇◇
その時だった。
風が吹いた。
森の葉がざわりと揺れる。
木漏れ日が石の上を流れていく。
そして。
半分埋まった石の表面で。
何かが一瞬だけ光った。
「今!」
みゆが叫ぶ。
全員が石を見る。
苔の下。
さっきまで見えていなかった部分。
そこに。
もう一つ。
小さな刻印が隠れていた。
「うわっ!」
蒼太が飛びつくように石の前へしゃがみ込んだ。
「ちょっ!」
陸が慌てる。
「近い近い!」
「黙っとれ!」
蒼太は聞いていない。
顔が石にぶつかりそうなくらい近い。
「見ろこれ!」
指を震わせながら刻印を示す。
「これ絶対ある!」
「何が」
「あれじゃ!」
「どれじゃ」
「だからあれじゃ!」
興奮しすぎて説明になっていなかった。
あかりが吹き出す。
「全然分からん」
「分からんけど分かるじゃろ!」
「分からんわ!」
蒼太はさらに石へ顔を寄せた。
「うわぁ……」
変な声が漏れる。
「やばい」
「何が」
「めっちゃやばい」
語彙が消えていた。
みゆが呆れた顔になる。
「落ち着いて」
「無理じゃ」
即答だった。
「なんで」
「こんなん落ち着ける訳ないじゃろ!」
蒼太は勢いよく立ち上がる。
今度はタブレットを見る。
石を見る。
またタブレットを見る。
「ほら!」
画面を指差す。
「ほらほらほら!」
「だから何が」
陸が言う。
「繋がっとる!」
蒼太の声が弾んだ。
「歌と石と文字じゃ!」
「さっきから言っとる」
「でも今証明された!」
目がきらきらしていた。
完全に興奮している。
「絶対これ最後の一文字じゃ!」
「さっき分からん言うたじゃろ」
あかりが突っ込む。
「それは分からん!」
「どっちなん!」
「でも絶対関係ある!」
陸がとうとう吹き出した。
黒崎も肩を揺らしている。
春人は少し笑った。
蒼太がこうなる時は本気だ。
本当に面白いものを見つけた時だけ。
春人も息を呑んだ。
不思議なことに。
その形を見た瞬間。
氷室で聞いた歌が頭の中に蘇った。
アー――
イーラ――
ムー――
ナー――
そして。
まだ歌われていない何かが。
その先に続いている気がした。
まるで。
歌そのものが、
まだ終わっていないみたいに。
森の中に静寂が落ちた。
誰も口を開かない。
ただ。
五人の視線だけが。
新しく見つかった刻印へ向けられていた。
次の謎は、
もう目の前にあった。
◇◇◇
「これ……文字なんかな」
あかりがぽつりと言った。
誰も答えない。
刻印は文字にも見える。
絵にも見える。
ただの傷にも見える。
何なのかは分からなかった。
「触ってみる?」
陸が言う。
「待て」
黒崎が止めた。
五人が振り向く。
黒崎は石の前にしゃがみ込んでいた。
カメラを脇へ置く。
刻印をじっと見ている。
「どうしたん?」
みゆが聞く。
「いや」
黒崎は首を傾げた。
「どっかで見た気がするんよな」
蒼太の目が大きくなる。
「知っとるんですか!?」
「知らん」
「どっちなん」
陸が突っ込んだ。
黒崎は笑った。
「見たことある気がするだけじゃ」
◇◇◇
そう言って。
黒崎はポケットからスマートフォンを取り出した。
刻印を何枚か撮影する。
角度を変えながら撮る。
石全体も撮る。
「仕事ですか?」
春人が聞いた。
「半分な」
黒崎が答える。
「こういうの見つけたら、とりあえず撮る癖がある」
なるほどと思った。
探検の人らしい。
「何か分かるん?」
蒼太が身を乗り出す。
「すぐには分からん」
黒崎は言った。
「けどな」
そこで少しだけ真面目な顔になる。
「これ、誰かが最近彫った傷には見えん」
五人が顔を見合わせた。
◇◇◇
「古いん?」
みゆが聞く。
「たぶんな」
黒崎は石の縁を指差した。
「苔が傷の中まで入っとる」
春人は目を凝らした。
言われてみればそうだった。
線の溝の中にも薄い緑色が見える。
「最近掘ったなら、もっと色が違う」
黒崎は続ける。
「何年か、何十年かは分からんけど」
「前からあったってこと?」
あかりが言う。
「その可能性は高いな」
◇◇◇
風が吹いた。
葉が揺れる。
木漏れ日が地面を流れていく。
春人はもう一度刻印を見た。
前からあった。
ずっとここに。
誰にも気付かれず。
あるいは。
気付かれていたけれど忘れられて。
ずっと。
ここに。
そんな気がした。
◇◇◇
その時だった。
「ん?」
陸が声を上げた。
「どうした」
「これ」
陸は刻印の横を指差した。
よく見ると。
そこにも何かあった。
今度は傷ではない。
小さな丸。
そして。
その隣に短い線。
さらにその先にも。
薄く。
薄く。
何かが続いている。
「まだあるぞ」
陸が言った。
全員が息を呑んだ。
刻印は一つではなかった。
苔の下に。
土の下に。
まだ何かが隠れている。
まるで。
石そのものが何かを語ろうとしているみたいに。
蒼太がゆっくり立ち上がった。
「待って」
声が少し上ずっている。
「待って待って待って」
タブレットを見た。
また石を見た。
「何」
あかりが言う。
「これおかしい」
「何が」
「一文字探しとったんじゃろ?」
「そうじゃな」
「でもこれ一個じゃない」
蒼太が刻印を指差す。
「ほら!」
さらに別の場所を指差す。
「こっちにもある!」
「え?」
「じゃろ!?」
興奮で声が大きくなる。
「もしこれ全部刻印じゃったら!」
そこで言葉が止まる。
自分でも考え始めたらしい。
「……」
「……」
「……」
そして。
「めっちゃ大事なやつじゃ」
「雑!」
あかりが即座に突っ込んだ。
黒崎は刻印を見たまま、少しだけ考えていた。
そして。
ぽつりと言う。
「……けど変じゃな」
「何が?」
春人が聞く。
「もしこれが昔からあるもんなら」
黒崎は石を軽く叩いた。
「なんで今まで誰も話題にしとらんのじゃろうな」
誰も答えられなかった。
セミの声だけが、森の奥で鳴いている。
春人は石を見た。
苔に埋もれた刻印。
タブレットに伸びた細い線。
そして、まだ途中のままの文字。
ずっとここにあったのに。
誰にも見つからなかったもの。
それが今、自分たちの前にだけ、
少しずつ姿を現している。
そう思った瞬間。
夏の暑さとは違う冷たさが、
春人の背中をすっと通り抜けた。




