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第34話 磐と歌


 翌朝だった。


 空は朝から青かった。


 夏の陽射しはまだ高くない。


 けれど、もう十分暑い。


 神社へ続く坂道を、春人は自転車で上っていた。


 木々の間から聞こえるクマゼミの声が賑やかだ。


 昨日決めた作戦が頭の中をぐるぐる回っている。


 歌。


 陰陽石。


 タブレット。


 そして。


 まだ分からない最後の一文字。


 考えているうちに神社の石段が見えてきた。


 約束の時間より少し早い。


 けれど。


「おはよう」


 もう陸がいた。


 自転車にもたれながら麦わら帽子を被っている。


「早いな」


「家近いし」


 陸が笑う。


 たしかにそうだった。


 桃畑から神社まではそう遠くない。


 少しして。


「おーい!」


 あかりが坂を上ってきた。


 後ろから蒼太も来る。


 相変わらずリュックが妙に膨らんでいる。


「何入っとるん」


 陸が聞く。


「ノート」


「多いな」


「大事じゃから」


 蒼太は真顔だった。


 春人は少し笑った。


◇◇◇


 その時だった。


 遠くから軽トラの音が聞こえてきた。


 ブロロロロ……


 白い軽トラが神社の前で止まる。


「あ」


 春人が言う。


 助手席のドアが開いた。


 みゆだった。


「おはよう」


「おはよう」


 みんなが返事をする。


 みゆは軽トラの後ろへ回った。


 積まれていた自転車を下ろす。


「重たくない?」


 あかりが聞く。


「慣れとる」


 みゆは平然としていた。


 その間に運転席から祖父が顔を出す。


「今日は探検か?」


 にこにこと笑っている。


「まあ、そんな感じ」


 陸が答えた。


「気ぃつけえよ」


「はーい」


 五人が返事をする。


 祖父は満足そうに頷いた。


「昼には帰れよ」


「わかった」


 みゆが答える。


 軽トラはゆっくりと坂を下っていった。


 エンジン音が遠ざかる。


 再びセミの声だけが残った。


◇◇◇


「よし」


 蒼太が言った。


「行こう」


 誰も反対しなかった。


 五人は自転車へまたがる。


 神社の脇道を抜ける。


 木陰の道は少し涼しい。


 昨日までと同じ道。


 それなのに。


 今日は少し違う気がした。


 みんな目的を持って来ているからだろう。


◇◇◇


 やがて。


 陰陽石が見えてきた。


 森の中の小さな広場。


 大きな二つの石。


 夏の光が木漏れ日になって降り注いでいる。


 春人は自転車を止めた。


 胸の奥が少しだけ高鳴る。


 ここだった。


 最初に文字が現れた場所。


 すべての始まり。


「まず何じゃった?」


 あかりが聞く。


「歌」


 蒼太が即答した。


「早いな」


 陸が笑う。


「当たり前じゃろ」


 蒼太はリュックからノートを取り出す。


 昨日の作戦会議のページを開く。


 そこにはみゆが書いた四つの項目が並んでいた。


 ① 歌を歌う


 ② 陰陽石の周りを調べる


 ③ タブレットを近づける


 ④ 変化を記録する


「まず一番じゃ」


 蒼太が言う。


 春人はリュックからタブレットを取り出した。


 画面を開く。


 四つの文字は消えていない。


 その下には細い線。


 昨日のままだった。


 みゆがノートを構える。


 陸とあかりも石の近くへ寄る。


 五人の視線が自然と集まった。


 少しだけ緊張する。


 氷室で歌った時とは違う。


 ここは始まりの場所だった。


「じゃあ」


 蒼太が言った。


「いくで」


 誰も笑わなかった。


 誰もふざけなかった。


 五人は顔を見合わせる。


 そして。


 小さく息を吸った。


「アー――」


 その瞬間だった。


「何しよるんじゃ?」


 後ろから声がした。


 五人全員が飛び上がった。


「うわっ!」


 振り返る。


 そこに立っていたのは黒崎だった。


 いつものバイク用ジャケット。


 首にはカメラ。


 片手にはペットボトル。


 まるで散歩の途中みたいな顔をしている。


「く、黒崎さん!」


 春人が言った。


「おう」


 黒崎は軽く手を上げた。


「何しよるんじゃ?」


 もう一度聞く。


 五人は顔を見合わせた。


 誰も答えない。


 さっきまでの勢いはどこへ行ったのか。


「……」


「……」


「……」


「……」


「……」


 沈黙だった。


 黒崎は首を傾げる。


「なんじゃその反応」


 蒼太がちらりとみゆを見る。


 みゆはノートを見る。


 あかりは笑いを堪えている。


 陸は口元を押さえていた。


 春人は困った。


 説明役が回ってきた気がした。


「えっと……」


「うん」


「実験です」


 黒崎が瞬きをした。


「何の」


 春人は黙った。


「何の?」


 黒崎がもう一度聞く。


「それは……」


 春人は蒼太を見る。


 蒼太を見る。


 蒼太は視線を逸らした。


「おい」


 あかりが小声で言う。


「言い出したのお前じゃろ」


「分かっとる」


「説明せえ」


「無理じゃ」


「なんで」


「説明したら変人じゃ」


 陸が吹き出した。


 黒崎も少し笑う。


「もう十分変じゃろ」


「うっ」


 蒼太が詰まる。


 反論できなかった。


◇◇◇


「で?」


 黒崎が陰陽石を見る。


「何する予定じゃったん」


 蒼太は少し迷った。


 でも。


 ここまで来て隠しても仕方がない。


「歌います」


「は?」


 黒崎が聞き返した。


「歌です」


「ここで?」


「ここで」


「なんで」


「分かりません」


 黒崎はしばらく黙った。


 そして。


「分からんのか」


「分からんのです」


 蒼太は真顔だった。


 春人は思った。


 端から聞いたらひどい会話だった。


◇◇◇


 けれど。


 黒崎は笑わなかった。


 呆れもしなかった。


 ただ陰陽石を見ている。


「その歌で何か起きるんか?」


 蒼太の目が少しだけ輝いた。


「起きました」


「ほう」


「昨日」


「何が」


 春人はタブレットを見た。


 画面を開く。


 四つの文字。


 その下の細い線。


「これです」


 黒崎は画面を覗き込む。


 そして。


「真っ黒じゃな」


 と言った。


 五人は顔を見合わせる。


 やっぱりだった。


 見えていない。


 春人たちに見えている文字は。


 黒崎には見えていない。


◇◇◇


 しばらくの沈黙。


 セミの声だけが聞こえる。


 やがて黒崎は言った。


「じゃあ」


 五人が顔を上げる。


「やってみ」


「え?」


 蒼太が聞き返した。


「歌」


 黒崎は陰陽石の横へ移動した。


「わし見とるけぇ」


 春人は少し驚いた。


 否定されると思っていた。


 笑われると思っていた。


 でも違った。


 黒崎は本気で観察するつもりらしい。


 カメラを肩から外す。


 腕を組む。


「ほれ」


 黒崎が言った。


「続き」


 蒼太は一度だけみんなを見た。


 みゆはノートを構えている。


 陸は石の近く。


 あかりはもう笑っていない。


 春人はタブレットを持っている。


 全員準備ができていた。


「じゃあ」


 蒼太が息を吸う。


「もう一回じゃ」


 陰陽石の前で。


 五人は静かに輪になった。


 夏の風が木々を揺らす。


 セミの声が遠くなる。


 そして。


「アー――」


 五人の声が重なる。


「イーラ――」


 木々の葉が風に揺れる。


「ムー――」


 セミの声は相変わらず賑やかだった。


「ナー――」


 歌が終わる。


 静寂。


 誰も動かなかった。


 春人は思わずタブレットを見る。


 変わっていない。


 四つの文字。


 その下の細い線。


 昨日のままだった。


「……」


 蒼太も見ている。


「何も起きんじゃん」


 あかりが言った。


「まだじゃ」


 蒼太が即答する。


「何が」


「まだ分からん」


「便利な言葉じゃな」


 陸が笑った。


 黒崎は腕を組んだまま陰陽石を見ている。


「終わりか?」


「終わりじゃない」


 蒼太は言った。


「たぶん」


「たぶんか」


 黒崎が笑う。


◇◇◇


「もう一回」


 蒼太が言った。


「えー」


 あかりが言う。


「実験は繰り返しが大事なんじゃ」


「誰の受け売り?」


「テレビ」


 みゆがノートへ何かを書き込む。


 春人は横から覗いた。


 一回目。


 変化なし。


 そう書いてあった。


「記録しとるん?」


 黒崎が聞く。


「うん」


 みゆが頷く。


「後で比べるから」


「へえ」


 黒崎は少し感心したようだった。


◇◇◇


 二回目の歌が始まる。


「アー――」


 今度は少しだけ声が揃った。


「イーラ――」


 春人は歌いながらタブレットを見ていた。


「ムー――」


 その時だった。


 画面の端が一瞬だけ明るくなった気がした。


「え?」


 春人が目を見開く。


「ナー――」


 歌が終わる。


 同時だった。


 ピッ。


 小さな電子音が鳴った。


◇◇◇


「今!」


 春人が叫ぶ。


 全員がタブレットを見る。


「鳴った!」


 蒼太も叫んだ。


「聞いた!」


 あかりが言う。


「聞こえた!」


 陸も頷く。


 みゆは慌ててノートへ書き込む。


 二回目。


 電子音。


 全員確認。


 黒崎も少し目を細めた。


「今のは聞こえたな」


 五人が一斉に顔を上げる。


「聞こえた?」


 春人が聞く。


「聞こえた」


 黒崎は頷く。


「機械の音じゃろ」


 春人の胸が少し高鳴る。


 文字は見えない。


 でも。


 音は聞こえた。


 黒崎にも。


◇◇◇


「ほら!」


 蒼太が言う。


「ほらじゃない」


 黒崎が笑う。


「何が起きとるか説明せえ」


「それは分からん」


「結局分からんのか」


 また同じ会話だった。


 陸が吹き出す。


 あかりも笑う。


 みゆだけは真剣にタブレットを見ていた。


「待って」


 小さな声だった。


 全員が見る。


 みゆは画面を指差している。


「線」


 春人も見た。


 確かに。


 細い線が少しだけ伸びていた。


 ほんの少し。


 昨日よりも。


 さっきよりも。


 確実に。


「伸びとる」


 春人が言う。


「伸びとる!」


 蒼太が飛び上がる。


 黒崎は首を傾げた。


「何が」


「線が!」


「どの線じゃ」


「これ!」


「真っ黒じゃ」


 五人は顔を見合わせた。


 やっぱり見えない。


 黒崎には。


◇◇◇


 その時だった。


「なあ」


 陸の声がした。


 みんなが振り返る。


 陸はいつの間にか陰陽石から少し離れた場所へ行っていた。


 木の根元だった。


「これ前からあった?」


 陸が指差している。


 そこには石があった。


 大きくはない。


 半分ほど土に埋もれている。


 苔に覆われていて、今まで誰も気に留めなかったような石だった。


 けれど。


 なぜだろう。


 春人は目を離せなかった。


「そんな石あったか?」


 黒崎がぽつりと言った。


 五人は顔を見合わせる。


 そして同時に、その石へ向かって歩き出した。

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