第32話 歌
氷室の中は静かだった。
誰もすぐには口を開かなかった。
つながる。
ひと。
こころ。
そして。
思い出せない最後の一文字。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちる。
その音だけが、ひんやりとした空気の中に小さく響いた。
氷色はまだタブレットの画面を見つめていた。
白い指先が、最後の文字の少し手前で止まっている。
「……」
春人は何も言えなかった。
何か大事なことが分かりかけている。
でも、まだ届かない。
そんな気がしていた。
「待って」
蒼太が言った。
静かな氷室の中では、いつもの声より少し大きく聞こえた。
「つまり」
「うん?」
「読めるんじゃろ?」
氷色は頷く。
「でも思い出せんのじゃろ?」
「うん」
「でも三つは思い出したんじゃろ?」
「うん」
蒼太の目が光った。
「それ、めちゃくちゃ大事じゃん!」
「うるさ」
あかりが言う。
「今はうるさくしてもええところじゃろ!」
「そんなところあるん?」
陸が呆れたように言った。
蒼太は聞いていなかった。
「昨日は分からんかった」
「うん」
「今日は分かった」
「うん」
「つまり何か起きとる」
「何か?」
氷色が首を傾げる。
「何かじゃ!」
「雑じゃな」
陸が笑った。
氷色は少しだけ目を伏せた。
「前は」
静かな声だった。
「何もなかった」
蒼太の鉛筆が止まる。
「何も?」
「うん」
「ずっと分からなかった」
ぽたり。
また水滴が落ちる。
「でも」
氷色は文字を見た。
「今は少しだけ思い出せる」
「はぁ!?」
蒼太が叫んだ。
「だからうるさい!」
あかりが耳を押さえる。
「何を思い出したん!?」
「わからない」
「なんでじゃ!」
「わからないから」
「そこを何とか!」
「無理」
「無理なん!?」
陸が吹き出した。
みゆも少しだけ笑う。
春人も、胸の奥にあった緊張が少しゆるむのを感じた。
◇◇◇
その時だった。
氷色が小さく息を吸う。
「アー」
五人が顔を上げた。
「イーラ」
柔らかな音が氷室へ広がる。
「ムー」
「ナー」
昨日の歌だった。
氷色は自分でも気付いていないように続ける。
「アー」
「ヨーラ」
「モー」
「ウー」
「待って待って待って!」
蒼太が叫んだ。
「続きじゃ!」
ノートへ慌てて書き込む。
「昨日はそこまで歌ってなかった!」
「よく覚えとるな」
陸が感心した。
「謎の歌じゃぞ!」
「そこは覚えるんじゃ」
あかりが呆れる。
その横で、みゆは静かにノートを取り出していた。
つながる。
ひと。
こころ。
その下に空白。
さらに。
アー イーラ ムー ナー
アー ヨーラ モー ウー
を書き足す。
「何かわかるん?」
春人が聞く。
みゆは首を振った。
「まだ」
短く答える。
けれど。
ノートから目を離さない。
「でも」
「でも?」
「同じことを言っとる気がする」
蒼太が勢いよく身を乗り出した。
「やっぱりじゃろ!」
みゆは無視した。
そして氷色を見る。
「この歌、どういう歌なん?」
氷色は少し困った顔をした。
「わからない」
やっぱりその答えだった。
けれど。
少し考えてから続ける。
「ひとりの歌じゃない」
「ひとりの歌じゃない?」
春人が聞き返す。
氷色は頷いた。
「たくさん」
「たくさん?」
「うん」
氷色は目を閉じた。
「たくさんの声」
ぽつりと呟く。
「いっしょに」
その言葉が落ちた瞬間だった。
「待って」
蒼太が顔を上げた。
嫌な予感しかしない顔だった。
「何」
あかりが言う。
「それじゃ」
蒼太は氷色を指差した。
「歌ってみようや」
「は?」
「たくさんの声じゃろ!」
「また始まった」
陸が笑う。
「始まってない!」
「でも」
みゆが言った。
全員が見る。
「やってみてもいいかも」
蒼太が勢いよく振り返った。
「ほら!」
「何かあるかもしれんし」
春人も頷いた。
正直分からない。
でも。
ここまでだって十分変なことばかりだった。
◇◇◇
六人は輪になるように立った。
氷室の中は静かだった。
氷色が小さく息を吸う。
「アー」
五人も続く。
「アー」
「イーラ」
「イーラ」
六つの声が重なる。
「ムー」
「ナー」
意味は分からない。
なのに。
どこか懐かしい。
「アー」
「ヨーラ」
「モー」
「ウー」
その瞬間だった。
ピッ。
小さな電子音が鳴った。
◇◇◇
「え?」
春人が顔を上げる。
聞き覚えのある音だった。
「春人!」
蒼太が叫ぶ。
春人は慌ててタブレットを見る。
四つの文字はそのままだった。
けれど。
「何か増えとる」
みゆが言った。
文字の下。
細い一本の線。
今までなかったものが浮かんでいた。
「ほらぁ!」
蒼太が飛び上がる。
「やっぱりじゃ!」
「何が」
「共振じゃ!」
「出た」
あかりが言った。
陸が笑う。
けれど誰も否定できなかった。
確かに何か起きた。
今。
この場所で。
◇◇◇
「これ」
みゆが呟く。
「どこで最初に出たんじゃったっけ」
一瞬だった。
考えるまでもなかった。
「陰陽石」
春人が言った。
「最初に文字が出た場所」
蒼太がにやりと笑う。
「行くしかないじゃろ」
誰も反論しなかった。
春人も同じことを考えていた。
歌で反応した。
なら。
陰陽石へ行けば、もっと何か分かるかもしれない。
◇◇◇
「でも」
みゆが言った。
「その前に整理しよう」
「整理?」
「ノート広げる場所いるじゃろ」
陸が頷いた。
「じゃあ、うち来る?」
「麦茶ある?」
あかりが聞く。
「ある」
「桃は?」
「ある」
「行く」
即答だった。
陸が笑う。
「桃で決めたじゃろ」
「うん」
悪びれない。
「会議じゃな」
蒼太が言った。
「宿題も」
みゆが付け足す。
蒼太が固まった。
「宿題?」
「夏休みじゃろ」
「今、それ言う?」
「今言わんとやらん」
みゆは即答した。
春人は思わず笑った。
「僕も母さんに持って行けって言われた」
「裏切り者がおる」
蒼太が言う。
「裏切ってないよ」
「もう一週間以上たっとる」
みゆが追い打ちをかけた。
蒼太は黙った。
あかりが吹き出した。
◇◇◇
帰ろうとした時だった。
「あ」
あかりが言う。
「何?」
「氷色って外行ったことあるん?」
氷色は首を傾げた。
「そと?」
「うん」
入口から差し込む光を指差す。
氷色はしばらく見つめていた。
そして。
「ない」
静かに言った。
春人は思わず氷色を見る。
夏も。
空も。
田んぼも。
桃も。
氷色は知らないのかもしれない。
「じゃあ今度」
あかりが笑う。
「一緒に行こうや」
氷色は入口を見た。
外の光を見た。
「行ってみたい」
小さな声だった。
その時はまだ。
誰も知らなかった。
その願いが、簡単には叶わないことを。
◇◇◇
「また来る」
春人が言った。
氷色は頷いた。
「うん」
「歌、思い出したら教えて」
「うん」
氷色は少しだけ笑う。
「思い出したい」
その言葉を聞いて。
春人はなぜか嬉しくなった。
氷色の中で。
何かが動き始めている。
そんな気がした。
五人は氷室を後にした。
まずは陸の家。
作戦会議。
そして。
もう一度、陰陽石へ。
最初に文字が現れた、あの場所へ。




