第31話 文字の意味
翌朝だった。
夏休みに入ったばかりの朝は早い。
まだ八時前だというのに、窓の外ではクマゼミたちが競うように鳴いていた。
カーテンの隙間から差し込んだ光が机の上を照らしている。
春人はゆっくりと目を開いた。
休みの日だから急ぐ必要はない。
本当ならもう少し寝ていてもよかった。
けれど目は覚めてしまった。
胸の奥が妙に落ち着かなかった。
理由は分かっている。
机の上だった。
昨夜、寝る前に置いたタブレットがそこにある。
春人は布団から起き上がった。
裸足のまま机へ向かう。
タブレットを手に取る。
画面を開く。
そして。
「……ある」
小さく呟いた。
四つの文字は消えていなかった。
昨日と同じ場所に。
昨日と同じ形で。
静かに並んでいる。
意味は分からない。
けれど目を離せなかった。
まるで途中まで読んだ本の続きが気になって仕方がない時みたいに。
春人はしばらく画面を見つめていた。
◇◇◇
その頃。
蒼太の部屋は紙だらけだった。
机の上にはノートが何冊も開かれている。
丸。
線。
矢印。
意味不明な図形。
陰陽石。
氷色。
歌。
思いついたことを片っ端から書き込んだ結果だった。
蒼太は椅子に座ったまま腕を組む。
「絶対関係ある」
誰に言うでもなく呟く。
昨日から何度目か分からない。
その時だった。
部屋の扉が開く。
「お兄ちゃん」
琴葉だった。
「何」
「朝ご飯」
「今行く」
そう言いながら動かない。
琴葉は机を見る。
ノートを見る。
さらに兄を見る。
「またやっとる」
「何が」
「宇宙人」
「宇宙人じゃない」
「似たようなもんじゃ」
琴葉はそう言い残して去っていった。
蒼太は少しだけ考えた。
「似とるか?」
たぶん違うと思った。
◇◇◇
みゆの家では扇風機が静かに回っていた。
朝ご飯を食べ終えたみゆは縁側に座って本を開く。
祖父が庭へ水を撒いている音が聞こえた。
ホースの先から飛び出した水が朝日にきらきら光っている。
いつもなら好きな時間だった。
けれど今日は違う。
ページをめくる。
まためくる。
読んだはずなのに内容が頭に残らない。
「珍しいな」
祖父が笑った。
「本に負けとる」
「負けてない」
みゆは即答する。
けれど図星だった。
頭の中に浮かぶのは昨日の四文字ばかりだった。
黒崎には見えなかった文字。
氷色なら読めるだろうか。
そんなことばかり考えていた。
◇◇◇
陸は朝から桃畑にいた。
朝日を浴びた桃が葉の間から顔を覗かせている。
甘い匂いが風に混じっていた。
「それ取ってくれ」
父が言う。
「おう」
陸は脚立へ登る。
手を伸ばして桃を一つもぎ取った。
その時だった。
ふと昨日のことを思い出す。
真っ黒だと言った黒崎の顔。
四つの文字。
春人のタブレット。
「どうした」
父が笑う。
「考え事か」
「別に」
「ふーん」
絶対信じていない顔だった。
陸は苦笑した。
◇◇◇
あかりは玄関で靴紐を結んでいた。
外はもう暑い。
開いた玄関から夏の空気が流れ込んでくる。
「どこ行くん?」
母が聞く。
「遊び」
「また探検か」
「まあそんな感じ」
あかりは笑った。
母も笑う。
詳しく説明するつもりはなかった。
どうせ説明しても信じてもらえない。
それに。
今日は絶対に氷室へ行く。
昨日の文字のことを聞かなければならない。
そんな気がしていた。
◇◇◇
午前九時。
神社の石段の下だった。
夏の陽射しが木々の隙間から差し込んでいる。
蝉の声が降るように響いていた。
最初に来たのは春人だった。
少しして陸が来る。
あかりが来る。
みゆが来る。
そして最後に。
「待たせた!」
蒼太が坂道を駆け下りてきた。
全然待っていなかった。
「持ってきた?」
息を切らしながら聞く。
春人は苦笑した。
そしてリュックからタブレットを取り出す。
画面を開く。
四人が覗き込む。
四つの文字はまだそこにあった。
昨日と同じ。
静かに。
何も変わらず。
「……消えてないな」
陸が言う。
「うん」
みゆも頷いた。
蒼太はじっと画面を見つめる。
そして小さく息を吐いた。
「よし」
誰も理由は聞かなかった。
聞かなくても分かる。
「行こう」
向かう場所は一つだった。
氷室。
あの文字の意味を知っているかもしれない。
たった一人のところへ。
神社の石段を上り。
木立の間の細い道を抜け。
五人は慣れた足取りで氷室へ向かっていた。
夏の陽射しは強い。
けれど森の中へ入ると空気が少し変わる。
蝉の声も遠くなる。
足元の土はひんやりとしていた。
誰もあまり喋らなかった。
いつもなら蒼太が何かしら話している。
けれど今日は違った。
全員の頭の中にあるのは同じものだった。
四つの文字。
ただそれだけだった。
◇◇◇
やがて。
氷室の入口が見えてきた。
石積みの小さな建物。
何度も通った場所なのに。
今日は少し違って見えた。
「行くぞ」
蒼太が言う。
そして先頭で中へ入っていった。
◇◇◇
氷室の中は相変わらず静かだった。
外の暑さが嘘みたいに涼しい。
石壁には薄く水滴が浮いている。
ぽたり。
どこかで水の落ちる音がした。
そして。
「来た」
声が聞こえた。
氷色だった。
いつもの場所にいる。
白い髪。
透き通るような瞳。
五人を見ると少し嬉しそうに笑った。
「おはよう」
「おはよう」
みゆが答える。
けれど挨拶はそこまでだった。
蒼太が一歩前へ出る。
「氷色」
「うん」
「見てほしいもんがある」
氷色は不思議そうに首を傾げた。
春人はリュックからタブレットを取り出す。
画面を開く。
そして差し出した。
「これ」
◇◇◇
氷色は画面を見る。
その瞬間だった。
表情が止まった。
「……」
誰も喋らない。
氷色は動かなかった。
ただ。
じっと文字を見ている。
今まで見たことがない顔だった。
春人は思わず息を止める。
「知っとるん?」
陸が聞いた。
氷色は少しだけ瞬きをする。
それから。
小さく頷いた。
「知ってる」
◇◇◇
一瞬だった。
五人全員が前へ乗り出した。
「読めるん!?」
蒼太が叫ぶ。
氷色は頷く。
けれど。
次の言葉は予想外だった。
「でも」
氷色は困ったように眉を下げた。
「思い出せない」
「は?」
蒼太の声が裏返る。
あかりも目を丸くする。
「読めるんじゃないん?」
「読める」
「じゃあ何て書いてあるん」
「わからない」
「どっちなん」
陸が思わず突っ込んだ。
◇◇◇
氷色はしばらく文字を見つめていた。
それから。
ゆっくりと話し始める。
「むかしは」
静かな声だった。
「ひとつの文字が」
「ひとつの意味だった」
蒼太が反応する。
「意味?」
氷色は頷いた。
「今みたいに」
「音じゃない」
「意味」
春人たちは顔を見合わせる。
なんとなく分かるような。
分からないような。
不思議な説明だった。
◇◇◇
氷色は一番左の文字を指差した。
少し考える。
目を閉じる。
思い出そうとしているようだった。
「これは……」
しばらく沈黙が続く。
やがて。
「たぶん」
氷色が言った。
「つながる」
誰も喋らなかった。
つながる。
それが一文字の意味。
そんなことがあるのだろうか。
◇◇◇
次の文字へ視線が移る。
「これは」
「ひと」
短い言葉だった。
けれど氷色は少しだけ自信があるようだった。
「ひと」
蒼太がノートへ慌てて書き込む。
◇◇◇
三つ目。
氷色は今度はあまり迷わなかった。
「こころ」
その言葉が氷室へ静かに落ちる。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちた。
誰も動かない。
誰も喋らない。
つながる。
ひと。
こころ。
意味はまだ分からない。
けれど。
なぜだか胸の奥が少しだけ温かくなるような言葉だった。
◇◇◇
そして。
最後の文字だった。
氷色はじっと見つめる。
長い時間見つめる。
けれど。
やがて首を横へ振った。
「……だめ」
小さく呟く。
「思い出せない」
悔しそうだった。
本当に。
悔しそうだった。
春人は初めて見た。
氷色が何かを思い出そうとしている姿を。
まるで遠い夢を追いかけるみたいに。
必死に手を伸ばしている姿を。
◇◇◇
氷色はもう一度文字を見る。
そして。
ぽつりと呟いた。
「でも」
五人が顔を上げる。
「たぶん」
氷色は少しだけ笑った。
「いいことば」
その言葉だけは。
不思議なくらい確信に満ちていた。
つながる。
ひと。
こころ。
そして。
まだ思い出せない最後の一文字。
意味は分からない。
けれど。
氷色の言う通りなのかもしれないと春人は思った。
胸の奥に灯った小さな光は、なぜだか消えそうになかった。
氷室の外では夏の風が木々を揺らしている。
その音を聞きながら。
春人はもう一度タブレットの文字を見つめた。
自分たちは今。
何かとても大切な言葉の入り口に立っている。
まだ一文字足りない。
それなのに。
そんな気がした。




