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第26話 見える人


 夏休みが始まって数日が過ぎていた。


 朝から強かった陽射しは昼を過ぎても勢いを弱める気配がない。


 森へ続く細い道にも夏の熱気が満ちていた。


 木々の葉は濃い緑色に輝き、どこからともなくセミの声が降り注いでくる。


 それでも。


 五人の足取りは軽かった。


 春人は汗を拭きながら前を歩く陸を見る。


 陸は相変わらず元気だった。


 ランドセルこそ背負っていないものの、探検へ向かうみたいな顔をしている。


「暑い」


 あかりが言った。


「そりゃ夏じゃし」


 陸が振り返る。


「知っとる」


「じゃあ言うな」


「言いたくなるんじゃ」


 みゆが笑う。


 蒼太だけは少し前を歩いていた。


 何か考え事をしているらしい。


「また考えとる」


 あかりが小声で言う。


「昨日からずっとじゃ」


 陸が苦笑した。


「磐座のことじゃろ」


「絶対そう」


 春人も思わず笑う。


 本人は気付いていない。


 けれど蒼太の頭の中はもう来週の見学会でいっぱいなのだろう。


 そんな話をしているうちに。


 見慣れた石段が現れた。


 森の奥にひっそりと隠れるようにある入口。


 氷室だった。


 ひんやりした空気が流れてくる。


 春人はほっと息を吐いた。


「生き返る」


「だから毎回言うな」


 陸が笑った。


 氷室の中は今日も静かだった。


 外の暑さが嘘みたいに涼しい。


 石の壁は冷たく。


 空気は少し湿っていて。


 奥の方から時々、水滴の落ちる音が聞こえてくる。


 ぽたり。


 静かな音だった。


「来たぞー」


 あかりが声を上げる。


 すると。


「きた」


 奥から返事が聞こえた。


 氷色だった。


 いつもの場所に座っている。


 青白い身体は薄暗い氷室の中でぼんやり光って見えた。


 春人は少しだけ安心する。


 来るたびに思う。


 本当にいるんだな、と。


 最初に見た時は夢みたいだった。


 けれど今は違う。


 氷色はちゃんとここにいて。


 ちゃんと話ができる。


 それが少し不思議だった。


「ひいろー」


 あかりが手を振る。


 氷色も小さく手を振り返した。


「きょうもきた」


「来る言うたじゃろ」


 陸が笑う。


 氷色も少しだけ笑った。


 しばらくは他愛もない話だった。


 学校のこと。


 夏休みの宿題のこと。


 陸の家の桃のこと。


 蒼太が五百円借金したこと。


「借金て言うな」


 蒼太が抗議する。


「借りたんじゃ」


「借金じゃろ」


「違う」


「同じじゃ」


 みんなが笑った。


 氷色も不思議そうに聞いている。


「しゃっきん?」


「お金返さんといけんやつ」


 あかりが説明する。


 氷色は少し考えた。


「たいへん」


「じゃろ?」


 陸が笑った。


 そんな時だった。


 春人はふと思い出した。


「そういえばさ」


 氷色を見る。


「歌は好きなん?」


 氷色が首を傾げる。


「うた」


「この前歌っとったじゃろ」


 蒼太が言った。


 その瞬間。


 氷色は困った顔になった。


「わからない」


「ああもう!」


 蒼太が頭を抱える。


 みんなが吹き出した。


 けれど。


 氷色は本当に覚えていないらしい。


 申し訳なさそうな顔をしている。


「まあまあ」


 みゆが笑う。


「好きか嫌いかなら分かるじゃろ?」


 氷色は少し考えた。


 そして。


「すき」


 小さく頷いた。


「じゃあ歌ってあげようや」


 あかりが言う。


 氷色は少し不思議そうな顔をした。


「うたう?」


「うん」


 みゆが頷く。


「学校で習ったやつ」


 春人は少し照れくさかった。


 けれど。


 なぜだか歌ってみたくなった。


 氷色が好きだと言うなら聞かせてあげたいと思ったのだ。


 小さく息を吸う。


 そして。


「うさぎ追いしかの山〜♪」


 歌い始めた。


 聞き慣れた歌だった。


 みゆも続く。


 あかりも。


 陸も。


 少し遅れて蒼太も加わった。


 氷室の中へ五人の歌声が広がっていく。


 石の壁に反響して。


 どこか遠くまで届いていくみたいだった。


 氷色は何も言わない。


 ただ静かに聞いていた。


 青い瞳を少しだけ見開いて。


 じっと。


 本当にじっと。


 歌が終わるまで。


 誰も喋らなかった。


 最後の音が消えていく。


 静かな沈黙が落ちた。


 ぽたり。


 奥で水滴が落ちる。


「どう?」


 あかりが聞く。


 氷色は少し考えた。


 言葉を探しているみたいだった。


 やがて。


「やさしい」


 小さく言う。


 それから。


 胸の辺りへ手を当てた。


「なんか」


 少しだけ首を傾げる。


「ここ」


「ここ?」


 春人が聞く。


 氷色は頷いた。


「ぽかぽかする」


 みんなが顔を見合わせた。


 そして笑った。


 なんだか嬉しかった。


 その時だった。


 氷色がふいに入口の方を見る。


 春人もつられて振り返った。


 森から差し込む光が石段を照らしている。


 けれど。


 誰もいない。


 風も吹いていない。


 葉の揺れる音だけが聞こえていた。


「どうしたん?」


 陸が聞く。


 氷色は少し不思議そうな顔をした。


「おじさん」


「え?」


 全員が振り返る。


「おじさん?」


「うん」


 氷色は入口を指差した。


「さっきいた」


 沈黙。


 春人は入口を見る。


 やっぱり誰もいない。


「誰もおらんかったぞ?」


 あかりが言う。


「かえった」


 氷色は当たり前みたいに答えた。


 そこで。


 蒼太がぴたりと動きを止めた。


 嫌な予感がした。


 春人にも分かった。


 たぶん今。


 蒼太の頭の中で何かが繋がった。


「待て」


 蒼太が言う。


 全員が察した。


 始まる。


「そのおじさん」


「うん」


「氷色見えたん?」


「うん」


「じゃあ話したん?」


「ない」


「なんで?」


 氷色は首を傾げる。


 そして。


 当たり前みたいに言った。


「みえないから」


 氷室の中が静かになった。


 ぽたり。


 水滴が落ちる。


 春人は思わず氷色を見る。


 今。


 何と言っただろう。


「は?」


 声が揃った。


「誰が?」


 蒼太が聞く。


「おじさん」


「おじさんから氷色見えんの?」


「うん」


「なんで!?」


「わからない」


「またそれじゃ!」


 蒼太が頭を抱える。


 陸が吹き出した。


 けれど。


 春人は笑えなかった。


 今の話は結構大きい。


「待って」


 みゆが静かに言う。


「じゃあ今まで氷室に来た人も?」


 氷色は頷いた。


「みえない」


「全員?」


「だいたい」


「だいたい?」


「たまに来る」


「来るんかい」


 陸が突っ込む。


 少しだけ笑いが起きた。


 けれど。


 春人の胸は妙にざわついていた。


「じゃあ」


 みゆが続ける。


「私たちは?」


 氷色は即答した。


「みえる」


 その言葉に。


 全員が黙った。


 自分たちだけ。


 見える。


 他の人には見えない。


 それはつまり。


 自分たちが特別だということなのだろうか。


 そんな考えが頭をよぎる。


「なんで?」


 春人が聞く。


 氷色は少し考えた。


 いつものように。


「わからない」


 そう答えそうになって。


 ふと。


 何かを思い出したみたいに目を瞬かせた。


「でも」


 五人が顔を上げる。


 氷色は春人たちを見た。


「みんな来た日」


 静かな声だった。


「ひかってた」


 数秒。


 誰も動かなかった。


 そして。


「はあぁ!?」


 蒼太が飛び上がった。


「何が!?」


「俺ら」


「どこが!?」


「全身!?」


「頭だけ!?」


「色は!?」


「青!?」


「白!?」


「虹!?」


「一個ずつ聞け!」


 陸が叫ぶ。


「待て待て待て待て!」


 蒼太が頭を抱える。


「つまりじゃぞ!」


「何が?」


 あかりが聞く。


「他の人には見えん!」


「うん」


「俺らには見える!」


「うん」


「来た時光っとった!」


「うん」


「完全に選ばれとるじゃろ!」


「何に」


 みゆが冷静に返した。


 氷色は少し困った顔をしていた。


「ひかってた」


「だからどう光っとったん!?」


「ひかってた」


「それしか言わん!」


 あかりが吹き出す。


 みゆも笑う。


 春人もつられて笑った。


 けれど。


 胸の奥は少しだけ落ち着かなかった。


 偶然じゃない。


 そんな気がした。


 その時だった。


 氷色がぽつりと呟く。


「いわくら」


 全員が振り返る。


「え?」


 蒼太の目が光った。


「今なんて言った?」


 氷色は首を傾げる。


 そして。


 自分でも不思議そうに言った。


「わからない」


 ぽたり。


 水滴が落ちる。


 氷色は遠くを見るみたいに目を細めた。


「でも」


 小さな声だった。


「しってる」


 誰も返事ができなかった。


 氷室の中には静かな空気だけが流れていた。


 蒼太は何か言おうとして。


 結局何も言えなかった。


 春人はそんな蒼太を初めて見た気がした。


 いつもなら次々と言葉が出てくるのに。


 今だけは違う。


 氷室の奥で落ちる水滴の音だけが、妙にはっきり聞こえていた。

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