第24話 石の歌
氷室の中へ静かな空気が流れていた。
さっきまで響いていた歌はもう消えている。
壁を照らしていた青白い光も。
今は何事もなかったみたいに静まり返っていた。
聞こえるのは、どこかで落ちる水滴の音だけだった。
ぽたり。
静かな音が石壁へ反響する。
誰もすぐには喋れなかった。
春人はまだ胸の奥がざわざわしていた。
あの歌。
意味は分からない。
言葉も分からない。
けれど。
なぜだか忘れたくない気がした。
「今」
最初に口を開いたのは蒼太だった。
「光ったよな?」
全員が顔を上げる。
「光った」
陸が即答する。
「見た」
みゆも頷いた。
「絶対光った!」
あかりも力強く言う。
蒼太は氷色へ振り返った。
「氷色!」
「ん」
「今のじゃ!」
「うん」
「歌!」
「うた?」
「歌ったやつ!」
氷色は首を傾げた。
「……?」
一瞬。
嫌な予感がした。
「覚えとらんの?」
蒼太が聞く。
氷色は少し考える。
そして。
「……なにを?」
氷室の中へ沈黙が落ちた。
蒼太が両手で顔を覆う。
「ああぁぁぁぁぁ!」
「うるさい」
氷色が真顔で言った。
陸が吹き出した。
あかりも笑う。
みゆまで肩を震わせている。
春人も思わず笑ってしまった。
蒼太だけが納得していなかった。
「いやいやいや!」
両手をぶんぶん振る。
「今じゃ!」
「今?」
「歌ったじゃろ!」
「……?」
「なんで覚えとらんの!?」
「わからない」
「またそれじゃ!」
氷色は本当に分からないらしかった。
不思議そうな顔でこちらを見ている。
春人はその顔を見ながら思った。
たぶん。
氷色は嘘をついていない。
さっき見た景色も。
歌も。
思い出した瞬間だけ見えて。
すぐ霧みたいに消えてしまうのだ。
まるで夢のように。
目が覚めたら忘れてしまうみたいに。
それが少しだけ切なかった。
ぽたり。
水滴が落ちる。
氷室の中へ静かな時間が流れる。
その時だった。
遠くから音が聞こえてきた。
かすかに。
本当にかすかに。
けれど確かに。
「あ」
陸が顔を上げる。
春人も気付いた。
防災無線だった。
石壁の向こうから、夕方のメロディーが微かに聞こえてくる。
「五時じゃ」
あかりが言う。
「もう?」
蒼太が驚く。
「もうじゃ」
陸が笑った。
気付けばずいぶん長い時間ここにいたらしい。
外ではまだセミが鳴いているだろう。
夕方の風も吹いているだろう。
けれど。
氷室の中にいると時間の感覚がおかしくなる。
「帰らんと」
みゆが立ち上がる。
みんなも慌てて荷物をまとめ始めた。
デイバックを背負う。
タブレットをしまう。
蒼太だけはまだ未練たっぷりだった。
「まだ聞きたいことあるのに」
「明日でええじゃろ」
陸が言う。
「明日も来るん?」
氷色が聞いた。
その声に。
五人は一瞬だけ顔を見合わせる。
「来る」
あかりが即答した。
「来るな」
陸も頷く。
「来る」
蒼太も言う。
「絶対来る」
春人も笑った。
氷色は少しだけ目を見開く。
それから。
ほんの少し嬉しそうに笑った。
「……うん」
小さな声だった。
そして。
少し考えるように首を傾げる。
「まってる」
その言葉に。
春人は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
その時だった。
「なあ」
蒼太がぽつりと言う。
全員が振り返る。
蒼太は壁の文字を見ていた。
さっきまで光っていた石壁。
今はもう静まり返っている。
「今の歌」
誰もすぐには返事をしなかった。
みんな同じことを考えていたからだ。
「なんか意味あるんかな」
春人も壁を見る。
意味。
それは自分も知りたかった。
あの歌は何だったのだろう。
あの言葉は。
あの光は。
「昔の歌なんじゃない?」
あかりが言う。
「昔?」
「氷色が見た人たちの」
蒼太が顔を上げた。
「ありえる」
真顔だった。
「ありえるじゃろ」
もう完全に考え始めている。
「祭りとか」
陸が言う。
「祭り?」
「だって歌っとったんじゃろ?」
陸は肩をすくめる。
「昔の祭りとかじゃねえん」
みゆが少し考える。
「おじいちゃんが言っとった」
「何を?」
蒼太が食いつく。
「昔は神様に歌を捧げたりしよったって」
「歌を?」
春人が聞き返す。
みゆは頷いた。
「詳しくは知らんけど」
そこで少し首を傾げる。
「石とか山とか」
「石?」
蒼太の目が光る。
「どんな石!?」
「知らん!」
みゆが慌てて答えた。
陸が吹き出す。
あかりも笑った。
蒼太だけが本気だった。
「絶対なんかある」
「始まった」
陸が言う。
「始まったな」
あかりも頷く。
氷色はそのやり取りを不思議そうに見ていた。
けれど。
どこか楽しそうだった。
蒼太が熱心に考え込み。
明かりが笑い。
陸が呆れたように肩をすくめる。
そんな様子を見ながら。
氷色も少しだけ笑っていた。
氷色はずっと待っていたのだ。
どれくらい長い時間かは分からない。
何を待っていたのかも分からない。
けれど。
今は少なくとも。
自分たちを待っていてくれる。
そんな気がした。
五人は氷室を後にした。
外へ出ると。
夕方の光がまぶしかった。
森の緑が風に揺れている。
セミの声が一気に押し寄せてくる。
夏だった。
空はまだ青い。
けれど西の方は少しだけ橙色に染まり始めていた。
春人は振り返る。
森の奥。
氷室の入口はもう見えなかった。
それでも。
あの中に氷色がいることだけは分かっていた。
翌日の昼過ぎだった。
陸の家ではセミが大合唱を続けていた。
庭先には桃の箱が積まれている。
少し離れた畑では、風に揺れるぶどう棚が陽射しを受けてきらきら光っていた。
夏休みらしい景色だった。
その時。
「おーい!」
元気な声が聞こえた。
陸が縁側から顔を上げる。
「あ」
思わず笑った。
見慣れた顔だった。
自転車を止めながら手を振っている。
世話人の杉谷さんだった。
「陸おるかー?」
「おるおる」
「夏休み満喫しとるか」
「しとる」
「宿題は?」
「聞くな」
杉谷が大笑いする。
「安心した」
「何がじゃ」
「ちゃんと小学生しとる」
そう言いながら肩のバッグをがさごそ探る。
そして。
にやりと笑った。
「面白そうなん見つけたぞ」
「ほれ」
「回覧板じゃ」
「母ちゃんおらんけど」
「ほんなら預けとく」
そう言いながら一枚のチラシを取り出した。
陸は何気なく受け取る。
そして。
「ん?」
思わず手を止めた。
大きく書かれていた。
⸻
【夏休み特別企画】
【甘岩周辺 古墳・磐座めぐり】
【貸切バス見学会】
【参加費 二〇〇〇円】
⸻
陸の目が丸くなる。
「磐座?」
「おう」
杉谷がにやりと笑った。
「面白そうじゃろ?」
陸はチラシを見つめる。
古墳。
巨石。
磐座。
その文字が目へ飛び込んでくる。
そして。
一人の顔が頭に浮かんだ。
「蒼太」
思わず呟く。
「ん?」
「絶対食いつく」
杉谷が吹き出した。
「なんじゃそれ」
陸はもうチラシから目を離せなかった。
なぜだか分からない。
けれど。
氷色の歌を聞いた翌日に。
こんなものが回ってくるなんて。
偶然とは思えなかった。
夏の風が吹く。
チラシの端がぱらりと揺れた。
その下には小さく書かれていた。
⸻
【定員二十名】
【先着順】
⸻
陸は顔を上げる。
そして。
にやりと笑った。
「やばい」
「ん?」
「蒼太に見せたら絶対食いつく」
杉谷が吹き出した。
「そりゃ食いつくじゃろうな」
陸はチラシを握りしめる。
今すぐ飛び出したい気持ちはあった。
けれど外を見ると、もう陽は傾き始めている。
「まあ……」
頭をかく。
「今日は遅いか」
「明日にしとけ明日に」
杉谷が笑った。
「どうせ逃げん」
「それもそうじゃな」
陸は頷いた。
明日の朝一番で行こう。
そう決める。
きっと蒼太は大騒ぎする。
あかりも食いつく。
みゆも興味を持つはずだ。
春人はたぶん首を傾げる。
そんな顔が次々浮かんで。
陸はひとりで笑った。
その頃。
まだ誰も知らなかった。
この一枚のチラシが。
五人を次の秘密へ連れていくことになることを。




