第23話 思い出
氷室の中へ静かな空気が流れていた。
氷色に名前がついてから、まだそれほど時間は経っていない。
けれど。
氷色は何度も自分の名前を口にしていた。
「……ひいろ」
小さな声だった。
まるで新しく見つけた宝物を確かめるみたいに。
呼ばれるたびに嬉しそうだったし、自分で言う時もどこか楽しそうだった。
春人は思わず笑う。
名前なんて、ずっと前からあるのが当たり前だと思っていた。
けれど。
初めて名前を持つというのは、こんな気持ちなのかもしれない。
「まだ言うとる」
あかりが吹き出した。
「好きなんじゃろ」
陸も笑う。
氷色は首を傾げた。
「……すき」
その言葉を繰り返す。
それから少し考えるように黙り込んで。
やがて小さく頷いた。
「すき」
今度は少しだけ嬉しそうだった。
その顔を見て。
みゆもふっと笑う。
氷色はまだ知らないことだらけだ。
知らない言葉もある。
知らない気持ちもある。
けれど。
少しずつ覚えている。
そんな気がした。
その時だった。
「よし」
蒼太が勢いよく立ち上がる。
「あ」
あかりが言った。
「始まった」
「始まったな」
陸も頷く。
蒼太はまったく気にしない。
目はもう壁の文字へ向いていた。
「氷色!」
「ん」
「まだ聞きたいことがある!」
「いっぱい」
「いっぱいじゃ!」
即答だった。
氷色が少し笑う。
どうやら蒼太のことが分かってきたらしい。
「この文字じゃ」
蒼太が壁を指差す。
青白い文字。
石壁いっぱいに刻まれた不思議な記号。
最初に見た時よりも読めるようになった気がするのに、やっぱり意味は分からない。
「これ誰が作ったん?」
氷色も壁を見る。
その瞬間だった。
春人は少し違和感を覚えた。
返事がない。
いつもなら。
分からない時はすぐに「わからない」と答える。
けれど。
今は違った。
氷色は壁を見つめたまま動かない。
青い瞳が文字を追っている。
まるで。
何かを思い出そうとしているみたいに。
氷室の奥で、ぽたりと水滴が落ちた。
その音だけが静かに響く。
「氷色?」
みゆが呼ぶ。
すると。
氷色が小さく瞬きをした。
「……あ」
春人は思わず顔を上げた。
今の声は。
今までの氷色とは少し違った。
何かを見つけた時の声。
そんな気がした。
「何?」
蒼太が身を乗り出す。
氷色はゆっくり壁へ手を伸ばした。
光る文字へ指先が触れる。
その途端。
青白い光がわずかに揺れたように見えた。
「……いた」
小さな声だった。
「誰が?」
蒼太がすぐに聞く。
氷色は少し考える。
言葉を探している。
遠い遠い場所から引っ張り出してくるみたいに。
「いっぱい」
やがて。
ぽつりと呟いた。
「たくさん」
そして。
壁の向こうを見るように目を細める。
「みんな」
その声は少し遠かった。
春人は息を呑む。
今の氷色は、自分たちを見ていない。
もっと遠く。
もっと昔の何かを見ている。
「人?」
蒼太が聞く。
氷色は少し迷った。
そして。
「……たぶん」
答える。
「たぶんって何じゃ」
「わからない」
「そこは分からんのかい」
全員が同時に突っ込んだ。
氷色は少し困った顔をする。
けれど。
視線はまた壁へ戻っていった。
「明るかった」
ぽつりと呟く。
氷室が静かになる。
「明るかった?」
春人が聞き返す。
氷色は頷いた。
指先はまだ壁へ触れたままだった。
「ここ」
静かな声。
「もっと」
少しだけ首を傾げる。
言葉を探している。
けれど。
どうしてもうまく見つからないらしい。
それでも。
ようやく一つの言葉が零れた。
「ひかりがあった」
「……声」
氷色が小さく呟く。
「いっぱい聞こえた」
それから、少しだけ笑った。
「たのしそうだった」
その小さな笑みが消えていくのを見ながら、蒼太はまだ何か言いたそうな顔をしていた。
けれど、春人は別のことが気になっていた。
さっき氷色が見ていた景色。
明るかった場所。
たくさんの声。
楽しそうだった人たち。
それは今の氷室とはまるで違う世界だった。
だからこそ。
春人は自然と口を開いていた。
「氷色」
「ん」
「その人たちはどこ行ったの?」
氷色は返事をしなかった。
青白い文字の並ぶ壁を見つめたまま動かない。
まるで。
遠く遠くにある何かを探しているみたいだった。
氷室の奥で、ぽたりと水滴が落ちる。
静かな音だった。
けれど今は妙にはっきり聞こえた。
やがて。
氷色の唇がゆっくり動く。
「……わからない」
小さな声だった。
それから。
少しだけ目を伏せる。
「みんな」
そこで言葉が止まる。
春人は黙って待った。
誰も急かさない。
氷色自身が何かを思い出そうとしていることが分かったからだ。
長い沈黙のあと。
ようやく続きが零れた。
「……きえた」
その瞬間。
氷室の空気が少しだけ変わった気がした。
誰もすぐには返事をしない。
蒼太も。
陸も。
あかりも。
みゆも。
ただ氷色を見ていた。
氷色は壁を見ている。
けれど。
その表情が少し変だった。
春人は思わず息を呑む。
氷色が胸の辺りを押さえていた。
光でできた指先が、小さく震えている。
「氷色?」
呼びかける。
返事はなかった。
青い瞳が揺れている。
困っているような。
苦しんでいるような。
そんな顔だった。
今まで見たことがない。
名前をもらった時も。
笑った時も。
こんな顔はしていなかった。
「……いや」
ぽつりと声が落ちる。
五人が一斉に顔を上げた。
「え?」
あかりが思わず聞き返す。
氷色自身も驚いたように目を見開いていた。
まるで。
自分の口から出た言葉に驚いているみたいだった。
「いや……」
胸を押さえる。
苦しそうに。
何かを振り払うみたいに。
「いやだ」
静かな声だった。
けれど。
その言葉だけははっきり聞こえた。
春人の胸がどくりと鳴る。
氷色は覚えていないはずだった。
何も分からないと言っていた。
それなのに。
今だけは違った。
忘れていたはずの何かが。
胸の奥から溢れ出しているようだった。
そして。
その時だった。
「あー……」
誰も歌えとは言っていない。
けれど。
氷色の口から静かな声が零れた。
それは歌だった。
聞いたことのない言葉。
聞いたことのない響き。
けれど不思議と耳から離れない。
「アー……イーラ……ムー……ナー……」
囁くような声だった。
大きくもない。
強くもない。
それなのに。
歌声は静かな水面へ落ちた波紋みたいに、ゆっくりと氷室の中へ広がっていく。
春人は息を呑んだ。
意味なんて分からない。
どこの国の言葉なのかも分からない。
それなのに。
なぜだか胸の奥が締め付けられる。
懐かしい。
そんなはずないのに。
帰りたい。
そんな場所知らないのに。
どうしてだろう。
隣を見る。
みゆも黙っていた。
あかりも。
陸も。
蒼太でさえ何も言わない。
みんなただ歌を聞いていた。
「アー……ヨーラ……モー……ウー……」
歌声が静かに続く。
優しい歌だった。
けれど。
どこか寂しい。
まるで。
遠く離れてしまった誰かへ向かって呼びかけているみたいに。
その時だった。
ふっと。
壁の文字が光った。
春人は目を見開く。
青白い光だった。
一つ。
また一つ。
石壁へ刻まれた文字が順番に輝いていく。
まるで歌に応えるように。
まるでその歌を知っているように。
「な……」
蒼太が息を呑む。
誰も動けなかった。
氷色は気付いていない。
ただ静かに歌い続けている。
けれど。
文字は確かに光っていた。
歌が終わる。
すると。
文字の光もゆっくり消えていった。
氷室の中へ静寂が戻る。
聞こえるのは水滴の音だけだった。
氷色は不思議そうに周囲を見回している。
何が起きたのか分からないらしい。
その姿を見ながら。
春人は胸の鼓動が速くなるのを感じていた。
今の歌は何だったのだろう。
あの言葉は。
あの光は。
そして。
氷色が失くしてしまった記憶の先には。
まだ誰も知らない何かが眠っている。
春人には、そんな気がした。




