第22話 名前
氷室の中へ静かな沈黙が落ちていた。
名前がない。
その事実に、五人はそれぞれ違う驚きを感じていた。
春人は思わずその子を見る。
目の前にいる。
ちゃんといる。
話もできる。
笑うこともできる。
それなのに。
名前がない。
そんなことがあるのだろうか。
その子は不思議そうな顔をしていた。
まるで名前がないことの方が普通みたいに。
「じゃあ……」
みゆが小さく呟く。
その瞬間だった。
「待って」
声がした。
全員が振り返る。
蒼太だった。
今までほとんど喋らなかった蒼太が、ようやく口を開いた。
「え?」
あかりが首を傾げる。
蒼太は答えない。
ただ。
その子を見ていた。
ずっと。
瞬きも忘れたみたいに。
「蒼太?」
春人が呼ぶ。
蒼太はゆっくり顔を向けた。
それからまた、その子を見る。
「……見えとる?」
一瞬。
全員が固まった。
「見えとるじゃん」
あかりが言う。
「全員?」
「全員」
「本当に?」
「本当に」
蒼太はしばらく黙っていた。
そして。
両手で顔を覆う。
「いや待って」
ぶつぶつ呟く。
「待って待って待って」
「どうしたん?」
陸が聞く。
蒼太は顔を上げた。
その目は、今にも泣きそうだった。
「本当におる」
「おるな」
「喋った」
「喋ったな」
「文字が光った」
「光ったな」
「氷室じゃぞ?」
「氷室じゃな」
陸が全部返す。
蒼太は頭を抱えた。
「なんでみんなそんな冷静なん!?」
思わず叫ぶ。
その声が氷室へ響き渡った。
その子がびくりと肩を震わせる。
「あ」
蒼太は慌てた。
「ご、ごめん!」
その子は少し驚いた顔をしたまま頷く。
「……だいじょうぶ」
その返事に。
蒼太は固まった。
春人は気付いた。
蒼太が興奮しているんじゃない。
追いついていないのだ。
今まで信じてきたものが。
調べ続けてきたものが。
全部目の前に現れてしまって。
頭が追いついていない。
「俺……」
蒼太はその子を見る。
白銀の髪。
泉のような瞳。
光でできた曖昧な身体。
何年も本で読んだ。
何年も調べた。
誰にも信じてもらえなかった。
それが今。
目の前にいる。
蒼太は少し震える声で言った。
「……本当におったんじゃな」
氷室が静かになる。
その子は蒼太を見る。
その言葉の意味を考えるみたいに。
しばらくして。
小さく頷いた。
「……うん」
たった一言だった。
けれど。
蒼太はそれだけで十分だった。
小四の頃から追いかけていたものが。
誰にも証明できなかったものが。
今。
自分の言葉に返事をしている。
春人は蒼太の顔を見る。
笑っていた。
けれど。
少しだけ泣きそうだった。
その時だった。
「じゃあ名前決めよう!」
あかりが元気よく言った。
「待てぇ!」
蒼太が即座に叫ぶ。
全員が吹き出した。
「まだ聞きたいこと百個ある!」
「多いな」
陸が笑う。
「百個どころじゃない!」
「落ち着け」
「無理じゃ!」
そのやり取りを見て。
その子は目をぱちぱちさせていた。
そして。
口元が少し緩んだ。
「笑った!」
あかりが飛び上がる。
「今笑ったよな!?」
その子はきょとんとしている。
何がおかしいのか分からないらしい。
けれど。
春人には分かった。
きっとその子も嬉しいのだ。
一人じゃなくなったことが。
「名前じゃ」
あかりが身を乗り出した。
「名前決めよう!」
その子は首を傾げる。
「……なまえ」
「そう」
みゆが優しく頷いた。
「呼ぶためのもの」
その子は少し考える。
誰かが自分を呼ぶ。
その感覚がまだよく分からないみたいだった。
けれど。
嫌ではなさそうだった。
「じゃあ会議じゃ!」
あかりが床へ座り込む。
「名前会議!」
「なんの会議じゃ」
陸が笑う。
春人もつられて笑った。
さっきまであんなに緊張していたのが嘘みたいだった。
氷室の中にはもう、怖さよりも楽しさの方が多かった。
「じゃあ最初はあかり」
陸が言う。
あかりが勢いよく手を挙げる。
「ゆき!」
「犬じゃろ」
蒼太が即答した。
「犬じゃない!」
「近所の犬の名前じゃ」
「うっ」
あかりが詰まる。
陸が吹き出した。
春人も笑う。
その子も、みんなの顔を見ていた。
何がおかしいのか分からないのに。
なんだか楽しそうだった。
「次」
春人が言う。
「白いから……シロ」
「犬じゃん」
全員が即答した。
「なんでだよ」
春人が苦笑する。
そのやり取りに、その子の口元がまた少しだけ緩む。
それを見て。
みゆが小さく微笑んだ。
「氷色は?」
静かな声だった。
みんなが振り返る。
「ひいろ?」
あかりが聞き返す。
みゆは少し照れながら頷いた。
「氷みたいじゃから」
その子を見る。
「透き通っとるし」
「綺麗じゃし」
そこまで言って。
少し困ったように笑った。
「それに……なんとなく」
その言葉を聞いた瞬間だった。
春人は不思議な気持ちになった。
なんとなく。
本当にそれだけなのに。
その名前は最初からそこにあったみたいにしっくりきた。
「氷色か」
陸が呟く。
「ええな」
「俺も好きじゃな」
蒼太も頷いた。
「いいじゃん!」
あかりが笑う。
自然と全員が頷いていた。
そして。
五人の視線が一斉に集まる。
その子へ。
「どうじゃ?」
陸が聞く。
その子は少し目を見開いた。
「……どう?」
「その名前」
春人が言った。
「嫌じゃない?」
しばらく沈黙が続く。
その子はみんなを見る。
春人を見る。
蒼太を見る。
陸を見る。
みゆを見る。
あかりを見る。
それから。
小さな声で言った。
「……ひいろ」
初めてだった。
自分で。
自分を呼ぶ。
「ひいろ」
もう一度。
泉のような青い瞳が少しだけ揺れる。
まるで遠い遠い記憶のどこかへ触れたみたいに。
氷色はそっと胸の辺りへ手を当てた。
「ひいろ……」
その響きを確かめるように。
大事に抱えるように。
何度も小さく繰り返す。
そして。
ほんの少し微笑んだ。
「……好き」
その瞬間。
「あーっ!」
あかりが飛び上がった。
「かわいい!」
「決まりじゃな」
陸が笑う。
「異議なし」
蒼太も手を挙げた。
春人は氷色を見る。
氷色もこちらを見ていた。
少し照れたみたいに。
少し嬉しそうに。
「……ひいろ」
もう一度。
今度は前より自然に。
その名前を呼んだ。
それが。
氷色が初めて手に入れたものだった。
氷室の中へ、しばらく静かな時間が流れる。
誰も喋らない。
氷色も。
五人も。
ただその名前を味わうみたいに。
「……ひいろ」
氷色がもう一度呟く。
少し照れたように。
少し嬉しそうに。
春人はなんだか胸の奥が温かくなるのを感じた。
名前をつけただけなのに。
さっきまで「誰か」だった存在が、急に近くなった気がした。
その時だった。
「じゃあ!」
蒼太が勢いよく立ち上がる。
全員が振り向いた。
「始まった」
陸が即座に言う。
「始まったな」
あかりも頷く。
蒼太は気にしない。
もう完全にスイッチが入っていた。
「氷色!」
「ん」
「聞きたいことがある!」
「うん」
「百個くらい!」
「多い」
氷色が真顔で答えた。
一瞬。
全員が固まる。
そして。
「返した!」
あかりが叫んだ。
「会話しとる!」
「するじゃろ」
陸が笑う。
蒼太はそんなことどうでもよかった。
「まずこれじゃ!」
壁を指差す。
青白い光がまだ淡く残る文字。
五人の視線も自然とそちらへ向く。
「この文字なんなん!?」
氷色も壁を見る。
しばらく黙る。
まるで遠い記憶を探しているみたいだった。
「……ことば」
「知っとる!」
蒼太が即答した。
氷室へ笑い声が広がる。
「そうじゃなくて!」
蒼太は慌てて言い直す。
「どういう文字なん!?」
氷色は少し考える。
言葉を選ぶように。
「ことばで」
そこで止まる。
春人は続きを待った。
氷色は壁へ触れる。
青白い光が指先を淡く照らした。
「……ちから」
「力?」
春人が聞き返す。
氷色は頷く。
「むかしは」
静かな声だった。
「ことばは」
少しだけ目を伏せる。
「形だった」
誰もすぐには理解できなかった。
言葉が。
形?
どういう意味だろう。
春人が考えている横で。
「ほら!」
蒼太が突然叫ぶ。
「ほらぁ!」
「何が!」
あかりが負けずに叫ぶ。
「やっぱりじゃ!」
「だから何が!」
蒼太は興奮していた。
顔まで真っ赤だった。
「いや、その……」
言葉に詰まる。
「ほら、あれじゃ!」
「どれじゃ!」
「ほら!」
「分からん!」
「俺も分からん!」
「分からんのかい!」
全員のツッコミが重なった。
氷色は目をぱちぱちさせる。
それから。
ふっと笑った。
今度は前より少しだけ大きく。
その笑顔を見て。
蒼太はまた固まった。
「笑った……」
「笑ったな」
陸が頷く。
「今笑った」
「ああ笑った」
あかりも頷く。
蒼太はなぜか安心したような顔になった。
「よかった……」
「何がじゃ」
陸が聞く。
蒼太は少しだけ照れたように頭を掻く。
「いや」
それから。
氷色を見る。
「ちゃんと笑えるんじゃなって」
氷色は首を傾げる。
意味が分からないらしい。
けれど。
蒼太はそれ以上説明しなかった。
自分でもうまく言葉にできなかったからだ。
ただ。
目の前の存在が。
寂しそうなだけの存在じゃなくて。
ちゃんと笑えることが。
なぜだか嬉しかった。
氷室の中へ、少しだけ優しい空気が流れる。
その沈黙を破ったのは。
やっぱり蒼太だった。
「次!」
「早い!」
あかりが叫ぶ。
「まだある!」
「知っとる!」
蒼太は身を乗り出す。
その目は本気だった。
「氷色は人なん?」
氷色は瞬きをした。
そして。
少しだけ困ったように首を傾げた。
「……わからない」
蒼太の質問タイムは、そこから完全に止まらなくなった。
「じゃあ人じゃないなら何なん?」
「わからない」
「いつからおるん?」
「わからない」
「ここ何年?」
「わからない」
「何十年?」
「わからない」
「百年?」
「わからない」
「千年?」
「わからない」
「お前ほんまに何も分からんな!?」
「うん」
氷色は素直に頷いた。
蒼太は頭を抱えた。
「うわぁぁぁぁ」
「落ち着け」
陸が肩を叩く。
「無理じゃ!」
即答だった。
氷色は不思議そうに見ている。
まるで蒼太の方が謎の生き物みたいだった。
「じゃあ!」
蒼太は諦めない。
「なんでタブレット使えたん!?」
その質問に。
初めて氷色の表情が少し変わった。
考えている。
今までより少し長く。
「……近かった」
「近かった?」
春人が聞き返す。
氷色は頷く。
「声が」
静かな声だった。
「声?」
「うん」
氷色は春人を見る。
「聞こえた」
春人は目を瞬く。
「俺の?」
「うん」
蒼太が勢いよく立ち上がる。
「なんで春人なん!?」
「近かったから」
「だから何が近かったん!?」
「声」
「だから声って何なん!?」
「蒼太」
みゆが言った。
「落ち着き」
「無理」
即答だった。
あかりが吹き出す。
「蒼太ずっと無理しか言っとらん」
「無理なもんは無理じゃ!」
氷色はまた少し笑った。
今度は前より自然だった。
そして。
そのまま壁の文字へ視線を向ける。
「むかしは」
ぽつりと言った。
五人が静かになる。
氷色は壁を見つめている。
まるで。
誰かの思い出を見ているみたいに。
「むかしは」
もう一度。
「ことばは」
少しだけ目を細める。
「いのちだった」
誰も喋らなかった。
意味が分からない。
けれど。
なぜか大事な言葉だということだけは分かった。
氷室の空気が少し変わる。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちる。
蒼太でさえ黙っていた。
その時だった。
「どういう意味なん?」
あかりが聞く。
氷色はしばらく考えた。
そして。
小さく首を振る。
「……わからない」
全員がずっこけた。
「またかい!」
陸が突っ込む。
「大事そうじゃったのに!」
あかりも叫ぶ。
氷色は少し困ったような顔になる。
「ごめん」
「謝らんでええ!」
蒼太が慌てて言った。
「むしろありがとうじゃ!」
「何が?」
陸が聞く。
蒼太は真顔だった。
「分からんけど、絶対大事じゃ」
「それは分かる」
春人も頷いた。
氷色は五人を見る。
春人。
蒼太。
陸。
みゆ。
あかり。
その瞳が少しだけ揺れた。
「……みんな」
「ん?」
あかりが返事をする。
氷色は少し迷った。
言葉を探しているみたいだった。
そして。
「やさしい」
一瞬。
五人が固まる。
次の瞬間。
「えっ」
あかりが真っ赤になる。
「な、なん急に!」
「知らん!」
陸まで照れていた。
蒼太はもっとひどかった。
「いやいやいや!」
「なんで否定するん!」
春人が笑う。
氷色は首を傾げる。
本当に思ったことを言っただけらしい。
その姿を見て。
五人はまた笑った。
五人はしばらく質問を続けた。
けれど。
返ってくる答えは「わからない」が多かった。
何者なのか。
いつからいるのか。
なぜここにいるのか。
氷色自身にも分からないらしかった。
それでも。
誰もが少しずつ分かり始めていた。
氷色は嘘をついていない。
本当に覚えていないのだ。
長すぎる時間の中で。
大事な何かだけを残して。
他は全部ぼやけてしまったみたいに。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちる。
静かな音だった。
その時。
春人はふと思ったことを口にした。
「氷色」
「ん」
「ずっと一人だったん?」
氷色は首を傾げた。
「ひとり?」
「ここに」
春人は氷室を見回す。
「ずっと」
氷色は黙った。
少しだけ目を伏せる。
考えている。
遠い何かを思い出そうとしている。
そんな顔だった。
やがて。
小さな声が返ってくる。
「……たぶん」
氷室の中が静かになる。
誰も何も言わなかった。
夏休みの子どもたちでさえ。
その返事が妙に重く感じられた。
たぶん。
ということは。
それすら曖昧になるほど長い時間だったのだ。
みゆがそっと聞く。
「寂しくなかったん?」
氷色は瞬きをした。
その言葉がよく分からないみたいに。
「さみしい?」
「うん」
みゆが頷く。
「一人じゃったんじゃろ?」
氷色は黙る。
しばらく。
本当に長い間。
誰も喋らなかった。
ぽたり。
水滴の音だけが響く。
そして。
氷色は小さく呟いた。
「……まってた」
五人が顔を上げる。
「え?」
あかりが聞き返した。
氷色は壁を見る。
青白い文字を見る。
ずっとそこにあったものを見るみたいに。
「まってた」
もう一度。
今度は少しだけはっきりと。
春人は息を呑んだ。
「誰を?」
その問いに。
氷色は静かに首を振る。
「……わからない」
また。
わからない。
けれど。
今までの「わからない」とは少し違った。
忘れてしまっただけなのだと。
そんな気がした。
氷色はゆっくりと五人を見る。
春人を見る。
蒼太を見る。
陸を見る。
みゆを見る。
あかりを見る。
そして。
少しだけ笑った。
最初よりずっと自然に。
最初よりずっと柔らかく。
「でも」
小さな声だった。
「みんなが来た」
五人は黙ったまま聞いている。
氷色は胸の前で両手を握る。
まるで。
自分の気持ちを確かめるみたいに。
「だから」
一瞬だけ言葉に迷う。
それから。
少し照れたように笑った。
「……うれしい」
氷室の中へ静かな沈黙が落ちた。
誰もすぐには喋れなかった。
春人は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じる。
たぶん。
みんな同じだった。
氷色が何者なのかはまだ分からない。
どうしてここにいるのかも分からない。
壁の文字の意味も。
この氷室の秘密も。
何一つ分かっていない。
けれど。
一つだけ確かなことがあった。
氷色はもう、
文字の向こう側にいる誰かではない。
自分たちの友達だった。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちる。
氷室の外では。
相変わらずセミたちが鳴いていた。
夏はまだ始まったばかりだった。




